一体何に従って生きているのか?生きる事は何かに従わないと終わってしまうのだろうか?人は人の生み出した法に従う前は何に従っていたのか?己の心という主君を忘れたサムライは感じる漢字を間違える『侍』と『士』のお話
従うとは
逆らわず、かけ離れないように行う
後ろについて行く。「先達に―」。沿って進む
前へ習え
右向け右
一、二、三!
まるで『軍事的集団行動』にも思えるし
『羊飼いの羊の群れの誘導』にも思える
と、思ったら、『従』単体の意味が
あとからついてゆく
ついてゆく人
主従・従者・従僕・侍従
ここで『違和感』を感じた
主に従う→宗教
従う者→信者・家来
従う僕(しもべ)→奴隷
侍を従える ← ここ!!
侍従
君主のおそばに仕えること。また、その人。特に、天皇のおそばに仕える役目の役人
うーん(´・ω・`)侍は『君主に対する忠義』
つまりは『士(サムライ)』なんよね
だから『侍』って漢字事態が『人の寺』って書く時点で寺に従う者=『宗教兵士』に感じる
士+心=志 サムライハート
士+心=志
サムライ+ハートは
(±)を支える心
『忠義・忠心』というのは主君という『己の心が認めた=忌』にこそ
その『心意気を支える事』を『士どる志』
寺の人=侍という『職業』ではない
ここで『従う者』の『選択の自由』を考えた時
『立場や状況の判断に従う者』と
『何があっても己の心に従う者』と
己の心を禁(とどめる)と書いて『禁忌』
とどめる己の心=主君に従う志=サムライハート
根源から『全く違う』と感じた
例えばやはりそれが顕著に現れたのは
コロナ禍の『ワクチンの任意』という選択
前代未聞という造られた『ショックドクトリンの状況(策)』によって『社会的立場』や『同調圧力の柵(しがらみ)がある者』ほど
『簡単な二択(命の保証もないのに誰も責任を取らない事に同意書を書かせる)』なのに、片方を『選びにくい』ように『世論に従え=命令に従って調和しろ=令和』と『大本営発表のメディアコントロール』をされた結果
『新たな秩序』や『押し付けられた価値観のルールに従う者』になった約80%の人々。「それが正しいのだ!!」と世論の判断に従った者達は『侍=寺の役人(正義マン)』になったが
簡単な二択で『それは受け入れられない』と『己を支える心』をとどめて、その『初志貫徹(打たないで様子見)を覚悟』した心意気
それこそまさに『士+心=志(サムライハート)』
『±(プラスマイナス)=中道』を支える忠義心
だからあの時空が歪んだような気持ち悪い『エゴイズムの正常性バイアス』を感じた時に、『中道』、あらゆる『エネルギーの中間』を見出そうとして、『類は友を呼ぶ』ように
二元性のエネルギーのシンボルである『ルシファー』や三面六臂(さんめんろっぴ)の『阿修羅』、『三女神信仰』、『正三角形』から立方体にして『正四面体』と…
どこまでも『±ゼロを支える心』を追いかけ続けた結果、その到達点が『ラグランジュポイント=平和のシンボル』であり=『ゼロポイント』に至った
ここが『志=サムライハート』
『和をもって尊し』なんだと気づく
だから『サムライ魂』とは『役職や職業の責任』じゃない
己の心にとどめる(禁)『禁忌を護る事を士どる志』
志を云う鬼
『鬼門の鬼』として『間違い』を心に受け入れない覚悟
これがサムライという『精神の生き様』、プラスマイナス『ゼロポイントの拮抗』
従うべき『主君は己の心』である
己の心の根源を忘れるなと『禁忌の覚悟』を持つ
そんな『志』がわかると、こういう日本語がなぜ生まれるのかもわかる
襤褸は着てても心は錦
襤褸になるほど使って『大切』にしている
『見た目』ではなく『心意気』、右往左往する『流行り』ものには興味が無い
武士は食わねど高楊枝
本当は食べたいのに痩せ我慢してる…と『レッテルの意味』になってるが、今の時代、『食糧難』…と煽られて食欲の誘導先を『人工食、養殖、加工食』と、食べられれば何でもいいという『パブロフの犬』のように宣伝された物が
例え『毒』であっても『出された物を食う家臣(侍)背に腹はかえられぬ』…と食べようとするが
毒を喰らわば皿まで舐める
欲望に従う者を客観的に捉えた姿を見れば、それは『醜い犬食い』で、『西の鬼、南の金の犬』=醜い献金ぺろぺろ
…ああはなりたくない┐(´д`)┌ヤレヤレ
と反面教師として見ている貴用事(たかようじ→他人事)
道理(主君の意志)がないなら、無理に『食わなくてもいい』。むしろ食わない方が『意識』が研ぎ澄まされ『勘』が働いて、『物事を冷静に見通す』ことができる
やはり『従う者』としては同じでも
『主君が己の心』か?『それ以外(外来)』か?で
士+心=志+云鬼=『サムライ魂の有無』はわかる
もうひとつわかりやすい目安がある
侍=寺の人
武士=戦の中で止める事を士どる
侍の言葉に『サムライはない』が
武士に『士(サムライ)』が入っていて
戦を中で止める±(プラスマイナス)
プラスマイナス=差取りを支える心=志
だから『武士』と『侍』も違う
侍は寺の人という役職
主に『賃金や待遇』で雇ってもらう『家来』
武士は『志』で生きている
己の心が『主君と認めた者』や、その主君が描く『理想に共感』した時、例え禄(給料)が無くとも、その『縁の下の力持ち』として『支える心を士どる』=志を持つ
例えば『釈迦の説法』に感銘を受け『法華経の守護龍』となった『八大龍王』とは、それを『敵』と見なし『廃仏毀釈をする側』から見れば
『手に負えない暴君』の『八岐大蛇=厄災』となるのは、『社会、常識、与えられた価値観に従う者』による『偏った正義マン=寺の役人=侍』になるようなもので
『家来・家臣』として『お家柄を護る』為に必死になって『手柄』に目が眩んで、『服従』している『主君の命令に従う事』が正義であり、例え『心が痛むような虐殺命令』でも従わないと、『役職剥奪、家族が路頭に迷う柵(しがらみ)』
だから全てを失った『落武者』、『奪われた者』の中から『武士=己の心に従う』が生まれる
あるいは『力がある』から『利用される』のだと気づいてアイデンティティである『刀を封印』して忍者(しのぶもの・隠者)になる
時の為政者の妄言などただの権力の椅子取りゲームのエゴイズムに過ぎず、栄枯盛衰、新旧『現れては消え』の繰り返しの如く…
そうやって達観して『剣の道一筋』のような『不器用な生き方の世捨て人』が、感銘をうけるのは、『力に頼らず世直しをする存在』である
人は心に『沁みる言葉』で変わる。心が洗い流され改心して『心が別物』に入れ替わる
右往左往、上下格差が『プラスマイナスゼロの安定』を乱す時、その争いの差を取り除いて拮抗して止める
そうすれば、『歪なバイアスがかかってない元の状態』がわかるようになる
その状態を創りだすのが志=サムライハート 『主君』は『己の心』である
そりゃ、心を操れないから『都合が悪い存在』だわな(笑)
LEAVE A REPLY