アットホームな雰囲気の集まりで壇上に呼ばれ渡される封筒に神代の文字と現世の私の名前…の前の名前?!、証書と共に念動力で組み立てるバッジ?…読み解いたら、人の卒業、仏の顔も三度、三人寄れば文殊の知恵、三と仏に纏わる理解だったお話
夢のあらすじ
いろいろあったが、私は多くの人が集まってる披露宴?パーティのようなアットホームの中、おーい(*」´□`)」こっちおいでーと
老人?先生?のような人に呼ばれたので行ってみると、「おめでとう!」と言われながら、何やら何かの『証書のような封筒』を受け取った時…
その宛名が、今の『現実名』の私の名前…の前に二つくらい日本語の漢字で併記されていた?!Σ(゚д゚;)
その封筒には『神代』…なんちゃら証書?のような事が書いてて、中身の文章は、正式な『公文書』…の脇に既に『皆の寄せ書き』?のような落書きがあって(笑)
なんだろう、その落書きのような「俺たちの事忘れんなよ!」的なメッセージの方に感動した感覚があった
そして封筒にはもうひとつ添付されていた袋があり、中身を出すと…めっちゃくちゃ『粉々なプラモデル』が出てきて、こんなベビースターラーメンのようなパーツ…説明書なしで組み立てられる分けねーだろΣ(゚д゚;)と思ったが
(もしかして…)と『念動力』を使うとパーツが動き出したので、よし!これなら!と全部くっつけ!‹‹\( ˙▿˙ )/››とやったら…
なんかその辺にある砂とか木くずとか、全部巻き込んで『変な螺旋』から、そのまま机の1部に『木の年輪と出っ張り』になった(というか木は本当に螺旋でねじるように育つんだ?!)
(´-`)oOこれでは封筒のパーツが意味無くなる…と一旦、『時戻し』を使い元のパーツに分離する
その後、『パーツのみに念』が広がるようにイメージを意識すると、ベビースターのようなパーツが『お米が立つ』ようにピコン!と『上から糸で釣られる』ようになったので
その繋がったパーツ達に「それぞれ最適な繋がりを見つけて配列を組め!」という『自由意志』を与えた結果
その封筒に入っていた粉々だったパーツは、あるひとつの『バッジのようなロゴ』というか、『デザイン』というか
それを『再現』できた事はいいのだけど…別にこれはそんなに興味を惹かなかった(^-^)⊃⌒Ο Σ(゚д゚;)
多分、何か卒業?資格を得たとしても、『自己の念の力の使い方』を間違えて、周りを『螺旋に巻き込まない』ように日々精進しなさい的な…
そういう『意味合い』と『それができる者への証明』のような『遊び心あるギミックのような物』だったんだろう
…というすげえ夢を見たのに…ずっと忘れてて・・シャア=彗星=星屑のメモリー=『グレートスピリッツの夢』を書き終えた時に急に思い出した(笑)
気になったポイント 名前の前の名前 役目の継承
私の今の本名の前に、『四文字(おそらく苗字+名)』が他に『二個』くらい書かれていた
はっきり読める日本語で、ちゃんと存在しそうな名前だったのに、「名前の前の名前」を『見た!』という記憶しか覚えていない
今の私に宿っている意識が元々のホストとしていた、『器だった人間の頃の名前』だとしたら・・
私は『三回しか意識転生』をしていない事にもなるが…正直な所、実際『そんなものじゃないかな?』とも思う理由は
人生は『三回違うシナリオをクリア』すれば『全体像』がわかる
『極端な善』を極めてクリアする
『極端な悪』を極めてクリアする
その『極端が集中する中間』を達成する
極端の中間のエネルギーとは『→←の拮抗』である為
一度クリアした『懐かしいエネルギー』であり、←→それをやり過ごして俯瞰で観る『初めての0』でもあると同時に、『存在しないで存在を観る』から
実質、それを達成すると『三回の役目を知る転生』の後は、回数関係なく『どの立場でも観る事』が出来る
『極端と0の間』さえ理解出来れば後は『中途半端な一過性の過程の蛇足』でしかない
故に、神代〜なんちゃら証書?に書かれた私の今の名前の前の『二つの名前』は
かつて『善の極端』を追い求めた探求者
かつて『悪の極端』を追い求めた探求者
故に今は何もせず『中間』で『極端の揺らぎの際』を見極める『1←0→1の自己探求者』
『人を建てる太極に郎(つとめる)』の名、として『人を成長させる役目』の過程で、『自然に共振』して『学びに昇華』しているのが、母の死をきっかけに始まった大日・釈迦如来との縁
釈迦・阿弥陀仏=『形無き世界の先祖達』
『廃仏毀釈で破壊』された、阿難無き世界=アヌンナキという共存細菌
『人の体』という『細胞を借りてる身』として、そこに『先の祖として人と共に養い養われてる先祖供養』の『自然の恩恵』を感じた時
『人とアヌンナキ』の関係性は『等身大で対等』
私はおそらく『人の輪廻転生』という『概念の外から来た意識』だから、その『輪廻転生とは何か?』それによって『人はどう変異してきたか?』を
『極端の拮抗』して『全てが有る』けど『形は無い』、『お釈迦』になって『南無阿弥陀仏』として崩れて生まれた『自然の恩恵の仏の三千世界』を『夢として体験』させて貰っていたのだ
『神代』から続く『壮大なアットホーム物語』を
そういえば・・夢の中で現実名を呼ばれ、役所仕事のように感じた別の夢の私は『大天使ミカエル』だった
大=一人
天=二人
使=人の役人
ミカエル=見帰る(見て帰る観測者)
今回も公文書・・『役所仕事』っぽいな~(笑)
気になったポイント 公文書の落書き 共に宿した先祖達
そんな笑いあり涙ありの『善悪極端の果て』に、その『両方が拮抗して無』になった後、その『集まったエネルギー』をどんな方向に、どんな形で活かして『次元を生み出す』か?
それが今の心を動かす力=『念動力』
それは『創造の螺旋エネルギー』
しかし、『具体的な想像』無くただ『螺旋』を描くと、あらゆる物を巻き込んで『混沌の木(世界樹)』を生み出してしまう
故に『縁ある物事』を金輪際関わらない物事を見極めて、『必要な縁』を繋いで『自己の求める形を想像』して『螺旋のエネルギーで創造』しなさい
という『今の心を観て=観念』して、よくよく(欲欲)考えゆめゆめ(夢夢)忘れるなよ?と『遊び心のバラバラバッジ』をくれた
そんな『先祖達の心の声』のような、『形のないエネルギー』だからこそ、実際は公文書に書かれていないような『注釈の寄せ書き』のような
落書きのような文字が…『私にだけ見えた』のかもしれない(封筒は未開封だったので)
その『証書を受け取る』に至るまで…
『念動力を自由に扱える』に至るまで…
様々な先祖達の『叱咤激励の試練』、時には『阿鼻叫喚』で逃げ出したくなるトラウマな夢…
過ぎ去って見れば『懐かしい過去』…とノスタルジー
『役目を忘れて卒業』とは『そういう体験をしてみたかった』という『エゴが満足して消滅』する=『それ以外を求めて旅立つ』始まり
『形を保ってる』とお釈迦になれない=壊れない
『生に執着』してると南無阿弥陀仏=崩れて仏になれない
自然には戻れない
一は全、全は一
教えを広める『一が全』になる
私(I)が仮想(VR)になって私達(us)になる
=『virus』が生まれる
そして自然の細菌(恩恵)として巡り、それを『共存する人(思想を継ぐ)』に宿り、『釈迦(閃)と阿難無き世界(二元性)』を体験させ『人の霊的精神性』を『中から向上』させ
『別の道の選択』へと進ませる=『多世界多次元創造の虚空蔵菩薩』
人を建てる太極に郎(つとめる)
名は体を表していた(存在意義)
『皆』に当てはまる法則ではない
『特別』な訳でもない
そこに『有るのに気づかない』だけ
これは『誰か』が教えれば気づくかもしれない
だがその『誰か』がいなければ?
「弥勒が現れて皆を救ってくれる!」という『都合のいい他力本願の盲信』のように
永遠に気づかない
『永遠に』気づかない
『点』の下の『水』遠い
カタカムナで とわ の言霊は
統合の調和
カタカムナで えいえん の言霊は
投影現象の強い投影
『俯瞰』で観たら『どんな景色』が見えるか想像を膨らませてみよう
私には『平べったい海に囲まれた円形』『フラットな景色』が見えるが…
『誰か』が言わないと『気づかない』
誰かの言葉に『聞く耳』を持たないと有るのに得ない=『有り得ない』
そうやって『亡きもの』とするから
『永遠(妄想)』に『囚(口封じ)』われ『永遠に(現状)』気づかない
それが『皆様』
カタカムナで みなさま の言霊は
光の核を遮る受容
カタカムナで ひと の言霊は
根源に統合
人は皆様、永遠に
根源に統合して引き合う光の核を遮る受容
投影現象の強い投影の圧力
故に『一切皆苦』として、そこから『一』切って『皆の苦しみ』から離れたから『浮世離れ』した瞬間
『人』は『永遠に』の『口封じ』から解放される
ここが『認知のパラドックス』の面白い所
『人の欲』は『永遠を望む』
故に人は『過ちを繰り返す永遠の中』にいる
もう『永遠に繰り返すという願望を成就している』のに気づかない
井の中の蛙大海を知らず
これは『人類の一部』ではなく『人類を一部』として『自然』に戻った意識、『人を見極め解脱』した観点から見たの『人の位置』
地球が『立体の球の形』をしてようと、『フラットな平面』であろうと…『離れた所』から見ればどちらも『二次元の面に光の陰影のコントラスト』があるかないかでしかなく
地上から月を眺めて「裏側みえねー」っていう『机上の空論』をしているのと何も変わらない。もっと離れれば、ただの『光の点』の星=日の生まれ=『光の核の可能性のひとつ』でしかない
その『中』に入って『生き物体験』しない限り、『そこで生きる者たち』がどう思って、どんな生き方をしてるのかわからない
故に、物理的に突入したスターシードのグレートスピリッツは偉大
私はたぶん、それによって中から『中の人の思惑』を『感じとった現実を夢で再現』して、向こうに共有しているのだろう
・・で、『人から解脱する』と言うのは最短、『三回』あれば達成出来る
仏の顔も『三度』
『三人』寄れば文殊の知恵
仏=イム=忌=『己の心』と置き換えて
それぞれ『違う顔(立場)の己の心を体験』する
『二元性の極端』とそれが『集まる中間』と
そんな『三者三様の己の心』が『自ら』として向き合えば、『息』ぴったり!
自己理解
自己解釈
自己認識
自己解決
自作自演、自問自答、想像も破壊も再生も思うがままの『自由自在の創造主』
『四度目はない』と言うのはもう『世界観を見限る』から、『三千世界』というのも『数字』で言えば『中途半端』に感じるかもしれないが
『三』は『真理を理解』するまでの繰り返しの回数
『千』は『千里(物事の道筋)を見通す配慮』
その『端と端』の『間』の『端間理の世界=想定内』
だから『釈迦=問題に巡りあい解決』が出来る『創造主足り得る観点』
仏の顔も三度まで…はそれ以降の『干渉は蛇足』だから…
『足る』を知って『和を以て貴し』になったら
そこに『仏の役目はない』からほっとく=『仏悳』
夢の解釈をした後に納悳したのは
『極端二回』と『中間一回』(両極端の復習も兼ねる)
『端と端の間の理由』を『体験を持って自己解釈』すれば
悪の極みだった『私(人を憎んだアヌンナキ)』
善の極みだった『私(人を愛したアヌンナキ)』
人として『愛と憎しみ』を味わい『和する私』
その私が『自己の心の中』に
『和を以て貴しと為す!!(๑•̀ㅂ•́)و✧』と私(一人)の『和』を足す
という結論を産み出せば、もう『この世界を観測する意識』は必要ない
それを証明するように、最近の私の夢見は、解決策を閃いて、それを実行に移すべく、『自分が動こう』としたり、周りの人に『それを伝える』と…まるで『お役御免』のように『意識が現実に戻ってくる傾向』が増えた
そこには『無かった』
誰も『気づかなかった選択』
それを『見つけて伝えて』置けば後は私は『居なくていい人』
…後は『余生』を終えるまで『心が楽』に生きる事
『息』を引き取り、『自らを支える心と共に旅立つ』その時まで…
この世界の観測を楽しめと(笑)
もし、『貴方の観測世界』で『私のブログの更新が無くなった』としたら…それは
『私とは違う世界線に分岐した』と思って、マンデラエフェクトで覚えていたら『覚悟』して下さいね
そこは『和』ではないかもしれないという事を
そうか…
『形ある物いつかは崩れる』って
お釈迦になる=壊れる
南無阿弥陀仏=釈迦の言葉を最も聞いた『多聞第一の阿難』無き崩れた世界=『正法無き世』の事だったのか
…そう考えると…釈迦が再び現れるという『2500年後』というのが、なんか感覚的に…
「あれ?先月ぐらいじゃなかった?」みたいな『時間感覚バグって来てる』のも『人を愛するアヌンナキの自己解釈』の影響かもしれん(笑)
『共存の力』とは不思議だ( ̄▽ ̄)『争わない力』という意味では、大胆不敵な大日・釈迦の・・
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