寝起き閃シリーズ。密後の魂100までに繋がるニュアンスの「ここであったが100年目」に関する100の共通点。やっぱ先人の知恵はすげぇな不思議な一致と気づき。
ここであったが100年目!という格言
時代劇では、ずっと探していた仇に巡り会う復讐として相手に吐くセリフで「幸運にも出会えた相手」に使われる言い回し(目的が達成するか分からないが)
落語のサゲでの100年目というのは「命運が尽きる」という意味
いずれにせよ 終わり が共通
そう考えると
これが達成できるなら他の事はどうでもいい!
というゴール目の前という意味でもあり
命運尽きるの100年目というのは、あなたの運命もこれまでよ
志半ばですが時間なので残念でした(延長はできません)
の密後の魂100までのリミットの意味でもしっくりくる
また、この命運尽きるとは、ネガティブな意味が強く感じるかもしれないが、あらかじめタイムリミットが決まっていたなら、時間と共に不自由(不要な常識や概念が増え肉体は劣化)から魂が解放されるという意味では
死神=お迎えがくるという存在も気になる所
このお迎えと言うのが諸説色々あって面白い
先に旅だった者が迎えにくるというケースもあれば、大鎌を持ったドクロの死神がくるという描写があったり、この辺は死という概念を宗教的、あるいは先入観を持っているかいないかによって違うのかもしれないが
ルーツがどこにあるのかわからないが海外ではこういう鎌は農村ではメジャーに使われている模様
その魂の出発と帰還を見送ったもの達からすれば
此処(空間)で会ったのは100年ぶりだね!
と歓喜の瞬間を迎えるのかもしれない
が!
ここでふと思ったのは、迎えがなかったら?という話だが、これについては、怖い話だから最後にまとめよう
密後の魂100までとした場合
生を受け、目的を達成するその日までのリミットの100年。目的を達成するか、リミットを迎えた時に生を受ける前の世界の仲間に再会まで実に100年
ピッタリ辻褄が合う
そういえば100といえばこの記事で書いた夢の話だけど
誰かが100+1 と言っていた
私は「それじゃ101?、101が重要か?」と問うと「大事なのは、そのひとつ前」 とその人は言った
「なら99?それは・・天使?」男は黙った
人かヒトデナシか?という夢の中で、こんな数字に関する事を会話していた事を思い出した
という事は100の手前の99でタイムリミットの手前を意味してるのか、それとも101でリミットオーバーを意味しているのか
とても意味深なものに思えてくる
密後の魂100まで(タイムリミット)
此処であったが100年目(最終局面)
なるほどな〜(´ー`*)ウンウン
ま、あくまで独自解釈なんで信じないでください(゚∀゚)アヒャ (゚Д゚;)
で最後に怖い話、というか生き方への戒めの話
迎えがこない魂の行方と理由
死神=大鎌=魂を刈り取る=死
このイメージは何故か強い
しかし私は思う
肉体に紐づいた現世の記憶というのは、とても邪魔をする性質を持っている悪癖と言える。邪魔とは精神的な修行の妨げになるという意味
それは、何処に行っても、我思う故に我あり!と肉体に紐づいた自我・個性で判断してしまうから、その繋がりがない環境では違和感が生じてしまう
わかりやすい例でいえば、男性の体に女性の魂があったりその逆もまた同じ(性同一性障害と呼ばれる)
その肉体に縛られた概念(年齢、性別、性格、性質)を全て手放さないと新しい次元に定着できない
というのも夢で経験して実感した
という事はだ?
絶好の好機=魂の目的を果たすチャンス=タイムリミットを迎えて意識が解放される=100年目とした時に、その意識の解放、魂の肉体への呪縛、癒着を切り剥がす存在が、死神と呼ばれるお迎えだとしたら
死神とはまさに、肉体と精神を切り離してくれる必要なシステムであり、それは肉体からの解放を意味する
それがこない人はどうなるか?
永遠に肉体があった頃の記憶や体験に囚われたままの意識体となって、収まる肉の器もなく現世を彷徨う事になる
彷徨うとは
目的もなく歩き回ること
心や考えなどを決められずに迷うこと
肉体も失い、魂の目的を見失ってしまったそこにいるだけの存在は、外界との繋がりもなくなり、忘れられ、誰にも気にもされなくなり、そのうち元がなんだったかも分からないほど気も枯れ=穢れとなって重いエネルギーになって汚れのように現世にこびりついてしまう
これを幽霊とか地縛霊とか人型に見える人は霊能力=同じ波長をキャッチしやすい=過去世で縁がある(知り合いだった等)可能性
憑りつくといった現象が起きるのは、縁がある人に気づいてほしい、気にしてほしいと気を引いてるのかもしれない
ま、普通の人はそこまで見えないし、感じるとしても生暖かい、急に寒いなとか、その程度で長く気にしなければ害はない(笑)
だから鎮魂という意味での神社やお寺は、霊=穢れになった者が集まりやすい寄り合い所でもあると同時に居着くための場所でもある
故に中には生前の記憶を覚えていて、波長の合う人に憑依して悪さをする者もいるのかもしれないが・・問題はそこじゃない
それはこの人生での魂の目的を自ら放棄したがために、お仲間のお迎えが来なかった悲しい末路
自殺はあかん
と言われる理由は、道徳的でも社会的な世間体的の意味でもない
自殺とは自分への裏切り
世間一般、周りが何を言おうと死を選ぶ選択、最後にトドメを刺すのは自分自身の弱さによる裏切りでしかない
想像して見ればいい
寝食を共にするパートナーがいて、心のそこからずっと一緒に苦しみも、悲しみも、楽しさも、喜びも共感して分かちあってきた存在に対し
ごめん、私が辛いからあなた死んで?
って魂にトドメを刺すのが自殺という行為だ
我思う故に我ありの自由意志の存在意義を自ら放棄する事は、此処に送り出してくれた、何億もの犠牲の上に成り立つ想いを無駄にする
そして此処現世において、何十兆もの仲間(自分自身の細胞)を裏切る行為でもある、ありとあらゆる細胞をコントロールする王たる自由意志が全てを台無しにする
例え目的を達成できずに志半ばであろうが、生きてる間に経験した事は次の糧になる。しかし、その経験を得る機会を自ら放棄するのだからそれは許されざる裏切り行為であり
当然お迎えや救いもくる訳もない
だから死神とは再開(ゲートが開く)であり
再会(久しぶり!頑張ったね!)でもあり
死神の鎌は、現世の肉体と魂の癒着を断ち切るために必要な事でもあり、それで初めて、還るべき所へ還る事ができる
ちなみに日本では地方によっては死者に守り刀というものを持たせるらしい
すでに死んでるのに何を護身するんだよw・・って話なんだけど、死後の魔除けにという説が一般的。しかし個人的には、日本における短刀っていうのは、辱めを受ける前に自害するか、相手と刺し違えるかのケジメ=気締め=覚悟の現れでもある
その短刀を死後に与えるという事と、海外での死神の鎌という、繋がりを断つというキーワードの一致
これは 自ら肉体と魂の繋がりを切りなさい と成仏を促してるのではないか?とも思う
そういう事なんだろうな〜
っていう気づき
逃げるは恥だが役に立つから逃げてもいい
精神を追い詰められて自殺や自分への裏切りはあかんのよ
じゃ、自殺は自殺でも切腹はどうなのよ?ってなった時に
己ぇぇぇ!末代まで呪ったるわー!とか
この恨み忘れはせん!忘れはせぬぞぉぉ!とか
元々が魂の導きのままに信念を貫いて生きたからこその失敗を蓄積して魂を成長させて次こそは!ともう次の魂のミッション(業)決めてるから
一見後ろ向きに見えて前向きな旅立ちだよね(笑)
だから侍魂ってのは武士道とは死ぬ事と見つけたり!って死を恐れない訳で
それは魂を殺そうとする悪魔崇拝勢力には脅威でしかなかった訳で
そんでその国は心意気と精神性を大切にしていた訳で
だから色んな先人たちの知恵はことわざとして残ってる訳で
密後の魂100まで
此処であったが100年目
命運尽きる100年目
100が節目と知ってる精神性が高い謎民族な日本人の事をもっと探求しようぜ日本人ヽ(・∀・)ノってもんだ
あと周りの情報に流されて、やりたいと思う事をそっちのけにして「自分に嘘ついて生きる」というのも自殺と同じで送り出してくれた仲間への裏切り
お迎え来なくなるよ?
死んでみないと分からない話だけどね
という達観した世界を伝える
先人たちのことわざからの気づきのお話でした
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