認知戦と聞いて、即座にそれは、既存の選択肢という与えられた鵜呑みのトロッコ問題を受け入れる事だと、その意味を選択しない認知せん!(否定・拒否)。これが認知選だと気づいたお話
認知とは
これこれだと認めること
理解・判断・論理などの知的機能を指し、精神医学的には知能に類似した意味であり、心理学では知覚を中心とした概念です。 心理学的には知覚・判断・想像・推論・決定・記憶・言語理解といったさまざまな要素が含まれますが、これらを包括して認知と呼ばれるようになりました
信=人が言う(目先の事)は、伝=人が云う(先人が言った事)にいつ変わるの?
これは、簡単に言えばこういう事
いつまで信じるか、信じないかを無責任にシランケド!と声高らかに押し付けてくる『人が言う』目先の情報を、さらっとどこかの誰かが『人が云った』事にする『都市伝説』に遊ばれて、『終わらない週末』という『陰謀論の語り集り』に揺りかご、『強請られてんの?』と
これすなわち、そう思わせたら価値になる、『勝ち負けのない認知戦』
『戦わずして不戦敗』という『間違い』に迷い込ませる『陽動の手口』
争いを止める方法のもっとも簡単な事は、『相手の戦意を無くす方法』と考えがちだが、その戦意を無くさせる『労力』すら使わない方法が
洗脳教育
『思い込み』とは、『勝手に道に迷う事』である
目の前にゴールがある時、『嘘のゴール』を教えれば勝手に進んでいく
道の分岐点で『看板』をすり替えれば、『道を間違った事』すら気づかない
それは『娯楽』なんだ、『エンターテインメント』なんだと『認知』を広めれば、『事実に辿り着く事』を『煙に巻いてしまう事』ができる。『洗脳教育をしている自覚』はないが、ただ『真に迫った所で真実をはぐらかす行為』はゴール手前まで手引きして最後に突き放す行為
なんでそこに『無知蒙昧の思い込み』を連れてった?という
未だに目先の不安煽りを飯のタネとして広げてばかりで、うんざりする
明るい陰謀論や明るい都市伝説は存在しないのは
陰謀論の時点で、陰=界隈=隅っこの過度の角(22)の話であり、大半の人が78(円)の中である
都市伝説が日々生まれるのは、人が言う=信を用いる=信用をファンに向けて放ち不安にしている
信用しているファンへ与える不安先導
不安を求めるからその信者となるファン
まさに信用取引という商売
飽きない売りの商品は目先の不安情報
この構図が、いつまでも安心に至らない、重箱の隅をつつくような、闇ばかり追う不安洗脳教育だと、信じていないで、教祖たちは娯楽のエンタメと言って逃げるが
その洗脳教育を施された無知蒙昧な信者が、ファン(換気扇)となってその教祖発信した内容の影響力を拡散させて、ある事無い事を結び付けると被害者面をするならば
キリスト教や釈迦などは、自分で言った覚えのない言葉や教えが、ずっと拡散されて尾ひれはひれがついて、間違って広がっている現状をどう思うだろうか?
影響力とは実体を持たない陰であり、陰謀論や都市伝説という一つのコンテンツ事態が、一人歩きする化物として語り継がれる伝説になって行く
それは、『新たな不安』を与える思い込みの情報のインプットから起きる洗脳教育
不安になった者は安定を求めるようになる
心のすき間を埋める為の不要な情報を混ぜて混沌となって行く
その混沌を産みだしたのは、都市伝説テラー、不安を煽るテロリズム
革命家のように入り込み、徐々に娯楽のエンタメとして社会的ポジションに収まる邪
怪談話というカタチだけの怖がらせる話は薄い
昔の怪談は大事な事を伝承させる為の説法だった
後で内容を何度も思い出していくと、最終的には
幽霊の正体見たり枯れ尾花
これを伝えたいたとえ話だったんだ!と気づいて不安は消えて安心になり、そして、その気づきを与えてくれた先人の恩を引き継ぎ、時代に合わせた例えの怪談説法にまとめる
不安を与えるのは物語の中だけであり、その物語も真の意図に気づけば、安心へと変わるのが怪談=階段
怪談=心は又土に言う炎=過去の失敗と末路の戒め
怪談=段階的に階層に分かれた認知の段組み
子供の頃に聞いた怖い話は、大人になったら現実のこれを例えていたとわかる
そういう不安の与え方が精神を強くする古の都市伝説であり、大人は子供を怖がらせる娯楽であり、子供はそれが恐れによって忘れる事のない学び方の一つ
お化け、妖怪、見えない・確認できないからこそ子供の学びにちょうど良かったのに、姿を見せてしまったらルール違反(干渉)だ
・・という、『あっち側へのダメだし?』になりそうなのでここで止めておこうw
要は全ては『認知』である
にんちの言霊は 強い圧力の凝縮
これ以上ないくらい決断に迫られている
だから、トロッコ問題と例える事もできるし、地獄の門の上で、入ろうかやめようか考え中の考える人(ロダン)とも例える事もできる
=逃げ場がない圧力
その認知の先に『戦』=単に矛を使って「ウォー!」って叫ぶ『戦争』しかないんか?
「他の道はないのか?」と認知を与えた者に問い返した所で「信じるか、信じないかは貴方しだいです!って言ってるのにここまできて文句言うなよ、いい?自己責任だよ?」と『信を用いて不安を煽ってきた者』は『言い逃れ』をする
その時点で洗脳された先の『不安の中でしか選べない二択』で『他人見殺しか自己保身か』を選び、『どちらを選んでも救いがない』とさらに落ちていく
『始まりが不安』からの時点で、『安心・安定の時に選べる選択』が無くなっている
何の『情報』を聞かされても『信用=人が言う事を用いる=人為的=偽』である。それを『人に言う=信』事で、後に『人が云った=伝』という『説』になる『名声を得る思惑』があるのだから
なぜ『都市伝説』なんだろうな?『田舎伝承』じゃだめなんかな?と考えると面白いのが、都市伝説は『偽の娯楽のエンタメ』で、田舎伝承は『生活密着の体験談と戒めの知恵の説法』
『目先の認知戦の情報』ばかりで、『兵どもが夢の痕』の痛い思いして焼野原で学んだ『田舎の知恵』は『偽書扱い』
まぁ、『意気急ぐもの』にはつまらない『小言や苦言説法』が多いけどね
これはいうなれば、様々な映画を見た後に、ただ感想を述べるのでなく、その映画を創った『監督はどういう意図』だったのか?という『創作秘話を楽しむレベル』の人が、邪魔者を遠ざけて静かにゆっくり楽しみたい
そんな時に、出逢いや体験を求める『魂の若い人がゴミのように集まる都市』の中で繰り広げられる『人が言う=信を用いた説』が、そのうち『人から人へと言い伝え』となり、『伝説』へと簡単に変わる
薄っぺらい陽動
・・とまとめて思ったのが、なるほどこれも『バスツアーガイド』のような役目だねと(笑)
真にせまる都市伝説が、『円の際』をギリギリ走りながら、片方は『過度の闇の界隈』を見せて、もう片方は『円の日常』を見せる
右手をご覧ください→みんなのほほんと『平和ボケ』してますね?
左手をご覧ください→そんな人たちを『闇』が狙ってるんですよ?
今日見た事は『一部は内緒』ですが、周りの『人』にもぜひ『伝えて』くださいね!
それでは『世界の角の闇の一部を巡る円際バスツアー』へご乗車有難うございました
ま、こんな感じか
さて、私はこの記事の『前半』と『後半』で 『まったく違う認知の選択肢』を残した
①前半は都市伝説テラーが『陰謀を広げる手先のビジネスの傀儡』となった『洗脳教育を施し信者を利用』して、『信の説』を『伝の説』へと変えて、『不安を広げて飯のタネにする邪な者達』と認知させる誘導
②後半は都市伝説テラーとは『円(78)』から出て『闇(22)落ち』しそうな『崖っぷちの思考(一線超える)の者達』を、『円の際の安全コース』から『過度の闇を見せるツアーガイドつきバス旅行』に乗せて行き、『また日常の戻す役目』と認知させる誘導
どっちも『飽きない面白い商売』だよ(笑)
認知戦ではなく『認知選』
『選ぶ』と書いて、『二人の己』と『共』に『進む流れ』
二人と書いて『天』『=人』
『天の己』と『人としての己』が共に進む流れ=『真我』
選んだ『先』には、『認知』はない
『認められたもの』はない
『知ってるもの』はない
『先立つもの』はない
=『未知の選択へと進む』
だから『真我以外一切無常』
『他力本願』ではたどり着けない、『自の釈迦力』が必要
アセンデッドマスター(天の己=ハイヤーセルフ)という『認知』も『やり方の選択肢』は一つじゃない・人それぞれの『導き方と対象』がある『水先案内人(ガイド)』
例えば、ディズニーの『施設内のキャスト』というガイドは、その『同じ空間の中』にいる人達を何の問題もなく『始まりから終わりまで導くマスター』。その中でちょっと『不安や心配』を与えるのも『完璧にできるからこその道化(ピエロ)芝居』
『真』を知ってるから『悪い』ようにしない(バランス)、故に『エンタメ』になるからこそ、『参加者』も『それが真(エンタメ=縁多目=円為)である』と認知すると『安心して楽しめるショー』になる
『認知の選択を楽しむ事』を世界は推進している
例え、子の世が『地獄の一生時間(イッツショータイム)』だとしてもね
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