教官と先生の違い、それは実践経験であり、それは死線をくぐる体験があって初めて生徒を死徒へと誘う共感を呼ぶ話へいざなう!(今)
かつて教官も『生徒』であった
教える者に対する生徒の『生意気』な態度
それは『教官』に『共感』していないから起きる
シンプルな事だ
彼らは教官が『なぜ教官になった』か?その『過程』を知らないから、教官もかつては『生意気な生徒』だった事まで気が回らない
そこからその『過程で得た経験や体感』から『何』を教えなければいけないか?『身を持って学んだ事』を『次』に繋いで、いつか『教官を生み出さなければいけない宿命(役割)』を背負った存在
だから教官は『生徒』としては『死』に『使徒=死に従う者』となって『生徒』にとって『邪魔な存在』になる
ここに『言葉の妙』がある
生徒、学生、彼らは
『生きる』事に『従』い、『生』きる事を『学』ぶ
使徒、死徒
『生にはない事』を伝える『役割』、『死に従う』
彼らの役割は『死中に活』を見出させる
『死は恐れるものでは無い』と伝えたい
解放、解脱、『成仏』、仏になれ(悟)を促す存在達
『生』に『執着』して『従』う限り『終わり』も『次』もないのに、どうして『生に執着』して『死を忌み嫌い』恐れて『遠ざけよう』とするのか?
それが『宗教』を利用した『間違った死生観』
閉じ込めたい
支配したい
目覚めさせたくない
『何』から?
この『現実』から
しかし、『死』とは自殺や殺人などの『肉体の活動を止める自傷行為』では無い・・と言っても『聞く耳』を持たないから『生意気』。ちなみに『徒』と『従』は、ほぼ同義らしいけど、徒はあまりいい意味ではない
「徒為(とい)」するだけ無駄・無益なこと、という意味
「徒」は「何も持たない」「うわついたさま」の意味
『生』に『意気』込んでいる『徒』ʅ(´⊙ω⊙`)ʃそりゃ何も執着しない『死』の浮ついた軽い感覚は『理解』出来んわな
『3』に散って『4』がある、それを観よ
始まりの『点』から『対極の2点』が生まれ、その2点と対極に『3点』が産まれる
これで『均衡が取れた三位一体』だけど『それぞれは2点』しか見えてない
だから『3点』を見通す『4点の俯瞰』の視点=『死点』という『生の次元』からは『見えない観点』が必要になる
死から見る=4→3の『黄泉(43)からの目線』が必要
使徒・死徒襲来
それは『生意気な生徒』に『大事な事に気づかせる』ための『障害』であり『生涯』
気づくと『教官=使徒の襲来』がわかる
それが『共感』となって「こんな生き様になりたい!」と『教官』になる
先生と教官の違いは『かつての自分(生徒)への厳しさ』にある
『先生』は『先に生きる先輩』という『輩の成れの果て』
『学校の外』の『社会を知らない』から『自分に甘い』
教官は体験を伴い、波乱の荒波を航海し、様々な経験の中から取り返しのつかない後悔を重ねる。だから、生徒という『かつての自分』に同じ『間違いや過ち』をしてほしくないからこそ
『心を鬼』にして立ちふさがる
私はそのトラウマを抱え、トラウマから逃げだして、でもその逃げてもなおトラウマとなる経験に真正面から向き合った時に初めて
「甘えんな!誰も助けちゃくれねぇ!お前のミスのケツも拭かねぇし、そんなミスで廻りに迷惑かけんじゃねぇ!」
これらがかつての『教官』が『学びの途の生徒』だった頃に味わって『苦渋を舐めた自分の経験』だからこそ、『次の自立したリーダー』を『育てるための必要なマインド』だったんだろう
と、わかると「クソお世話になりました!!」と殺したいほど憎みながらも、土下座して感謝するサンジの気持ちがよくわかる
生徒と死徒
存在とエネルギーの役割
死(4)からじゃないと見えない『3次元』
3次元の『生徒』に『死の学び』を与える『使徒』
『教官』の役割(死)に『共感』したらそれは『あなたが教官』となる
私は死に関する『死生観』が違う
だからこそ、その体験してきた死(夢)を語るのだろうが
『本当の死』を受け入れられない『生徒』は『生意気』に宗教観念を『騙る』のだろう
だから夢で『魘』されるんだよ(゚∀゚)アヒャ Σ(゚Д゚)
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