もしかしたら、カタに囚われていたかもしれない、神ではなくカン、そしてナギ(凪)を求める者と也(ナリ)・成り・鳴りを求めるものに気づくカタカムナ77首の体感
寝起き閃 カンナギ(巫)とカミナリ(神成)
私は最近、『靈』という漢字の下に『巫(カンナギ)』と呼ぶ漢字があり、それは『ミナカヌシ=三つの口』の『口寄せの巫女』
つまりは『神降ろしの巫女』と捉えた
その『始まりの雨』はどこから?と『雲』でもなければ『偽りの天のベール』でもない
雨、アメはカタカムナで
命の思考・志向・指向
『考え』であり、『心意気』であり、『方向性』である
それが『ミナカヌシ』を通して『素直な心の持ち主』に示される靈であり、そこから『先例=洗礼』を受ける
カンは言霊では
強い力
ナギは言霊では
核の内なるエネルギー
まさに『先人の想いを継ぐ』とは『神降ろし』と言えるし、『先祖供養』と言える
これが『カンナギ』
『凪』になる=争いの『波風を立てない』
静かな湖畔の如く『明鏡止水』の心
一方で
カミナリとは神成、神也、雷
我こそは神になる!
神こそ力なり!
雷の鉄槌を受けよ(トールハンマー)
『カミ』という『力の誇示』
『ナリ』という『姿・形』の具現化
カミは言霊では
力の実態・光
ナリは言霊では
核から離れる
核から離れた実態
つまりは『偶像』という事
これが『神の形(ナリ)』という
『人が神』を装い『争いを行う偶像』の正体
自然に降る雨を自然に受ける
しとしとと『死と使徒』、『師と志と』先祖が降りてくる
『雨が物悲しい』のは何故か?それは『雨は誰かの記憶』だから
…って昔、『雨の記憶』っていうポエム的な詩を書いたんだけど、当時の私はあまりに『ポエミー過ぎて封印』してたが…
『水は記憶装置』と科学的に証明されてきた時、『靈現象』が顕著に現れるのは『水場』というのも納得できる
巫=素直の心はそれを『体に宿して観る』
つまりは『感じる事』で『カン』が冴える
その宿す状態=『素直な受け皿』を持ってそこに『靈の意志』を『宿して観る』
『示申』と『我』が向き合う『水鏡』(神と我)
示し申す『間に我(自ら鏡)』を置く『示我申』
『アメ』から伝わり
『ミナカヌシ』の口を通し
『カンナギ』に宿す伝言・示申=心託
というのも、水鏡(光の反射)、周波数、波紋、雫、あらゆる所に『雨の発生源=衝撃からの伝搬の経路』がある
だから水・自ら『起きる、起こす流れ』が『龍の鍵』となる訳で
自らが・・『方向性』を間違うと『傲慢』になる
『雷』は『地』に落ちる、雷鳴(らいめい)として『空間』に鳴り響く
来名=来る名=『来るな(拒絶)』
雷とは我こそは神也!という『ナリ=形象』
その衝撃に驚きおののけという『鳴り』
北欧神話における『侵略のトール神教』
しかし、日本語では誰もこう呼ばなくなった
『イカヅチ』と
このイカヅチこそが私が今朝の閃きで『心氣一転』切り替わって、『カタカムナ』ではなく、『カンカムナ』になった理由
心氣一転!カンカムナ研究スタート
カタカムナ…の『形(カタ)』にハマり過ぎてたかもしれないと想い始めたのは、77首まで独自体感論の経典をまとめつつ
その『既に周りに有る界隈の概念や常識の思い込み』を入れずに、『夢体験』と『その体験を振り返った洞察』でここまでやってきた『感覚によるカン』であり
そのカンに『素直に従ってきた』からこそ、『心に悳』を積み、『納悳』して進んで来た結果
『カタ=形=ナリ』に『意味』はあっても『忌み=己の心が無い』と感じ始めた
なぜなら、言霊ではカタ=『力が分かれる』
カタ=形=『物質』になった時点で、それは光は『反射(物質)』と『透過(非物質)』に分かれ、『目に見える/目に見えない』になり
その『物質面における神無名』の捉え方だけでは『非物質面における神無名の世界』を捉えてない
『カタ』にハマらない、何も『指標が無い』けど
『道なき未知』を進む
『自らの流れ』を産む
これが『カンカムナ』
言霊は『強力な力が広がった核』
その『カン』に素直に従うから『巫』=感凪=『穏やかな凪』だから『感じる』
そこには『三つの教えが柱』としてバランスを取り穏やかな湖畔の『凪』のような『心に映す水鏡』
その出処は『雨=水の記憶の波紋』、先人達の想いの『神道の浸透』
これが『靈』という生き様だ!(๑•̀ㅂ•́)و
『靈』に始まり『靈』に終わる
その生き様は『誰かに降り注ぐ雨』となり、それを『素直に受け止める鏡』を持つ者に『浸透』して『神道を継承する先例の洗礼』になる
キリスト教はわざわざ神父とプールに入って『頭に水ぶっかける』という『体裁の洗礼(カタ)』をやってるけど
元々は『その地の風土の雨』に打たれるだけで、『土や海に還った自然の靈』を宿す
『滝』に打たれるのも『自然=先例の洗礼』
高きから低きへ降り注ぐ水は、『石を打ち砕く』のだから『意志』が強く無ければ凹む_| ̄|○
心でその『洗礼を有難い』と受け止める
『自らの意志』を自然に試されるのが『滝業の心構え』
だから思うんだ
『空に化学物質』をばら蒔いて自然の風を、『人が生み出した風邪(万病の元)』に汚す『気象操作の愚かな行為』が、どれだけ『業が深く醜い人間性』なんだろうと
意図的にやってようと、意図を知らずにやらされていようと、「我こそは神也!」と勘違いした『傲慢』と、それに『忖度して結託した一部の侵略こそ正義』と勘違いしてるアホ共が
「見ろ!!これが俺様の力だ!!」と『誇示してる愚かさ』にしか見えない雷鳴=来る名=来るな
・・それをやれば、いずれは『自分たちも追い込まれて逃げ場が無くなる』だけだと言うのに…
いや、もう『逃げ場が無いからSDGs教』に『信者=儲』を囲い込む
(権力者達が)持続可能な『情報・社会的弱者を糧にするリサイクル』
そんな環境に「頭を冷やして目を覚ませ!」とザバッ!とバケツの水をひっくり返したような『大洪水の洗礼を起こす気持ち』もわからんでもないが
さっさとそれで終わりにしたいと『人類巻き込んだ自殺願望=補完計画』に巻き込まれてる感もあるよな〜と思った時
『残酷な慈愛』の事を『マイトレーヤを弥勒』っていうんだが、そのアナグラムの意味を知れば・驚愕するよ?
その全てを破壊する怒りの鉄槌が『カミナリ』ではなく『イカヅチ』と表現した時
あ、これが『日本の心意気』だよと
いかづち=愾槌という漢字の衝撃
『愾』という意味は
なげく。ため息をつく。ため息。「愾然」 ②いきどおる。いかる。うらむ。「憤愾」 類 ①②慨 · 下つき. 敵愾(テキガイ)・憤愾(フンガイ)
HAHAHA( ̄▽ ̄)また『レッテルワード』
『与えられた意味を鵜呑み』にする人は『カタ』にハマってるな〜と、『カン』が働く私は素直にこう読んだ
心氣
これはそのまま
心に漲る『無限のエネルギー』
まさに『心から湧き出る力』だからこそ!
心氣一転
あることを境目にして、がらっと心の持ちようが変わること。「心機」は、心の働きや動きの意味。「一転」は、がらっと変わること
この心氣が…
なげく、うらむ、いかる、いきどおる
敵愾心、というネガティブで周りに発散すると
トールハンマー(雷の一撃)
『愾(なげき)の槌』ですよ(笑)
それは『イカヅチの力』を間違った使い方にして、『傲慢な神成(カミナリ)』にした偶像
『心』の『氣』、『木』を『追』う
『心』から湧き出る『無限のエネルギー』は、『自然回帰する=循環』を産む
これがイカヅチ=愾槌の真理
『真逆』に力を使うと『心は締め付けられ有限の絞り出した苦しみと嘆きの一撃』となり、『自然破壊を繰り返す搾取』になる
カミナリ==雷=神成という『傲慢な勘違い』
それを『崇拝する偶像宗教』
なぜ『雲』もない『青空』から落ちる雷を『晴天の霹靂』というのか?
青天の霹靂(せいてんのへきれき)」は、晴れた空に突然雷が鳴る様子を表す四字熟語で、思いがけない出来事や、急に受けた衝撃、打撃などを意味します
カンカムナに気持ちを切り替えた今朝
それは『ナリを変える=成り代わる』=心氣一転
『神に成る』のではなく、『カン』になる
『見える形』を持たない、『見えない流れ』
それを『感じて受け入れよう』
その結果、導かれた漢字が『愾』
『イカヅチ』を探して見つけたから『槌』をつけると
愾槌=雷の鉄槌のトールハンマー=『破壊』
しかし漢字が伝えるのは
『心の氣は木を追う』=『自然回帰の循環』
まさに青天の霹靂
思いがけない急に受けた衝撃の破戒
『雲の無い青空から降る雨』を追って、次はその『青空から愾槌』で打たれるも、それは『正典・原典=自然回帰の循環』だろうと、その『目に見えない領域のカンカムナ』と実感
それでわかったのは
『青空は心』にあって、その『心から湧き出る無限のエネルギー』があれば、雲のない青空から『雨=靈(先祖)』も宿って『浸透(神道)』するし
突然、閃く『青天の霹靂=正典の癖歴(経典をまとめた手癖の数々=ことわざ・説法)』で、『都合のいい概念やルール』に対する『嘆き、憤り』を感じ
『トールハンマーの破戒(我こそは神=示申=心なり!)』が起きて、『反省』してまた『洗礼の雨(先例)』を受けて『地』が固まり
よっしゃここから『心氣一転』できる(๑•̀ㅂ•́)و✧今だ!
カタカムナ77首まで来て、『ゴール(80)まで後三つ』かと思いきや、ここから『裏側に入っていく』とは思いもしなかった(笑)人によっては『裏カタカムナ』と言うのかな?
・・と書き終えた直後に意識が飛んで、目覚めたら続きの補足が色々あったが、覚えてるのは以下
『カタ』にはまると『語りに堕ちる物語(都合のいい歴史)』=『思考停止で堕落』になる
『用意されたピラミッドの上』には『都合のいいカタにハメる目=片目』があるが
その上に浮き上がる『カタにはまらない流れ』がある
それは『カン』が頼りの綱のカンナギのカンカムナ
『(巫)』の上には『三口』あって、その上に『雨』に繋がる流れがある。『多岐』にわたる『名落の瀧の語り』を『堕ちずに昇華』して『昇龍』となり『人をのせる籠(加護)』となれば
『雨の浮舟』
それが『靈』に始まり『靈』に終わる
カタにはまって『堕ちる物流』とカタから外れて『昇る仏流』と
仏流といっても、『仏教』っていう忌みではなく、イム=『忌』=己の心=『自らの流れ』であり
そのイムに『力』をたせば『カムイ=神威・神居』
神とは示申=心 心意は真意、それを知るのは己の『観・見・身』
『既存の概念の流れ』に身を任せるのが嫌なら
『自らが流』となり『神輿(籠)』を担げばいい
『心に氣』を巡らせ、『木を追う』と『一転』する=愾槌(イカヅチ)
それは心氣一転=『心が入れ替わり物事の見え方』が変わるきっかけ
77からひっくり返せば『ムム』
『ナ→ム』でもあるが、やはり『カタ』が無い『名無』のエネルギー
ここまでまとめて、改めて、76→77首を比較したら、中心のエネルギーの方向が変わっていた。そういう些細な違いを直感で先に感じ取るから、カンカムナ=感じるカタカムナ=感者(エンパス)の能力はおもしろい
信者の信は『人』の『言』う、人が言う=『人言=他人事のカタ(教科書・許可書)』にはまった概念』だが、感者の『感』は心に伝わる振動を感じて『感動する体感』無くして『理解なし=納悳しない』
だから、『一切皆苦』から離れて、ほっとけの『仏に成れる』・・あ、『成仏』だ(笑)
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