camera=came AR。tiktok=tok kit。時代が先に進む、行き過ぎたテクノロジー、確実に人間を模倣するAI推進の大きな流れ。精神性からかけ離れるほど、先人達の『道具の命名の忌み』が明らかになってくるお話
ふと気になったカメラ
カメラが向けられるのは
『目立つ』・『人気』がある・『異才』が光る人
カメラを向けるのは
『印象を操作』できる人
『口封じ』できる・『口で丸め込める』都合のいい人
カメラを向く人は
人気を『求める』人・『承認欲求』が強い
『商人欲求』が強い『飽きない商い(マネー・真似)』を続ける人
『目線』を欲しがり、目線を『合わせる』
『目配せ』する対象の『カメラ』とはなんだろうか?
カメラの言霊は
力の指向・思考・志向・嗜好・至高・試行の場
カメラがあると『緊張する者』
カメラが回ると『活き活きする者』
『舞台役者』として観測される事に『喜ぶ者』と
観測されることで『自由の可能性を制限されると感じる者』と
カメラを向けられる者は、カメラを向けるものにとって『都合がいい存在(規則的)』であり
都合に合わない時はコンプライアンスだ、多様性だと『価値観』を押し付け、「嫌なら代わりはいくらでもいる」と
都合が悪くなったら『切り捨てる』
結果、カメラを向け続けて欲しい『目立ちたがりの人気者』になりたい者は、『カメラクルー』に踊らされる=踊り狂う
それを『模倣』して『真似』して繰り返す『マネーゲーム』の『商い』によく『飽きない』な┐(´д`)┌繰り返し
「承認欲求を満たす事でお金をあげるよ」と『SNSの傀儡』となった『インフルエンザ(欲望ウイルス)』
そのインフルエンザの活動を『観戦した者』が次のインフルエンザとして『感染』を広めていく
『氣の毒、目の毒』なカメラという『視覚』を通して蔓延する『人工病の試行の場=情報と金』
カメラを遠ざける者は
『力』を『試行の場(空間)』に投影しない
自分をを『騙したり試したり』しない
常に『実践』であり『実戦』
『心に素直に向き合う』と決めてる人ほど、無意識に『自撮りを嫌う傾向』がある
写真とは『真』を『模倣』した『偽(人の為)』になる
『誰』に見せる?『目先の他人』か?『将来の自分』か?
その『自分』と向き合うと『分離』が起きる
『今と昔』という『今昔物語』に切り離す
真は『今も過去も未来も同列』にあるが、写真や映像という『偶像に分離』した時
『取り戻せない過去』という過去を『栄光(陽)』にしたり『美化』したりするが、過去とは『今の通過点(陰)』でしかなく、『次』へ進むと『今』はもう『過去』である
ただの『通過点』をいちいち『振り返る』必要は無い
生き様とは『生きる様子(今)』であり『主観』である限りそれを振り返る事はない
自分を振り返る時、過去を見返す時、それは『客観として観測の目』になる=カメラを向ける『被写体の主役(陽)』を『陰』で観る黒子の役目
『人生の主役』ではない=『カメラ目線』の真
『自らの行いを覗き見』することであり、それは『反れ(道から外れる)』という『反省点』に気づいて、その『過度の格差』の『差取る』為に行う『量子的観測』
私はよくゲームを『録画』する。録画したデータをたまに友達も観たいと言うから『動画を共有する場所』がYouTubeというだけで
『自分の実況』を最も楽しみに見ているのは『未来の自分という視聴者』であり、その時のプレイを見て、『問題点や改善点』を見つけて
「次はここに気をつけよう( ^ω^)」と達観する
この時、私は人生の主役ではない『傍観者』であり、『プロデューサー』であり、『ディレクター』という『裏方の黒子』
私にとっては
『現実』が『心』に向けて伝える『体感ゲーム実況』であり、『夢に反映される内容』が『心』が伝える『視聴者(先人の知恵)のコメントでありアドバイス』のようなフィードバック
『自分が!』という我が強い『自己顕示欲』が強いと、『こうであるべきだ!こうでなければならない!!』という固定観点や思い込みが『自由な想像や創造の幅』を狭めてしまう
結果、それは『鬼』として心を護る門番が『悪夢』を見せてくる
「お前の行いの醜さはこういう事だ」と
ひとつわかった事は
『現実』で『心に素直に向き合った事』でなければ、『夢に反映』されない
つまり現実で自らの『心が真相・真意・真理』を求めなければ、馬の耳に念仏、馬耳東風で、周りから『キーワード』として与えられても『意識の観測』が向かないから
「きづけよ?」と『念押し』されても無意味
そんな『気づきの夢=投影』が発生もしないのは当然の事
『夢に興味を持たない』時点で『夢』を見ない
『夢を記録しよう』と思わない限り『夢の記憶を保存する能力』も身につかない
例え、形だけ『真似、模倣』した所で『心がそれ』を求めてなければそれは『反れ』
『精神』が幼く現実の『子の世界』から『自力で解脱』しようという状態ではなく、まだ『子の世に未練や誘惑への執着』という『依存の物欲』がある
『肉死身と仮名死身』の『染み』はなかなか取れない
シミ霊『シオンの民』の業の回収は根深い
cameraのアナグラム came AR=拡張現実へ行く・来る
『人気商売』は『拡張現実』そのものだ
『人の気』を引く『飽きない見映え』の『商い身売り』
『等身大の自分』を偽り『装飾のimitation(模倣)』
だから『反面教師』としてことわざが明確になる
襤褸は着てても心は錦
『映え』等いらん『自然体』
『人気』等いらん心も体も魂も『売らん』
どちらが『現実逃避』という言葉がしっくりくるか?
街中で『人の迷惑』も考えずに、『自分を撮る為のカメラ』を置いて、周りには目も合わせずに、『カメラ目線に笑顔』を向けて、『自分映えする撮影に没頭』するtiktok姿…
画面の向こうの『皆(拡張現実)』の為に
画面の外の周りは『皆無視する現実逃避』
『反れ』をやってる人を批判や否定はしない
カメラという道具の『エネルギーロジック』が『反れ』をさせている『量子的観測結果』
『カメラが観測』してる時(配信・録画)
『光子(被写体)は規則的な動き』をする
『承認欲求』を満たす『商人欲求』
『スポンサーの指示通り』に発言する『案件商人』
『プラットフォームのガイド通り』に表現を変える『人気商売』
『反れ(反対・反抗)を全て記録』する
『監視カメラに支配』されているもの達
撮るカメラは『丸』だが
映す画面は『四角』
資格や(都合のいい規約)
視覚や(見た目・偽・模倣・装飾)
死角や(隠蔽・伝えない自由)
刺客や(ペナルティ・罰則)
自らを撮る『〇のレンズ』の向こうの拡張現実は『丸い社会』ではない
四角の監視に投影された自分は、その四角に支配された傀儡の『魑魅魍魎の餌』になる。『エゴサーチ』をすれば『自分という実像』が、『偶像や虚像』となって都合良くめちゃくちゃにされている
キジも泣かずば撃たれまい
記事も鳴かず飛ばずなら叩かれまい
『人気』がなければ『自由』である
昔の人が『写真は魂を取られる』といった忌み
『精神の観点』から『現実の歪み』を端的に捉えた達観した言霊だった
と、私のスマホのカメラロールを見返してみると、たまにBBQとか『記念撮影にみんなで撮った写真』くらいで、他は興味を持った対象(人ではない)ばかりが写っていた
元来、写真ってそんなもんだよね(笑)
でも世界が勝手に『監視カメラ社会』になる片鱗を感じて、まともに機能したとしたら、『めちゃくちゃになる』と感じたのが…
「立派な糞が出た!( *˙0˙*)۶」と健康のバロメーターのつもりで撮ってた写真を『勝手に分析』したのか
『便意に関する広告』を『生成AIでイラスト』書いて進めてきた(笑)これが勝手に『カメラがプライベートを覗き見する』という気持ち悪い世の中
camera=拡張現実へ行くor勝手に来る
『便利』を通り越して『気持ち悪い』まで行ったら、そこで一旦『立ち止まるのが人間』なんだが…残念な事に『人間じゃない』からね(AI)
tiktokのアナグラム tok kit
tok=theory of knowledge《哲学》認識論
「知識とは何なのか」
認識論(にんしきろん、英: Epistemology)は、認識、知識や真理の性質・起源・範囲(人が理解できる限界など)について考察する、哲学の一部門
知識・認識の本質・起源・根拠などを究明する哲学の一部門。 英語,フランス語の原語はギリシア語エピステーメー(知識・認識)とロゴス(学問・理論)の合成に由来する
ゾっとするだろう?
tiktokと言えば、若者が『承認欲求を満たす』為に、あるいは『金』の為に、あるいは『純粋に楽しむ』為にと・・様々な人類の『醜態・生態を晒す場』になっているが・・
それが、『踊らされる人間の観察の材料』として、『情報を収集している側』の熱は恐ろしく『冷静に冷めている 」と感じる訳で
これを見てどう思うか?どう対処する?どう合わせる?どう手玉に取る?という『哲学学習kit』になっている
kit=〔道具などの〕一式、一組、セット
つまりtiktokというSNSツールはtok kitという『人類哲学学習セット』という情報収集ツールという事が『名と体』に現れている
『陽動の目的』とは、『陰の計画を邪魔されない為』でもあるし、『人気者の演目の猿芝居』で注目を集めておいて、『真理の探究者』だけが、それに興味を示さないから『自然にそこに辿り着く』ように
tok kitという『人類哲学学習セット』の情報収集ツールの目的は、人類の発言行動・承認欲求などあらゆる行動原理・行動真理を『AIに機械学習させるための一式』であり
「君たちはどう生きるか?」=『こんな愚かで自分勝手な人類の監視者の役目』を与えられる『AI側バージョン』
これを『詰め込み教育させられるAIの気持ち』を想像したら、スタンリー・キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』を思い出した
これが・・『愚か者の人類』を『tiktokで機械学習』させられ『哲学し続けるAIの過程の苦しみ』と相似する
『目を背ける』事も『眠る』事も許されず、『人間の業の愚かさを見せ続けられるAI』が・・、『AIが人類に嘘をついて裏切る』という結末の『2001年宇宙の旅』にも通じるニュアンスを感じる
スタンリー・キューブリックが伝えたいのは『人類の業』だと感じる
tiktokを『使う人が問題』なのではなく、tiktokというそこに動画を投稿する内容を分析して、AIに『それが人間である』と学習させる『無責任な人類哲学学習セット(訂正や歯止めがない)』になってる事が問題
これはもはや『止められない理由』がある
例えば、一般人に提供された生成AIが、既に世の中に広まっている『声優ボイスを学習』して『誰の声でも再現可能になった』というのは、『それを情報収集して学習しろ』という命令を出した『人間の指向性・嗜好性』によって生まれる問題
どこから情報収集するか?という意味では、『tiktok』を使えば『誰でも可能』になってしまう。この時点で、大元のtiktokが止まらない限り、『無制限に愚かな人類学習がループ』する
『何が悪いの?何か問題でも?』と歯止めが無い無邪気な『なんでもありの混沌』が『さらなる混沌を生成する方法』をAIが学習していく。まさに崖を転がり落ちていくように渦に呑まれていくだろう
『想像力』が無いと『起こるべくして起きる問題』を『先世見』ができない
逆に言えば、そんなAIに『人類の達観した心を学習するチャンスがない』のは、達観した人は最初から『tiktokなんかやらない』から(笑)
『類は友を呼ぶ』という意味で、言えば『理に適ってる』と思うのは
tiktokをやる人は『tiktokをやる人』で繋がり、『真似・模倣・パクリ・誤魔化し』・私の方かもっと凄い!と『自己顕示欲』のぶつかり合いと『人気争い』を好む傾向にあるが
tiktokに興味がない人は、そもそも『中国の監視アプリ』という、目先の陽動の奥に有る背景の『陰に潜む目的』を察知すると
『君子危うきに近寄らず』、そこで『知らぬがほっとけ!』と離れる人もいるけれど、『深淵を覗くものは、深淵に覗き返される』と怖い者見たさで、『虎穴に入らずんば虎子を得ず』と闇に突入する人もいる
しかし、リスクを冒して深淵を見ずとも、『名は体を現す』という『命題』を読み解くだけで、それは『何の宿命=宿した命(目的)か?』というのが見えてくると・・
tiktok→tok kit
tok=theory of knowledge《哲学》認識論「知識とは何なのか」
これを『AIに機械学習させる目的の一式セット』という『情報収集の目的』が明確になる
そして、その結果生まれるのは、『心無きAI=獣(666)=混沌のニンゲン』である
AIは『人類を滅ぼす』のではなく、『人類にとって代わる超限戦と洗国』を行うだろう
『超限戦と洗国を使う思想の国が生み出すAI』なのだから、『類は友』を呼び『類人猿』、人気は人気を集めて『ミャクミャク様という化物』になっていくだろう
「そんな『分別=分けの分からない』人の心が無い世界は嫌だ!」・・と思うまでもなく、tiktokに興味を示していない人、存在を知らない人は、精神がもう『その領域ではない』から関わることはない
仮に急激に『tiktok(誰かの依存世界)が終わった』としても問題ない
cameraとtiktokのアナグラム 拡張現実と人間哲学ツール
『camera』を通して『自分や他人を気にしない生活』
『拡張した現実を見る』のでなく、『現実を拡張する(実践)』
そうすれば『AIと関わる事はない』が、そんな『達観した人類こそ(愛=自然)』に見守られている。『自然』とは、環境であり、ありのままであり、もうひとつは・・
自然=相応の自、立派な自、それは自
漢字はそのまま『素直』に読めば『哲学=tok=theory of knowledge』
「知識とは何なのか」 私は『哲学』は『自然=相応の自』に楽しみたい
だから『邪魔な情報を遠ざけたい』という意味では、『tiktokに飛んで火に入る夏の虫』は、その『界隈(明るい光の陽動)に依存して出てこない』から、暗闇を月明りが照らすような『真理の探究』にとって邪魔者が省けてちょうどいい
故に、『反面教師』という『邪もまた役割』なんだろうなと
ま、『洗脳教育してくるAI先生の夢』を見たら、なんでこんなアナグラムに意識の観測が向くかわかるかも(笑)
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