主観と客観と俯瞰、だらこその足りない役目を演じる為に、現一切色心三昧(欲を望む姿で現れる)の観自在。俯瞰は目と耳の観世音だったと気づくお話
自己中 と思い込む状態
自ら己の中に在る…もしくは有る…
と思い込んでるもの
意識・魂・心・精神・霊魂
さて、これを理解するために
『一人称視点』と『三人称視点』を例にする
一人称視点は嘘の偽の世界
一人称視点はそのままでは『鏡』がなければ『自分』を確認出来ない
『他人に確認と同意』を得なければ『自分である事』を証明出来ない
しかし…本当にそうだろうか?
他人が『あなたが求めた事にただ応じた』だけで、実際は『全く違う存在であるかもしれない事』を『あなたは証明出来ない』
貴方がただ『自分勝手にそうだと思った事』に対し、『周りがイエスマン』だと『人の為=偽善者は口から虚ろな優しい嘘をあなたに返す事』で
「自ら己の中に有る・在る…」と『思いたいあなたの自分勝手』を成り立たせる
つまり『主観』では『自己証明』が出来ない
三人称視点の俯瞰は外観世界
『現実には有り得ない』三人称視点
「自分だ…」と思っている存在を360°『好きな方向から観る他人目線』
「目の前に見える存在こそ自分…」と『自己認知』してる存在は『外から外観を見ている客観』
つまりは『他人からどう見られているか?の認識』であり『主観との共有』はできない
わかりやすい例を出せば
車の『中のドライバー』と
車の『外の見た目』
ドライバー目線からは『外のデザインがわからない』が、『運転席でやる事』は変わらない
これが『一人称視点』の『客観を気』にしない自己中の主観』
一方で自分が乗っているのはフェラーリだのBMWだのと、『見た目の他人の評価を欲する』のが『客観的に自分を捉える観点』
視線・中から外→ 運転している自分から見える景色
視線・外から中← 高級車を運転している自分という景色
ここで『ナルシスト』がわかる
まず『客観的な自分の評価』を高めて、その『賞賛の目線を向けられている主観の自己中』になる
つまり『鏡』がなくても、『他人を鏡』にするから、『比較する他者』がいる限り『自己評価は高い傾向』にある
その真逆が、『襤褸は着てても心は錦』
『一人称視点の主観の自己中』で、『存在の自己証明』を『気にしないまま存在』する
方向性が全く変わる観点(目の付け所)と言える
夢では自己認識しない一人称視点
昨日の明晰夢でも感じた事は、寝ている体から『意識が離れた感覚』
目を閉じたまま、そのまま『別の世界の五感の感覚』が来て目を開ける
明晰夢か『確認』するため『掌を観る』
指が3→4…即座に5本ない→『明晰夢と認識』
近くの物を軽く『念動力』で試して動く→『明晰夢+自由意志確認』
これで『五感を持った一人称視点の明晰夢の世界体験』は始まるのだが…『今の私(現実の意識)』という『自己を証明』出来ない
その世界には『証明出来る物』が無い
仮に『鏡』があったとしても『映った姿』が違えば、その時点で『自己認識がズレる』為に『元々の存在すら間違いかもしれない可能性』も出てくるし、そもそも明晰夢ではなく「現実では?」という可能性もある
これを『認知のパラドックス』とでも言おうか
『別世界』で『自己認識や自意識を過剰に保とう』とする事は様々な『精神障害の原因』になる
例えるなら『生まれ変わってる』のに、『過去世の記憶と意識が居座る』ようなもので、『新生』を感じず『延長や変化』に感じる
実は『明晰な夢だと思っている五感のある世界』は、ただ『別の現実世界に迷い込んだ』…と捉えて『客観的な自己認識を求めない事』が重要
『夢中(夢の中)』な時は『自己中(一人称視点)』でいい。つまりは『車がどんな見た目』をしていてどんな風に『客観的に観られていた』としても
『ハンドル』を握って『アクセル・ブレーキコントロール』するのが『自ら己の中にいる今の主観の意識』
それは主観では『何者でもない』が、それが「何者として映るか?」という『客観的な評価が生まれるのは後=表現』である
つまり『心が先』に『中(潜像)』で『心の領域』に『選択の精神世界』があり、『体は後』に『外(現象)として体(細胞の集合)』が『自己認識』の世界
この『意識の観測点』を『中と外』に切り替える
それが『観自在』だと認識した
『内観』とは『体の細胞(結果)を観る事』ではなく、その結果が生まれる『因果の選択』を観て、『今の意識を主観』として送り込む
『足りない』を『和たす心』として『格差を差取る心』として、『現実に生まれる遥前の因果』を旅して、ひとつずつ『パラドックスを解消』している
これは『客観を気』にした時点で、『主観』では無くなってしまう
ドライバーが『車の外』に出て『自己認識と自己評価(他人の評価)』をしてしまい
「俺の車凄くね!?格好よくね?これに乗ってる俺イケてねぇ?」とナルシストになると、周りは
「え・・あ、うん・・凄いと思うよ?」
「お、おう!、車かっこいいなぁ」
「イケてるね!(シランケド)」
自分の視線・外から中(客観)← を外から見る客観、と引いて主観に戻れなくする『客観的自己中』とでもいおう
観自在 自主と他客
そういう『物事を多角的に捉えてみる目線』が有象無象にある中で、最も大事なのは、『ドライバーとして制御する位置』を見失わない事
逆に言えばその『主観の意識に集中』している時は『外観』は気にならない。自律制御のコントロールを手放した時、人は『客観的に自己を観る』
それは『軌跡を辿る』とも『過去を振り返る』とも言える
ドライバーの主観の目線は景色が『流れていく』
客観の目線では、車が走り『遠ざかっていく』
俯瞰の目線では、ドライバーも車の状態も『切り替えて観ている』
一人称視点のドライバーの主観
三人称視点のドローン追尾の客観
敵(三人称視点)を知り
己(一人称視点)を知らば
百戦危うからず(俯瞰の全体)
これは『己の中に敵』を取り込み、『仮想敵の主観』で行動を予測する
また、『敵の中に己』を送り込み、『仮想自分の主観』に対する敵の行動を予測する
そういう意味では『敵に塩を送る』のや『挑発的行動』もまた
敵に『仮想の主観』を想いこませて『行動の先を読む戦略』ともいえる
要は『主観と客観』を『観自在』に切り替える時
それは自己の内部に限らないと言える
例えば、現代故事成語として確立されたこの一例
『未知の病気』で『不安』を煽り、『市販の薬の製造』を止められ、死者や重病者が大量に出て対策が無い・・と『情報を流された敵』は
ますは「ワクチンを確保する事が先決だ!」という『行動に誘導』され、それを『政治に利用』すれば、選挙の『票獲得』、『国民の信』を得られると画策し
その手の『界隈の結託』を促す事で『政治・医療という徒党』が生まれる
そうすると、「それはビジネスになる」と『経済も絡んで徒党』が生まれる
当然、より『でかいリターン』を得る為に、『情報統制のメディアを参画』させる
いよいよ、暴動が起きかねないという時期にワクチンを投入して
当然、この時点で『損切して利確』したのが『製薬会社』であり
はめられたのが『政治・経済・メディア』だが、『責任逃れの偏向報道』を使い
ほとぼりが冷める頃まで『知らぬ存ぜぬ』とのらりくらりと逃げつつ
『他の矛先へ』と向けさせるための『ショックドクトリンを使ってなかった事』にする
芸能人やらテレビ局の『過去の膿を出す正義(陽動)に夢中』にさせで、それまで起きてきた最悪な『結託した悪行(思いやりワクチン大量死)を無かった事』に忘れさせようとしている
という『敵(国民)に塩(しょっぱい出来事)』を与えた事で、国民がどのように反応するか?を最初から『イベント201で画策した上で実行』したのだとしたら
私の『主観』は『客観』を踏まえてていたから、終わってみたら『俯瞰』で捉えたまんまの事実だった。『なるようにしてなった』、不安を煽られ『踊らされた者達』が『客観』に囚われ『主観』を失った
『観自在』であれば、『避けられた詐欺』だった
これは一つのパターンとして『莫迦のひとつ覚えの手口』になる
全てはここに置いてきた・・(過去)
莫迦とは『仮想の夢』を見る事であり、漠然とした広大な『掴み所のない曖昧な空間』に迷いこむ
その仮想の現実への『入り方・入らせ方』の『一つだけ』は知っているから『莫迦のひとつ覚え』
『口』車にのせて
『口』八丁手八丁で
『口』封じする
行きはよいよい帰りは・・封じられて道がない
同意して契約した事を後悔した所で、後悔先に立たず・・
と『残念・無念』の『欲を望む弱み』を見せると
「契約の破棄はできないが、契約の更改はできるよ?」と
今までの事は水(見ず)に流して、新しい契約に同意させる
これが・・『出口』をしらない『莫迦のひとつ覚え』の繰り返し
仕掛ける側も莫迦のひとつ覚えの無責任だが
仕掛けられる側もそんな莫迦(甘い口)のひとつ覚え
『莫迦は死ななきゃ治らない』のに、活かさず殺さず、ショックドクトリンで『次の契約へ同意させる更改』をしかけてくる
病院の抗がん剤ビジネスは、患者が末期の死にかける最後の最後まで、新薬や臨床試験の実験体への協力を同意させようとしたり、治す気はないが建前上、何も治療しないのでは、病床が空かない為
出て行けと、ひどいもんだぜ?ヒトデナシ、口では建前の善意を述べる偽善者は、『都合のいい人の為の善』の者
つまりは、『莫迦な世界』に『無知蒙昧な莫迦』を引きずり込み、『結託』して『出口のない迷路から出させない仕組み』に取り囲む
例えるなら、詐欺師が被害者(囮)、警察、弁護士、検察・・など、社会的地位がある者に成り済まして、騙す仕組みそのもの
だから、莫迦は死んで、痛い仕打ちをうけ、苦しい想いを身に着けたからこそ
『莫迦のひとつ覚えの手口』にはめられても、『自力』で『出口を見つけられる』
あれ?なんかこれ・・似てるぞ?=主観の経験値
起きてる状況の整理=客観の自己認識の確認・物事の照らし合わせ
全体の流れの把握=俯瞰の今の心とその先の世を観て想定する
観自在で、俯瞰で物事の辿り着く先を見極めれば
「この流れに乗ってはいけない」とまだ流れが速くなる前に離脱する事ができる
だから莫迦は何度でもひとつ覚えの手口=『人を嘘で騙して別の不安世界へ迷い込ませる』が、『莫迦な手口』に気づいたら相手にしない事
主観のドライバーからすれば、ハンドル切って避けて、アクセル踏んでそこを通りすぎればいいだけ
その瞬間はこうなんだ
主観(意欲)=弥勒(あまねく全てを自己表現で記録する)
客観(欲望)=莫迦(有象無象が可能な夢現の空間・出口がない)
俯瞰(無欲)=釈迦(問題に巡り合い解決・出口から出る)
興味を持った物事を観測する事=夢中になる
夢中=既に莫迦の中で起きた事に成功・失敗の二元性を体験
覚醒=莫迦の道程を把握し、欲として望んた事に興味を失い夢から覚める
莫迦の道程って書いて、『馬鹿の童貞』でもいいかと(笑)
童貞の頃は『女性に夢見て夢中』になるのが『男の主観』ってもんだ
それは男としての女性に対する外見の欲求を満たせば満たすほど、人間味=男も女も根底にあるものは変わらないと『肉体的性』に興味が無くなっていくと
肉体的接触より、行為に至るまでの駆け引きや雰囲気などを欲して望み、精神的な心の繋がりを求めて夢から覚醒する
最終的に人は『自』であろうと『他』であろうと『心』に向き合わないと覚醒しない
その両方の立場に氣を巡らせて慮る配慮ができるのが『俯瞰』という観自在
主観・客観という目線に対して
俯瞰は、人の府を目と耳で見下ろす
主観も客観も中(自)と外の中(他)・二元性という中の目線の境界線だが
俯瞰はそんな境界線を両方の結果として同時に観る立体空間
目の観測と音の観音で世界を観ている観世音が、俯瞰であり
その俯瞰からどの立場にも『必要な役割を見出せる』から
『観自在』であり『現一切色心三昧』という
『莫迦が夢中』な世界に『欲として望んだ姿』で現れる
それは時に『誘惑』で、時に『堕落の依存』になるかもしれないが・・『なった(結果)』という事は、その『誘惑や堕落からの自力で卒業』もまた『欲して望んだ体験の業』でもあるのだ
『その体験』をする為に『積み重ねてきた罪』であり、それは、『次の世界を体験する為の業』としてためてきた事なんだ
人が人の罪を裁く事に意味は無い
今、『悪意の限り=善意のおしつけを尽くしている人』は、次はその『悪意にさらされる側を体験する番』なのだが、そこに『契約更改』を呼びかけて、別の『間違いの世界の役割に同意』させて『別の役割』をさせようとするから
いつまでも『莫迦』は『更生して甦るための死』と向き合い、受け入れる事が出来ない、『ひとつ覚え=死を逃れようと生に執着』という訳だ
だから、毎日、主観、客観で相手の立場になって物事を考える癖を身に着ける
そして、自他を含め、俯瞰で見て、どんな役目があればいいのか?足りない(落とし所)を見つける癖を身に着ける
結果、私はいつも『至らないのは己の心の配慮である』と気づいて自己反省を繰り返すと
自分に足りないものを『忘れない・覚える』という『自己免疫として機能獲得』する
毎日、新しい『和足し細胞』が生まれていると実感する
俯瞰と聞けば、上から見下ろす・・として人から離れようとするだろうが違う
自分をアリの主観から、人という存在の行動を客観的に捉えるのも同じ事
それを俯瞰でみた時、人は・・貴方は・・アリに何を想う?
「この虫けらが!」
「気持ち悪い!」
「踏まないようにしよう」
それがあなたの『今の心を観た=観念』した時の素の貴方
誤魔化しても意味は無い、その『本性を業に出して生きる事』が命題
これを世間的な体裁上を気にして常識だと、無理に逆らったら・・いずれそれはパンクして、『一気に業の回収が起きる自業自得』をやらかすと思う
で、『そういう傾向にある人』もまた・・『俯瞰』で捉えれば、日々の『言動や行動、発振する波動エネルギー』で氣が巡ってわかる
類は友を呼ぶ
君子危うきに近寄らず
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