自由自在の観自在、真言密教を土台に独自体感論から、自分で納悳する自己解釈、そして弥勒は釈迦になり、釈迦と弥勒(師弟)の遊び場を産みだす慈母=大日如来へと繋がっていく後編
続(俗)大日如来とは?
「無相の法身と無二無別なり(姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である)」[7]という如来の一尊。通常、仏の悟りの境地そのものである法身は、色も形もなく、説法もしないとされるが、大日如来は法身でありながら説法を行うという[8]。また、それは過去・現在・未来の三世にわたっているとされる[9]。 大日如来の「智」の面を表したのが金剛界の大日如来であり、「理」の面を表したのが胎蔵界の大日如来であるとされ[5]、この金剛界の智法身と、胎蔵界の理法身は一体不可分であるとされる[10]。 金剛界の大日如来は智拳印を結んで周囲に阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の四仏を置く[5]。これを金剛界五仏という[5]。また、胎蔵界の大日如来は中台八葉院の中央に位して法界定印を結ぶ[5]。東密では、顕教の釈迦如来と大日を別体としているが、台密では同体としている[5]。
今日はここから感じるエネルギーを読み取っていこう
「無相の法身と無二無別なり(姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である)」
これについては、前編で辿り着いた私の見解と一致する
大日如来は法身でありながら説法を行うという[8]。また、それは過去・現在・未来の三世にわたっているとされる
法身でありながら『説法を行う』というのは『方針を示す』という事。これが『音写』の面白い所で、先人達が『過去から現在まて繋いできた言葉』がある『現代』だからこそ『違う観点で訳詞て捉える事』ができる
故に『訳す』というのは、とても重要な『解釈』である
釈=問題を解決する 解=ほどく、とく
もしも、過去・現在・未来の三世を、先人が『今の心』で『果ては仏』として『因果念仏』を『真言(言霊)』で『後世に伝える』としたら
意味(忌)は違えど『音』は伝わる
その音を『オン・恩』として『訳す』事ができれば、それは『過去から今(現代)』へと継承される
そして因果に『心』を巡らせて、『過程の間』に「人としてどうあるべきか?」が伝われば
それは『行く末』である、未だ来ない=『未来の世』に継承されていく事になる
つまり『今の心=念』が通じれば『過去・現在・未来の三世』に渡り『方針が伝わる』という事
この『エネルギーの流れの法則』そのものが、『真言の主』である大日如来
「無相の法身と無二無別なり(姿・形の無い永遠不滅の真理そのものと不可分である)」
誰が・・とかではなく、『言』う『隹(先人)』
先人がかつて『人の間』にいた『時(今)の心』として『遺した思い』を受け取る
それが『先祖供養』=先の祖を人と共に養う
二つの大日如来を洞察
「智」の面を表したのが金剛界の大日如来と「理」の面を表したのが胎蔵界の大日如来の二つがあるらしい
日本密教では、両界曼荼羅(金剛界曼荼羅・胎蔵曼荼羅)の主尊とされ、さらには虚空にあまねく存在するという真言密教の教主[7]、「万物の慈母」[11]、とされる汎神論的な仏[6]。声字実相を突き詰めると、全ての宇宙は大日如来たる阿字に集約され、阿字の一字から全てが流出しているという[12]とされる。また、神仏習合の解釈では天照大神(大日孁貴)と同一視もされる[13]。
これも実に洞察しやすいと思ったのは
『智と金』、『理と胎』にわかれている事
これは私の解釈では『頭と体』『脳と腸』
大日如来そのものは、エネルギーの流れ=自然の法則
そういう意味では、『金に囚われている世界』は「この世は金と智慧」である
脳は『月』を『悩』ませる=『名病ませる』
智慧・知識、考える事は『苦悩』を生む
自然の理を大切にすると『腸』という『臓器』が体を健康にする
『心身共に穏やか』で苦悩も悩みもなく『健康』でいられる
月の『バイオリズム』に合わせて、『ツキのもの』が回ってくる(自然)
伝統歌舞伎の18番(おはこ)の一番に『傾城傾国』の話がある
美女の取り合いに『北の葛城』と『南の金剛山』の戦いがある
美女に『ツキ合おう』と『ツキまとう』
それは『月の運』を欲して、争い『運が尽き』るのと同じ事
輝夜姫の話もそうで、権力者たちは様々な『貢物・献金』をするが興味を持たれない
輝夜姫は『無理難題』のようなお題目を提示する
そのひとつの答えは、蓬莱の玉の枝=『自然』に『逢』いに『来』い
貢物は何もいらない、ただ素直に『逢いに来ればいい』のに、どうして、自分を着飾って『良く(欲)』見せようとするのか?
その『自己顕示欲』を捨てて『偽りのない素を見せればいい』だけ
私は『自然・ありのままの大切さ』を説いた話だと感じた
これはもしかしたら、大日如来=『自然法則の説法』なのではないか?
『金と智慧に囚われるエネルギー法則』もある
『理と月の流(龍)が治めるエネルギー法則』もある
まず『有る』という事を『肯定』する
頭を悩ます『苦悩の末の争い』か・・
月の治癒の籠の『自然な平和』か・・
それが『金剛界』と『胎蔵界』ではないかと訳す
この意識の観測の向きが『外観』と『内観』の違い
外観=『外見』ばかり気にする人は、『自己顕示欲の金剛界』
内観=『中身・心・自分自身』を観ようとすると、体の中、体調・健康、労わるという『臓器に氣』が巡り、自分自身が外観にどれだけ影響されてきたか、『積み重ねてきた細胞の業を振り返る』事になる
例えば、『美容整形』を例にとれば、血を汚し『献血』もできなくなる
『可愛いは正義』という『外見の概念』を取り入れた結果、『偽りの化粧』で『心と体に嘘』をつき続ける事になる
全ては『外観の世界の思い込み』で生まれた『概念』が『胎蔵界(体)を蝕んた業』と言える
つまり、金剛界(外観)から離れ、ありのままの『素の自分』という体を形成する『胎蔵界(内観)』
こちらには、『金剛界』では『見えない世界とエネルギー法則』がある
これを現代風の言葉で訳すなら、『マクロ』と『ミクロ』
私達が『金剛界という世界(現実)』を生きる体は、『胎蔵界』という『目に見えない臓器やその臓器を形成している細胞のひとつひとつ』まで、『役目、役割が相似』して繋がっている『エネルギーの一部』でしかなく、そのエネルギーが『大日如来』とするならば
流れはどちらの世界にも『余すことなく全て』を示している『主』
ゆえに、この金剛界の『智法身』と、胎蔵界の『理法身』は一体不可分である も納悳できる
私の独自体験でも、「極楽は細胞の中にある!」と実感していたから
釈迦と大日如来は別の理由
東密では、顕教の釈迦如来と大日を別体としているが、台密では同体としている
これも私は『解釈違い』が面白いなと感じた
私の直感の感覚で言えば、大日如来は『エネルギーリソース』であり、釈迦とは『クリアしたプレイヤー』であり、その後を追う『弥勒は後の釈迦』である
というのも、釈迦とは『問題に巡り合い解決する』という意味なので、他力本願ではなく『自力』
大日如来という『空間』の中、色即是空、空即是色=『そう思えばそうなる』と気づいた時
問題に巡り合う=問題を『探し』、問題を『解き明かす』という『探求法身=方針』でもある
つまり、ワクワクして好奇心を持って意欲が生まれ『自力で探求する力』であるが・・
それはもう先人である『釈迦の力』を借りているから、『釈迦力』
探究者である弥勒は『釈迦の流・龍』に乗っているから、いずれ『悟り』という問題を解き『釈迦』になる
そんな釈迦はどんどん『問題を作り出して解決』していく『先人』であり、その釈迦が創って解いた『難問』を『有難い学び』として『後追いしていくのが弥勒』
釈迦は『クリエイター』、弥勒は『プレイヤー』となる
しかして大日如来は、その『遊び場、学び場』を与える『自然(空間)』である
釈迦は自然の中で『不自然・違和感』を見つけ、「これはなんでこうなんだ?」を『問題提起』して、その『問題に弟子を向かわせて自力=釈迦力で解決』させて元に戻す事で
弟子から学び、「なるほど!そういう事だったのか!」を楽しむ
全てはエネルギーの『流・龍の背』に乗って『夢空間を旅』するような物語
これを『同一』にするというのも、「全てはエネルギー・・」という『暴論』であると感じる
例えば、マクロ(大雑把)にみれば、『線』というのは『全て繋がっている』ように見えるが、精密に細密に『ミクロな世界』を覗いていけば、それは『点の集合』であると気づき、『画点』がつく
画竜点睛(がりょうてんせい)の意味・使い方。物事を完成するために、最後に加える大切な仕上げのたとえ。また、物事の最も肝要なところのたとえ
全てを知りたければ精密な目に見えない小さな、小さな『始まり=因』を観る
その為には『心』を巡らせ、そこまで繋いできた『先人の音・恩の龍=を感じる力』が必要だ
・・と、至らないのが天台宗の密教、真言の始まりに至るのが、真言宗の密教との違いかな?
大雑把に言えば、どちらも『物事の見え方・捉え方の違い』なだけで、『間違いではない』が、『間(相似スケール)』違いではある(笑)
全ての始まりの万物の慈母と阿字
「万物の慈母」[11]、とされる汎神論的な仏[6]。声字実相を突き詰めると、全ての宇宙は大日如来たる阿字に集約され、阿字の一字から全てが流出しているという[12]とされる。また、神仏習合の解釈では天照大神(大日孁貴)と同一視もされる
ここで面白いのが、慈母=『女性』として捉え、『声字実相』を伝えている事
声字実相義(しょうじじっそうぎ)とは、真言宗の立場から「言葉(音声と文字)」が真理を表していることを説いた空海の著作
音声と文字、これは私が最も重要と考えてきた、『音と漢字』の組み合わせ。特に『文字』という二文字にも、『一字が万字の空間』を感じた事もまとめている
故に『文字が消される』という事態は、かつて空海が唐が滅びる前に『梵字』を持ち帰り伝承させたのと『相似』を感じる
私が『空海の筆の夢』を見たのも偶然ではないのかもしれない。空海という『人物』は知らないが『伝え遺す』というエネルギーが『乾いた筆』として現れたのかも?
「筆を自らの流れで書け!」と水を得た魚?(空海の幼名:真魚)
金剛界(信仰の侵攻)が胎蔵界(精神め目に見えない世界観)を破壊するような流れ
その始まりの言葉が『阿』という字(二元性を子に伝える)として捉えた時、私も『阿」が紛争の元だと、カタカムナから学んでいた
これはおそらく『金剛界(現実)』の事だろう
阿は『アミニズム=阿弥出雲=自然』でもある
どちらも『阿』から見る違う世界観
カタカムナで あ は『命・感情』を意味する
『感情』と『命』はちがう
どちらを大切にするかでも、どちらでも、混ぜても忌みが変わる
感情が~、感情を~ どうする?
命が~、命を~ どうする?
感情で命を落とす
感情を捨てて命を繋ぐ
感情を持って命を救う
命で感情を捨てる
『あ』という一文字にこれだけ捉え方が分かれる世界観のエネルギーが渦巻いているが、これらを混ぜてしまうと、相いれない『分断や紛争』が起きる
感情(自我)か、命(自力)か、命(誰かの指示)か
それぞれ、『あ』から『世界の観測』は分岐する
感情に囚われれば間違う
命(誰かの指示・目的)に従えば間違う
自力の命には『間』違いはない
なぜなら、自分という『人の間』を『無』に産んで『有る』にする=『これから創る』のだから
問題に『囚われている』内は『弥勒』
問題を『自力で解決』したら『釈迦』
そのはじまりの『阿(分岐)』を『産んでくれる』のが『慈母=大日如来』
ちなみに、私のお守りとして貰った大日如来の象の裏に書かれていたのは
アビラウンケン という言葉
密教的にはこう言う意味らしい
アビラウンケンは、胎蔵界大日如来の真言の意で、宇宙の生成要素の地、水、火、風、空(空間)を表し、梵字五文字に一切の万象を網羅(のこらず取り入れること)するとされる
ふむ、なんだかかたっ苦しいな( ̄▽ ̄;)
カタカムナで読み解くと
命が内なる根源の場に強く生まれ強く放出する
ふむ、こっちの方が『エネルギーの流れ』がシンプルにわかる
宇宙の生成要素の地、水、火、風、空(空間)を一切の万象を網羅(のこらず取り入れること)したら、『内なる根源の場』に『力が強く生まれる』訳で、寄せては返す波のように入ったエネルギーは『器の形』にそって流れて放出される
そこで、続き言葉の 『ソワカ』 が重要になる
ソワカ=外れた調和の力
ケンで強く放出し、それが入ってたエネルギーの『器の調和』から外れた力=『余り・余分』みたいなもん
これは『足る』を知る=満たされたら『余分』はいらないので、『溢れる思い(エネルギー)=ソワカ』は分け与えたらいいと捉えるならば
私は常に『アビラウンケン状態(内なる根源の場に『意志の力』が強く生まれる)』だったのから、溢れる余分な力(ソワカ)で『氣を巡らしてた』のかも
私をアビラウンケン状態にしたのは『祖父(母の父)の夢』であり、その夢で学んだのは「悲しんでいる暇があったら為すべきを成せ!」という強いエネルギーに後押しされた事
そうか・・私は『闘病で不自由な母』を気遣い、『母を慈しむ』という行為は『慈母に氣を巡らせる』という事と相似だった。母にとっての問題である『植え付けられた死生観』という『概念』を取り除き『精神を穏やか』にさせる
『囚われの宗教・医学』という『思い込みから解脱』させるまでが弥勒という『悟れない存在』だった。その問題に『氣締め』がついた事で、そういう慈母が与えた『病は気の毒の世界を観測』していたのだ
毒-母で『主』はその世界から解脱した=釈迦(自力で問題を解決)
そして向き合ったのが『精神の母=慈母』・・あの夢は『大日如来』だったのか!Σ(゚Д゚)これはびっくり
そこに繋がってくるのか・・ほんと『過去も未来』も『今の心(気づきの念)』にあるわ(笑)
印相 智拳印と法界定印
金剛界大日如来は智拳印を、胎蔵界大日如来は法界定印を結ぶ
ふむ、なかなか面白い
智拳印とは、左手の人差し指を右手の人差し指の第二関節で折りたたむようにふさぐ形
さて、人差し指とは、『方針を示す時に使うジェスチャー』でもある。その人差し指=『命令・示唆を封じている』というのが私の着眼点
左だ、右だと『思想』を差し引いて、どちらも『方針を示さない』
と仮定した時、金剛界(現実)は紛争・争いであり善悪という概念は表裏一体の二元性
立場が変わって同じ事をするマッチポンプのポジティブ(立場と活動)である
一方で、法界定印は、腸の位置で『受け皿のように半円』を構築する
二つを位置的、構図的に形象を言葉にするならば
金剛界で左手で一番を目指す
それを右手の一番が抱き込むように蓋をする
そのまま右手で絞るように圧力をかけた時
ぼたぼたと落ちる先に受け皿があって、そこに貯まっていく
金剛界の争いから負けてもういいやと『観念』して執着を手放した者が
『競争から離れた先に穏やかな空間』があったと労わりの心を持つような
『すべての衆生が救われるセーフティネット』のような印象を受けた
ふむ・・これは『新しい観点』だ(≧▽≦)今度、『印相』を変えて呼吸瞑想をしてみよう
ちなみに、印相と言えば、私は常に薬指を曲げて合わせる癖がある
しかし、この印相は存在しないが、不思議な事が起きるのはだいたいこの『薬指』が関係している
元来、薬とは自然の生薬であるのだから、その世界にあるエネルギー=大日如来の癒しの恩恵
しかし、その『薬の名がつく指』に関する印相が無い・・というのは・・
やはりそこは『一子相伝(師弟)』だけに継承された密儀
免許皆伝の『教科書念仏』では『都合』が悪くて伝承から消えたのかも?
癒しを苦しみに置き換える事で栄えるのが癌=ビジネスだから
癌がやる事というのはまずは、神仏分離・廃物希釈・教科書黒塗り、文化破壊、洗脳工作
とてもわかりやすい『因果応報』ですよね、金剛界(現実)
でも、それらの原因の『金に執着しない』のが胎蔵界(精神)
体を労わる事が精神を穏やかにする事
体を労わるというのは、食に氣つける事
食に気を付けるとは、鵜呑みにしない事
『毒』を入れたら『気の毒』になります(胎蔵界)
『病は気から』入り込む『癌=病は品山ビジネス』です
むやみやたらに正体不明の虚な物を口にしない
口にだせば『嘘』、口に飲み込んでも『嘘』
その『嘘に囚われた世界を観る事』になってしまいます
だら解毒、毒として入った主の為を想った母(慈母)を切り離す
毒-母=主 主観で物事を捉えましょう
と、離れた母=大日如来は気づきの試練を与える環境となるエネルギー
『そう思えばそうなる』の色即是空、空即是色
だから、主観がないと、慈母(エネルギー)と向き合えない
これはミクロな細胞でも同じ事が相似している
ミトコンドリア細胞(母)の中の一部ではまだ生まれていない
『RNA』として分離し自ら『タンパク質』を形成する事で『RNAウイルス』として分離する
いずれ、こんな細胞になりたいと意志が固まれば『mRNA』となり
それを『父(DNA核)に真言して進言して説得し『新たな細胞』となる
この時、『産む・創造のエネルギーとひとつ』になる=慈母と再会する
このDNA核を殺してやろう!環境を奪おう!と争えば、また別の分離が起きて
それはその傷を抱えて旅をしていく『輪廻放浪』の繰り返し
最終的に『争い奪うという選択肢』を消す事が出来た時『地獄=ノドの地』に仏=咽仏
人は分け与え、支え、補うという『治癒の空間に包まれ安心』する
ただ、それは金剛界(現実)ではないと思うが、人それぞれ観ている世界が違う
『どっぷりハマっている人』もいれば、首突っ込んで『飽きたら離れる人』もいる
みんなそれぞれ違う色があって『十人十色でみんないい』と認め合えば
『足りないを支え合って足す』という『和を持って貴しの受け皿』ができる
という形象・印相が『法界定印』な気もします
対比で言えば智拳印って・・『智慧と暴力』で、それを肯定するように『金剛界=金が強い界隈』ですよ(笑)
そこには『法』も『定め』もありませんから、指し示す『方針』もない
ただピラミッドを登る競争して負けたら観念して落ちてこいと
そしたら『法の定め』で受け止める界があるからと(笑)
やはり、『真言の言葉遊び』と『先人が遺した形象』というのは面白いですね
『気づきと閃き』が、どんどん『新しい観点の観測世界』を広げいく
次はどれに首つっこむかな~(゚∀゚)選択の自由 Σ(゚Д゚)
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