仏=イム=忌・厳、己の心に厳しい道、横の意図は横縞=邪、欲望や誘惑という邪魔な横槍、織り成す意図は?いつか誰かを幸せ=死・志合わせに〜かもしれない(不確定)、さぁ読みといて行こう
縦糸と横糸
曲は人生観の違う2人のように表現しているが、私はこれをこういう観点で捉えてみた
縦の糸(意図)はあなた=正直
横の糸(意図)はわたし=邪
織り成す布は=+
いつか誰かを幸せに=死・志・師合わせ
するかもしれない=不確定
これは真と偽
真の我と偽の我
偽の我とは人の為の自我(エゴ)
現実社会で体裁を気にする今って事
そんな『今』を生きている私たちは
縦の意図=『心に従ってあるがままに生きたい』と願うけれど、現実のエゴによる『横槍のような邪魔を入れてくる意図』によって『邪な思考や行動の乱れ』が起きて波で揺らいでいる
織り成す意図がまっすぐ交差すれば『+』
横糸で縦糸も傾けば『×』
物事は『斜め』に向かってどちらも『意図しない方向』へとズレて行く
+=周りも助かる
×=周りに迷惑・苦労をかける
横の意図=『邪とはエゴ(自我)』であり、消して消える事はない
だから仏の道=イム=忌・厳
『己』の『心』に『厳』しくする真我にとっては
横の意図は『邪魔』(`Д´)ノ)罒`)
別に仏の道=縦意図に向かわないならば、横の意図は波乗りサーフィンの『波乱万丈』の周りに『迷惑や苦労をかける』、艱難辛苦喜怒哀楽ドラマを楽しみ٩(ˊωˋ*)و、どんな『歪んだ布』ができるか?それもまた『人として生きる醍醐味』
だから『縦の意図=人類全体の精神性を成長させるという意志』に共鳴しようとしない者(エゴ)とは
当然、方向が違う訳で
縦の意図をまっすぐ進むものは『エゴという横の意図もある』と認めた上で、その絶対に『自分はやらないという役割』を『担う者達=役者』がいて『反面教師になってくれる』おかげで
正直者は馬鹿や莫迦の人生を『客観的に現実で見る』事が出来る
だから縦の意図(真我・宿業)
横の意図(邪な自我・反面教師の他人・業の反映)
織り成す布(+×・習合・修業)は
いつか誰か(後の自分)を幸せ(師と出逢う・志を抱く)にする
かもしれない(魂が成長すれば)
+×を中心を変えずに描き続ければ傾き続けて巡り巡っていつか『円』になる
その時その時の『宿命・宿業』を果たしきる
それが『軌跡となって縁・円』が紡がれる
『死・志・師』は『過去の軌跡』の残影
同じ土は踏まない、三歩下がって『師・死の影踏まず』
そうなるように導く師(教官への共感)と『幸せ』の縁
縦の意図も横の意図も『俯瞰で重ねて見ている目線』だが、『今を生きている自分』はその線すら見えない『点』である
いずれその点と点を線として捉えられるようになる『目線』と『視点』を持つと、縦意図(真我)と横意図(自我)という織りなす意図の役目がわかるようになる
だから道に迷ったら『仏を求めて観念』する
イム=忌・厳=己の心に厳しく『宿命』と向き合うから正直
『縦の意図(進む道)』が見え始め進むと『横の意図(それから逃げたい)』が見えて来る
『真』がある限り『偽』が生まれる
偽は人の為、今を苦しむ者への『藁』
藁は掴んでも『溺れる』だけなのだが
藁も『ワラワラ』と大量に撒けば水草生えて軽く浮く
wwww
「浮くんじゃね?」とまるで『足場』があるように見えたそこへ何も考えずに踏み出して『ドボンして溺れる』
『既に溺れている者』すら見ていない馬鹿の極みである
馬鹿はそれを素でやる=バカンス
邪な意図が生み出した『軌跡(罠)』の線
師や志の意図に従わない者は何度も『死の影=過去』を踏む失敗を繰り返す
『死線』を超えるとは『ハードル』を飛び越える事
『死線(問題)』から『視線』を逸らさない事(問題と向き合う・観測)
でもそれはやっぱり今という交点に起きてる邪な線の方向に広がってる罠
縦の意図=『心が導く先』にはスムーズに事が運ぶ『シンクロニシティ』を感じる
『光』指す方へ、鬼さんこちら『手の鳴る』方へ
縦の意図は己の心に厳しい、常に観念して『今の心=念を観る者』しか見えないが、心に素直で正直な者には穏やかで優しい気づきや学びを与える
『真実を見ようとしない者』にとっては常に今、『邪な風』が吹き続けている
『邪な風=風邪』から『邪な万病』の『死線(問題)へと誘導』されている
縦の意図とは上(地位・権力)では無い
己の心(中)=忌の導く厳しい道への誘導
でもそれが『唯一(皆同じではない)』のゴールへの道
役目を終える『クランクアップのタイミング』は十人十色
好奇心と意欲という『羅針盤』がどっちを『指す』か
時には自ら『死を望む人(生き詰まった)』もいる
縦意図は真の貴方
横の意図は邪な私(エゴ)
そこまでの意図があの『歌(優しさ・穏やかさ)』にあったかどうかはわからないが、あの『詩』には、『方向の違う役割を貫く寄り添わない厳しい意志』も内包していた
縦の糸と横の意図は寄り添わず『一瞬しか出逢えない一期一会』の繰り返し。『生まれ変わってめぐり合う』ようなものだから、やっぱ深いね、中島みゆきの『唱』は
ちなみに縦糸横糸って『warp and weft(weaving)』というらしいけど
縦意図だとcontrivance=仕掛け・工夫・考案となり
横意図だとabusive language=暴言・口汚い言葉、罵りとなる
なんとか『工夫して考案した仕掛け通り』に事を進めたい真我
それをとにかく『口汚い暴言で罵り、レッテルで罵倒』する邪な誘惑に流される自我
織り成す意図は?そんな人生を『客観的』に『俯瞰』で見て『気づいて反省』して『改心』して『業(カルマ)の回収』を終えた『達観した精神』になれば・・
最終的には『歪んだ意図を縫い直す改修』する事になる事と気づく
輪廻転生で歪んできた過去改善を行う役目と指導する目役
いつか誰かを幸せ=『師・志合わせ』に〜かもしれないという訳です
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