漢字をばらして読み解けば、信用と信頼と絆(氣綱)は全く違う事と、信じるという信仰心が捏造の徳であるという間違いの話。信じるも信じないも・・ってほらね?『無責任』な信用や信頼の言葉の解釈をよく考えよう
信とは人造の徳
信用・信頼は一日にしてならず
…という『信』という文字とその意味は『孔子』によって『造られた造語』であり、その結果、『八徳』になったが元々は『七徳』だった
儒教における八種の徳「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」を指すが、孔子や弟子の孟子が説いた「五常の徳」が基となっている。 儒教の考えの基となるもののことで、生まれながらに人に具わっているといわれる『仁』『義』『礼』『智』の四つの徳に『信』を加えたもののこと
孔子は「自分は力があるから人を導く事ができる!と自らを信じてくれ」と官職に『信用を自薦』した逸話が有名
その『行為』こそが『信用取引』
信を『用』いる、信を『使用』する
人の言う、人が言う『役人』が『用』いる
ここから始まっていると考えた時、そもそも『孔子が出来るやつ、優秀なやつ』…という『周りの噂』すらも『でっち上げの信を用いた可能性』がある
そしてそれを『信じた者』は皆、孔子を信じ、『孔子への信仰心』を植え付けられた
信とは『人の言動』から始まっている
現在の事に置き換えればわかるのが、日常的に『信用を気にする事』はないが、何かしらの『責任の在り処』を決める時だけ、『信用や信頼』という『言葉を担保』にする
これこそまさに都合がいい『損得』の本質
つまり『信』は『用いる人』の『道具』でしかない
『道具』は『人』の『使い』様
ここに『信用・信仰』というものが入る
大抵、人間関係に『亀裂』が入る時、『信じてた』のに『裏切られた』というが普段は気を許した相手にわざわざ「信じてるから!裏切らないでね!」とは言わない
『その言葉』が出た時点で『信用も信頼』もしていない、『責任の在り処を線引き』して疑って警戒している
つまり『信用』という言葉は『疑い』という『分離の始まり』
信用=信を用いる
用いるは『月を刺す』
信頼=『信を頼る』
『頼』るは『束』の『帳簿などの紙の一面』。 また、そこに記した数字
『信頼』とは『信用・契約』した『裏切らないだろう項目の束』
信頼関係とはお互いに握ってる『裏切る時に使える弱み』のようなもの…と考えればとても『嫌』に感じるだろう?
「『裏切るための弱み』で繋がってるなんて…そんな訳ないじゃないか!!」
そう、だから『信』が間違っている
その繋がりは『信』という『状態』ではない
絆という氣綱
他人とは『自分』から『分離』している存在
しかし『心を許している相手』は『気の置けない相手』という
これは『気をつける相手=警戒』の真逆で、自分と『おなじ心意気、波長、波動が調和』するから『自分の一部』になっている『他人』
『氣』が巡っていて『循環』して繋がっている、氣が繋がる『命綱』で結ばれている
だから『お互いの弱み』を握っているが、それはお互いの『弱みをカバー』し合う為であり、そこにビジネスライクな信用や信頼という表面的な薄っぺらい『分断や分離』はない
絆とは
馬・犬・たか等をつなぎとめる綱。転じて、断とうにも断ち切れない人の結びつき。ほだし
相手の情にひきつけられて、心や行動の自由がしばられるという意味である。 「きずな」と「ほだし」は同じような意味で使われてきた語だが、「ほだし」は忘れ去られてしまったのに、「きずな」の方にだけ人と人との結びつきというプラスの意味が生じ、使われ続けきたわけで、それはそれでとても興味深い
なんともまぁ(´-`)oO『解釈の分断工作』が起きている
『情にほだされる』という言葉がある
相手の情(気持ち)に強く感応してしまい心情や行動が自由でなくなるさまを意味する表現
一時の感情で動く事を『冷静さが欠如』していると『客観的に』捉えた見え方だが、『当事者との熱量の違い』がある
そういう『業を積む段階の人の主観』で見れば、今この瞬間に全てを失うとしても『やらなかったら後悔する事になる』という
『心に素直に従った行動』である場合、間違っているのは客観的に『絆されたと判断している側』である
でも根本を言えば…
そもそもその『絆される』という『絆を説明する内容の是非』について、『信が問われる』訳だが、こういう解釈を鵜呑みにする人は、『出典=経典・教科書に書かれた事』に『信頼』を置いて『信用』する
『人』の『言』う『束の項(ページ)』
『人』が『言』って『用』いる
まるで…
経典や聖書を『そのまま読み上げる』
ただの『莫迦のひとつ覚え』では無いか(笑)
信用・信頼=宗教への信仰心、『全てはここにたどり着く』と、自然の徳の項目に不自然な人造の徳=損得を混ぜた『孔子の信』から始まっている
と、『老子の側』は感じるわけで・・
『絆』とは『カタチ』のない『氣綱』
カタチのない『巡る氣』とは『愛』である
愛であるとは『理想(ideal)』
『氣』で繋がった『氣の置けない存在』、それは信用や信頼ではなく『絆』
きづなの言霊は
エネルギーが内に集まった核
『ひとつ』になっている状態、つまり『分離の要素』はない
それを踏まえて、『信用』という言葉の使い方と『使われている状況』をもう一度よく考えて見て下さい
家族間で、友達感で
「信用してるから!期待を裏切るなよ(念押し)」
「信頼出来る!(裏切れない項目が多い)」
こんな事ってあります?私の周りでは(ヾノ・∀・`)ナイナイ
だからもう『信』という字と『意味』を植え付けた『孔子』という『講師の行使』の目的が
信じる者=『信者』を生む訳で信者と書いて『儲』となり、結果、信とは『損得勘定』
感情ではなく『勘定に絆されている(つながれている)』なら、それは『納得の忌み』となります
なぜなら金勘定、信用=投資、信頼=サンクコスト・・もうね、『金という勘定』に『絆された信者達』の『信仰心』で『儲け』の『得』
『七徳』に『損得の信』が植え付けられた・・それで『八徳』と考えた時
私は納得出来ない
とくの言霊は
統合に引きよる
『元々あった七徳』に引きよるように加えられた『信という得』は『先に損』をもたらした=『損して得取れ』の考え方
損の言霊は
強く外れる
『間違い』が起きている
そんが強く外れるなら
孫悟空の言霊は
強く外れて転がり出て引きよって生まれる『特別な存在』となる
孫正義はの言霊は
強く外れて受容を遮る新しい示しなので『邪魔な存在』という事になる
しんの言霊は強い示し
これは神・心・真・新・芯が共通だが…
『人』が絡むのは『信・伸』しかない
人が言う強い示し
人が申す強い示し
人がサル(⊂((・⊥・))⊃)うっき〜!!
『信』を『裏切れ』ば『人』が『去る』(。・ω・)ノ゙
サルは『覚えた事(快楽)』を永遠に『繰り返す』
『経典の鵜呑み』の『莫迦のひとつ覚え』である
人がサルになる理由は『サル』に『人が知恵を与える』から
猿真似=信仰心ならぬ『信仰伸』
『信』とはどこまで行っても『人』が『言』った『束の項目』という『目に見える範囲の信頼』
『信用スコア』なんてものは、『その束』を『人が言う』ままに『管理』する、という事は『信』を『サービス』として用いる側は、『信頼』なんて『捏造し放題』だ
『嘘を真実』にする事も
『真実を嘘』にする事も
『国家の為に信用スコアを扱う仕事につくもの』は『無条件で最高スコア』・・と決めるのも『人』の『言動』だ
だから私は『信用』にも『信頼』にも担保されない、『絆=氣綱』が大事だと思う。『情に絆される事』も含めて
情とは『心』に従う『主(意志)』と『月(身体)』
情けは『人の為=偽』にあらず
心が「偽じゃない!」と判断したのなら、例え周りから見れば『破滅に見える行動』も、それは『その瞬間に必要な宿命』
どのタイミングでそれが来るか?それを『周り』から感じられるのが『氣綱』
『氣の巡り』は『愛』であるから、気の置けない『心を許してる相手』が多ければ多いほど
『氣の巡り』によって気付かされて『危険を回避する事』も出来て、それが『弱みをカバー』する事でもある
信用してる(前提)から『〜をしてる』
信頼している(前提)から『〜を教える』
これ( ´∀`)σただのギブアンドテイクな損得勘定(笑)
本当に心をゆるしてるなら『無条件』に『何も考えず』にただ伝える『無性の愛』で行う
『自分の一部』として感じているなら、それは『神経伝達』のようなものだから、『絆=氣綱』を大切にしよう
それは『目に見える物質的な何か』を『担保』にした『信用や信頼』とは違う
それは『絆(氣綱)の繋がり』とは言わない
『思い込み洗脳のマインドリセット』のお話でした(*^^*)
私は孔子の持ち込んだ『信』がどうも…『孔子』の『講師』の『格子』の『公私』混同がね~・・信って簡単に使うやつは信じてはいけない(笑)
こうしの言霊は
転がり入って生まれた示し
でも『稲葉浩志』の『数学講師』の言葉は『心に刺さる』んだよね(σ•̀ᴗ•́)σ彼は「俺を信じろ」とは言わず、『己を信じろ』という詞が多い
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