『遊』が何故大切かはこの組み合わせのシンボルが全てを語る形象を継承なお話
遊の意味
心の慰むことをしてたのしむ
酒色でなぐさむ
現代の遊びの意味は『間』違っている
これは『子供』の要素がないし
遊びは『慰め』ではない
これは腐った大人が『色』で楽しむ『遊郭・遊女』など
『与えられた娯楽』での『満たされない事』への誤魔化し┐(´-д-`)┌
『あそぶ』
子供の頃は『当たり前』に誰もが言っていた言葉
ね?今日は何して『遊』ぼうか?
(・∀・)人(・∀・)
そこには思想的な『画策』や『欲望』はなく
純粋に『瞬間の心を満たす』ためだけの『言葉』と『行動』があった
つまりは『純新無垢』
邪心のかけらもなく純粋であること。 また、自然のまま、うそ偽りや汚れを知らぬこと。 人をだましたり疑ったりすることがないこと
そんな純新無垢だからこそ
心に素直で『真理の言葉』しかない
遊びに対して
詰まんないな(満たされない)
飽きちゃった(満たされた)
じゃ『次は何して遊ぶ?』と切り替えるという事は
『遊ぶ事』に対しては満たされた訳ではない
つまり遊びとは『意欲』を満たすための『原理』
『心を満たそう』という『遊び』がなければ『好奇心』による行動はない
遊び=意欲(中から)+好奇心(外へ)
鬼(奥からの圧力)さんこちら手(放射循環)の鳴る方へ
遊びは好奇心を満たす欲を捕まえようと
意欲が後押しする『究極の自己満足』
『遊』の漢字分解
『方』と『子』と『しんにょう』
しんにょう事態が物事が『進む・進ませる』
その上に『方角・方向』という『進路』があり
それは『子の方』に向かっている
『子の心』に従いましょう=純新無垢
=インナーチャイルド=内面の自分
『遊』とはそう言う『エネルギー』を持った言葉
だから面白いと感じるのが『遊走』という言葉か使われる
体の中の『白血球』のメカニズム
遊走とは
遊走とは、細胞などが個体内のある位置から別の位置に移動すること。 多細胞生物の体内にも一つの細胞で組織内を自由に移動し活動する白血球などのアメーバ状細胞などがその例
簡単にまとめると、血管などの『一方向に進む』という『物理ルート』を
『一切無視』して、細胞の中を『どこからどこへでも』一直線に進む動き
わかりやすくこれを例えると
好奇心旺盛な子供
細胞が炎症反応(ピンポーん!)
白血球(誰か来た!)
ε≡≡ヘ( ´Д`)ノはーいただいま
ウイルス「こんにちは、僕1人?」
白血球「うん(*^^*)おじさん誰?」
ウイルス「…今がチャンス」
ソイヤ(っ・д・)≡⊃)3゚)∵オジサ?!
子供って素直で純粋故に『好奇心で失敗』する
だけどその『失敗があるから成長』する
細胞が炎症反応(ピンポーん!)
白血球(誰か来た!)
ε≡≡ヘ( ´Д`)ノはーいただいま
ウイルス「こんにちは、僕1人?」
白血球「( º言º)あ?」
ウイルス「…え、え?Σ(゚д゚;)」
問答無用(っ・д・)≡⊃)3゚)∵撲殺
これは『免疫の学習』と『抗体獲得』の例
因果応報で
辛い経験は辛いを知る
楽しい経験は楽しいを知る
悲しい経験は悲しいを知る
嬉しい経験は嬉しいを知る
こうして『詰まらない(距離)』と思っていた事が
胸に『詰まる(量)』想いになっていく
遊びで走りまわる
ひとつの所に留まらない
『留まらない』からこそ『色んな経験』を積む
だから『遊び』は『學』
『翌遊欲學』
私が適当に組み合わせた『造語』ですが
形象のシンボル的な意味で言うならこんな感じ
『羽立』つ『子』の『方』へ『進む』ための
『谷』で『欠』けた『二元性の中』の『学び』
このシーンがまさにその言葉を引き出したきっかけ
翌とは翌日、翌週、翌月
未だ来ない未来『次元』へ羽立
ちなみに読みは『はたち』
『大人』という『次の次元の区切り』の言葉にも
新しい『次元に飛び立つ』には
欲に惹かれる想いを學(経験)
そして『抱えた想い(重い)』という『執着』を手放して
『気締め』という『終着』に至る必要がある
そして終着(ゴール)が無くなれば
そこから軽くなって『新たな始まり』がある
これが欲學翌遊の『69持論』
6は『欲を満たす』ために追いかけて
『転がり堕ちて行く』必要な學
9は欲への執着を手放して抱え込まず
『軽く』なって浮かんでいく『次元上昇の羽立ち』の遊び
昔の先人のことわざでこれを
『苦』あれば『楽』あり
『良い事』もあれば『悪い事』もあると伝える
これは人生1回の中の『苦楽を友(共)』にする『欲學の教訓』でもあり
また、この現実の人生に限らず
その瞬間の『存在(役割)転生』でもある
『子』を『躾』するには『鬼』になる
子を『愛』するからこそ『厳』しくなる
『矛盾』してるけど
そうしないと『達成』できない
そう言う『苦しい役割』をしなければいけない『時』もある
でもそんな『苦難』が『有る』からこそ
子が独り立ちした後に巡ってくる『楽しい役割』もある
『やった事』は全て返ってくる『因果応報』
この観点から見れば『欲學に気締め』をつけなければ
『次元上昇の翌遊』はないなと思った例として
もしも『性欲』が満たされていない者が
男女の仕切りの間の『銭湯の番台』に立っていたら?
もしも『性欲』が満たされていない者が
精密な『小型監視カメラ』を開発していたり
不動産の『内観の鍵を管理』していたら?
意欲と好奇心は『どこ』に向かうかと言えば
異性=異なる性質=まだ『未経験の未知』へ『道』を踏み外す
『犯罪の動機』って『心の求める遊び』に『素直に従った同期』だから
それに突き動かされる『人(器)』を責めてもしょうがない
『罪』を『侵』したのはそれを『求めた心』であり
『心』は意欲と好奇心で『やって見たかった』だけ
心はそれで『一時』満たされる
だが『罪悪感』として『悔い』が残るならば
それは『間』違いを『侵す』事を『学ぶ役割』を選択して経験し
その『次元(一生)』では『償う事はできない』も学ぶ事になる
もう二度と同じ過ちを繰り返さないようにと
『遊び』の経験で『間違い』を学ぶ事になるからこそ
その『業』は持ち越しで『来世』
だけど業とは『魂の経験』である
ごうの言霊は転がりでて生まれる
カルマの言霊は力が留まる受容
これを転生=69の渦の中に転がり生まれる
今までの『魂の経験は内包』しているとするなら
『業の回収』とは『何かを為す』という事ではない
『同じ間違い』を繰り返さないという『自分に科した戒め』を守る事
『自分の心』を裏切らない事
だから『恐怖症』や『感性』はみな違う
みんな違うのはみんなで『役割を分け合っている』から
それぞれが『生きた道』が『次の器=次元』になる
『そんな人生』を生きてみたいなと言う
転がり入る経験の『転生ルート』になる
だから『遊び』は大切
遊は素直な原動力
子(個)を突き動かす意欲と好奇心
だから意欲と好奇心の指す方へ
『失敗を経験する事を恐れない』で進む
『縁』は『円』を描いている
底(位置・一)を知って立ち止まらなければ
上下も左右も前後も分からない
欲遊翌學
學欲遊翌
翌學欲遊
遊翌學欲
そう言う意味では『真理の探求』や『哲学』とは
崇高な学者や教授など『学問を極めた人』が行う行為ではない
純新無垢に『心に素直な子供』が
『知識』を得て『知恵』を生み出す想像と創造の『遊び』なんだよね
『真理』は『探求』するほどに
『知恵』として『転がり出てくる』から
詰まらない
満たされない
だから『奥』が深い
『知的好奇心』へ意欲と好奇心が向いたら?
『真理の果て』まで行って『Q』の螺旋
『1回の人生の中の欲』
『物欲』なんて大したもんじゃない
だけど、その『1回の人生』の中に
『探してる事』があったりするからこそ
『一期一会』
全ての縁は一生に1回の事だと思って接する
袖触れ合うも多生の縁
その人(役割)は同じ軌道の円の中
『かつての自分』かこれから『先の自分』か
いずれにせよ何かを『与え』何かを『受け取る』
何かを開けるための『鍵』か?
解けない『パズル』か?未知の『宝の地図』か?
例えなんだとしても意欲と好奇心がそれに向いたら
『次のステージ=次元』を超えていく
遊び=子(古)の心は最も大事(๑•̀ㅂ•́)و✧温故知新
『個』は『人』として『固』められているが
いずれ『古』になり『人』としての『形を囲む四角(視覚)』もなくなる
人の想い(重い)の『塊の意志』は
いずれ口を持たない『固まりの石』へ変わる
まるで墓標=古(棺と十字架)
だからこそ『石(パワーストーン)』に宿る
先人の知恵とは
先の人が『知った恵』の『痕跡』
その人達が残して行った『跡』を辿る
『あと』の言霊は『命の統合』
皆哲学者は『ひとつ』を目指していつか『統合』する
それを『継承(形象)』という
形象の意味は
かたち。すがた。美学で、対象を観照(想像)して心の中に浮かび上がる、その対象のすがた。
『遊』というカタチのシンボル
対象を『観照』して心に浮かび上がった哲学
観照とは対象の『本質』を『客観的』に『冷静』にみつめること
『個々』を『孤高』の『此処』へ導くのが私の『遊び』
『欲学』び、『翌遊』べ『子(古)と供』に
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