最初で最後の涅槃寂静の釈迦の言葉の意味を間違えると、その後の進む次元は変わらない…一切皆苦という宗教概念を覆す忌について
なぜ一切皆苦なのか?
一切皆苦(いっさいかいく)」とは、仏教の教えで「世の中のすべては、思い通りにならないものであり、それが苦しみである」という意味です。仏教における「苦」とは、単に辛いだけでなく、「思い通りにならないこと」を指し、生老病死をはじめ、人間関係や願望など、あらゆる事柄がこの「思い通りにならない」ことから生じる苦しみであると説いています
これで説法を説く坊さんの言葉は、多くの老人が病院にかかって毎日大量の毒素の副作用の薬を飲みながら、「薬を飲んでるから生きてられる、有難い、でも痛い、苦しい」みたいな…
生老病死を盲信してる人にとって、「そうだね、うん、きっとそうに違いない…」と諦めさせられ、『極楽か地獄か選べ?』と『選択肢を絞られる』のに使われているけれど…
『与えられた宗教』に『都合のいい思い通りの意味』でとるなよ?
『思い込み=思考停止』をしなければ
『そうはならない』んだよ?
色即是空、空即是色
=『そう思えばそうなる』んだよ?
いいかい?
思い通りにならないものであり
それが『苦しみ』である
ここがポイント
皆が苦しむだけなら『皆苦』
『一切』というのを『全て』と訳すか?
『一を切る』と訳すか?
『一は全』というのは『この為』にある
私はこれを説いたお釈迦様は『金輪際見極め=後の金絡み』の言葉だと感じた
釈迦の涅槃の言葉という事は、これは『初期仏教』の教え。つまりは『孤高の悟りの存在=次の釈迦』となる者達への説法であり、『不特定多数の衆生を救う』という『大乗仏教』の説法じゃない
この『孤高の教え』の『一切皆苦』という言葉の意味すらも、『後世では正しく伝わる事は無い=思い通りにはならない』という『正法は邪見によって失われるを予見』している
生=自然に現れ
病=寄生する
老=時間をかけて
死=自然とひとつに
『カタチある存在』が『カタチ無き愛』になっても、その『生き様』は生きる者に宿り、『時間をかけてひとつの生き様』になる
この『病』を『物理的な病気』に訳すのと
『寄生するもの=自然細菌・先祖供養』と訳すか
また『老』を『子→大人→老人』という身体的な活動の『自由→不自由』と訳すのと
『栄枯盛衰、万物流転、諸行無常、生者必衰』という『自然な法則の中での変化の過程』と訳すか?
前者であれば…
一切皆は、『生きてると病気で苦しむ』
普通だよ、普通!…って『莫迦のひとつ覚えの子供騙し』に聞こえる。これは言われたら、『病気の部分』があらゆる『曖昧な万病』を自己解釈して、勝手に納得して思い込んでしまう=そう思えばそうなる
「現代では、将来二人に一人が癌になるのが当たり前の時代です!」
これ、どう思うよ?(事実)
『そう思えば、そうなる=色即是空、空即是色』
自分で思い込んで自分で『自己暗示の洗脳』してそっちに向かうように『思い込み』しているけど、その力を与えているのが『オモイカネ』(偽日をもたらした神)
しかし、後者はこうなのだ(心して聞け?)
『生きてる者』はいずれ『カタチを失う』が、それは『自然の一部』となってまた『寄生・帰省』する
その『先祖の恩恵』を『時間をかけて人と共に養い』、死後は『先祖と共に自然の一部』になる
「安心しなさい、弟子達よ、私はこれからずっと共にいるよ」と伝えたいのに…それぞれ『自己解釈』が違うから
「思い通りにならないものである」┐(´∀`)┌ヤレヤレ
という『涅槃(授かった命)の時間切れ』のやるせなさ、それは『一切って』皆はそれがわからないから『苦しむ』
その『思い』が『重いコミット(契約)』されて自己解釈されて『思い込み』…それを最も『釈迦の話を聞いていた』であろう弟子の
『多聞第一の阿難(アーナンダ)』が、当然、その釈迦の言葉の意味を自己解釈して広めたのだろう
「アーナンダ!!僧言う事か」
(っ・д・)≡⊃)3゚)∵
それが阿難無きの世界=アヌンナキ
お釈迦様=『壊れた様子』
南無阿弥陀仏=『阿南は全て崩れた』
廃仏毀釈、『釈迦の教えの根絶後』…
ここまでは
生病老死の生→『病』
つまり『形は無くなり寄生する』解釈は合うが
ここで大事なのは
『自然の共存細菌』として体に宿り、『自浄作用』で自己治癒や自己免疫の自律神経を保つメカニズムによって得られる
『自力(釈迦力)の幸福と自由』と取るか?
自然から人に入り込んで、細胞や臓器を『蝕む疫をもたらすウイルス』によって自律神経も自浄作用も『自己免疫疾患』に陥り
『薬(他力本願)が無ければ不幸で不自由』と取るか?
この二つは『入口は同じ病』なのだが、形なき先祖となって『寄生・帰省する自然共存細菌』を『人を死に至らせる脅威のウイルスだ!』と共存を拒絶すると…
『老=時間をかけて起きる内部の変化』で、『関係性が構築』されていく
自然の細菌として共存の為に戻ってきた先祖=『釈迦、阿難を宿す』とこんな感じ
『形』は『生前』と違うけど、『俺』やでー
誰やねん(・∀・)人(・∀・)シランケド
で、出逢った記念に面白い体験をさせてやろう→『病気』になる Σ(゚д゚;)ぐはぁ!
『苦しい』けど、苦しいの中に『突破口があるというヒント』を与えられ、そのヒントを元に『問題』と向き合って『閃いて自力で解決』した時
アーナンダ!!僧言う事か‹‹\( ˙▿˙ )/››
せやねん!そゆことやねん!
なんで関西弁やねん(・∀・)人(・∀・)シランケド
くらいの『祝詞(ノリ)』で、『命掛けで病気を克服』した時、あぁ『病は気(自然細菌)から』入ってきたけど
それはかつて『そういう体験をした先祖』であり『供養』したからこそ、『免疫力』として『共存して命』を繋いでくれたんだ!
と恩恵に感謝(ㅅ´꒳` )に至る
これを科学的に置き換えれば、こうなる
そういう体験をした先祖=痛みの記憶を覚えたmRNA・タンパク質の一部のエクソソーム
供養=人と共に養う=免疫寛容で中の細胞に入れてみたら異物で炎症反応
免疫力=疫を免れる力を身を持って体験して勉強
共存する命=外来から伝来したけど、元は同じ細胞という先の祖となる人の体験記憶
この『体が免疫力を獲得する仕組み』を全て『カタチ無き愛』として『自然に巡る八百万の神』という先祖を宿すために
子供は風の子、元気な子!と日本人は伝統的に子供を自然に触れさせた
だから、田舎の子、自然の子ほど、免疫力が強いというのは、単純に自然適応能力が高い
逆に、都会の無菌環境で育つと、親の代から自然の菌に対する免疫が無いから脅威となり
それを『金持ち』に『医学(マッドサイエンティスト)』がすり寄り、『子供を人体実験の道具』にして『薬漬け』にする
『将来的に弱い体』になるように、生まれてすぐに注射して『毒の種』を植え付ける
この『科学と製薬の間違った風習』は、いずれ『予防毒の中身』が『マイクロチップ(異物)』にすり替えられても「ただの予防接種だろう、皆やってるし」と『思考停止の無知蒙昧』な者達は気づかないだろう
『異物を入れても免疫が反応しない=体を中から改造されても気づかない』ようになったという『遺伝子組み換え研究』がコロナ禍に行われ、『ノーベル生理学象を取った』という事すら・・知らないのだから
まだ計画でもなかったこれが・・
これをで現実的になった
と、今更どうこうな事を言うつもりはない
それぞれが『行動で選択』した『終わったイベント』の後の祭りだから、冷静に自己解釈ができる
だから、わざわざ科学や医学に置き換えて説明しなくても
釈迦が『おしゃか』になり、阿難が南無阿弥陀仏で『崩れ去って』
その後のアナンナキ世界=結果には当然
『目に見えない存在』になった釈迦やその意志を継いだ阿難が人に宿り成長を支えようとする
八百万の神となって自然に戻った先祖との繋がりによって免疫を高めさせる縁の繋がりもあれぱ
『目に見える存在』となったアヌンナキ=人を金の奴隷に遺伝子組み替えした創造主として
不自然な金との呪怨を繋がりで縛り束縛させる世界の繋がりもある
ただ、日本語で伝わった『言葉の真』を読み解くだけで
科学も物理も肉体の構造もメカニズムも『仏の説法で理解』できてしまう
『主命入る=シュメール』だからこそ、目に見えない八百万の自然を大切にし先祖供養を風習にしてきた
風の習わしだからこそ、子供は風の子として自由を与えれば身についたのだ
『八百万の先祖の意志』(免疫として学ばせたい事)
そんな『授かる命』がいつか終わり『死』に至る時
『先祖供養』で宿して乗り越えてきた『問題を解決する力』
それこそが『ひとつ』になって『かつての釈迦=虚空蔵菩薩』になる
これが涅槃寂静で弟子に伝えたかった
『生病老死』という『希望』ある言葉
これから『体からは旅立つ』けど
これからも『心は一緒』だと虚空蔵菩薩を観せる
『一の糸(意図)の者』として
『一は全』として
その『一を切る者』は皆苦しむけどな(笑)
さて、こんなちゃんと『解釈=釈迦を解く』すれば、弟子が後世に間違った解釈=「思い通りにならんな〜」が起きなかったはず
多聞第一の阿難が解釈を間違えたのか…それとも『初期仏教の正法』が失われて『南無阿弥陀仏』になった阿難無き世界から、『一切皆苦』と『生病老死』の『解釈が歪んだ』のか
ま、共通点は
自然細菌との共存、自己免疫力を高め、自己治癒による自律神経を保つという『食生活習慣をぶち壊した』のは…
『西洋の製薬との誓約』である
こっちの都合で捉えると
一切皆苦は
『王』以外の『民が苦しむ』
『特権階級』以外『奴隷』
生病老死は
生きる事は病にかかって老いて死ぬ事
『癌』にかかって『抗がん剤』打って『細胞』も老いて『死ぬ』
『風邪』が吹けば『桶屋』が儲かる
そこら中で『南無阿弥陀仏』が唱えられ、また遺族に「生病老死とは、自然の法則なので、皆そうなんです〜仕方ないんです〜」
と『都合のいい説法』で「戒名はいくらにします?」と『坊主丸儲け』の『地獄の沙汰も金次第』
ビジネスに偏ると
『仏教』ですら「檀家さんダンケシェーン!」(有難う金吊る)
医者や病院は『同意の上で自己責任』にして責任逃れで『毒を薬』といい『病の品山=癌』にする
ここで『病は気(思い込み・重いコミット・同意と契約)』から入り込み、「病とはそういうものだ」と『認知を固定概念』にされてしまう
後は『医者の意のまま薬漬け』で『老いて死ぬ』まで『生きる』
その状態で生きるのは『苦しみ』でしかない絶望
そしてその状況を今か今かと、『生病老死の説法を唱える準備』を進めている『生臭坊主が金勘定』してる
そういう『奸計者(人を騙す・欺く・詐欺師)』以外、知識が無い無知蒙昧な『いくらでも騙せる人達(カモ)』にとって『生病老死は絶望の世界』へ導く
薬漬けで苦しむのは、貴方の細胞に宿った『自然の細菌として共存して支えてきた先祖』
自己をいたわらない(免疫を妨害する)
他人任せにする(薬に頼る)
体=人の本質(宗教・概念・常識)を自由にさせる
莫迦の界隈の『入口』で起きるのは『洗脳』
『脳』が『月』を悩ます心の『凶』
『体は拒否・拒絶』しているのに、『脳が思い込みの重いコミット』で支配されてる
だから、ここも『思い通りにならない』という意味では『一切皆苦』のジレンマ
この場合
『腸』に従う五臓六腑の臓器や細胞、それらを自然と共存させる細菌を『皆・集合組織』とし、『脳』の運動前野からくる強制的な身体への反応の命令を『一は全』とするなら
『一(脳の判断)』を切らないと『皆(身体の細胞・共存細菌)』が苦しむ
この共存細菌を、遡る事…
かつて釈迦だったおしゃかになって壊れた『廃物希釈』
かつて釈迦の弟子の阿難だった南無阿弥陀仏に崩れた『アナンナキ世界』
どちらも『自然に還ったエネルギー』とするなら
釈迦・阿難を受け入れるか?(人を愛する先祖供養)
受け入れないか?(人が抵抗する…)
あれ?着地点が新しいΣ(゚д゚;)
書き始めは『進めば二つ』だと思ってた
でも今は『ひとつ』だ…!!
どちらも『釈迦・阿難無き世界』において
『カタチ無き寄生』を受け入れるor受け入れない
ただ『これだけ』だった
日本語と英語で響きや意味付けが違う
『自然共存細菌』って言葉そのものが、言い換えれば『八百万の神の自然崇拝』というアミニズム
しかし、もしかして…バクテリアの可能性
バクテリア”は“細菌”の英語であるbacteriaから
bacteria…アナグラムは
i abc tera
ほほう( ˙꒳˙ )面白い
teraは『一兆』の容量
しかし漢字で読めば『一兆(きざし)』
『私(I)』『虚数(i)』の『ABC』の『一つの兆し』
バクテリアは『可能性』を示している
その『自然の様々な可能性』の中、『人の細胞と共存共生する選択』をした『寄生したバクテリア』の未来は3つ
『和足す』か(+)
『差取る』か(-)
『ほっとく』か(±)
そうだね、『先祖供養』として『宿ってきた存在』と向き合って『和足し和たされの人と共に養う』か(免疫機能獲得)
『寄生中』のように『侵略』してきて奪われ『格差を作られ抗えない支配に怯える』か(サイトカイン炎症)
『自由に出入り』して自然と身体の『波動を調和』して『内外の氣の巡りを循環させて風通しよくしてほっとく』か(免疫寛容)
…これは(´-`)oO 体感なくして理解なし
色んなカタチで『自然のバクテリア』はやってくる
例えば、『蚊』に刺された時なんて、まさに『虫文』のように
「お前さんに合う(*」´□`)」ええ話あるでー」とタイムリーに『シンクロニシティな体験の夢』を見たり
バクテリアという『目に見えない(i・虚数)』は『自然にたくさんある』のけど、まさに波動と引き寄せ
+には+
-に-
±には±
『類は友を呼ぶ』
バクテリア(細菌)の反応もそんな感じ
例えば都市伝説や陰謀論に対する反応でも
『怖いもの見たさ(好奇心)』と
『怖い体験を求める(恐怖)』と
結末が違う
「面白かった〜」で『ケジメが着く人』は、その時点で寄生してたバクテリアも『満足して離れる』
「本当にあるかもしれない…」と『重いコミット(同意と契約)』をしてしまった人にはそういう『-(マイナス)』が全て
『一が全』になって「マイナスの世界へご案内」…で気づいたわ(笑)
virus=私(I)仮想現実(VR)自分達(us)
『ウイルス』と書けば『侵略・汚染・破壊』という『攻撃的な傷つけてくるイメージ』があるが…それは『-の思考の波動』に引きよる『バクテリアのひとつ』
minus=min us=『最小の自分達=細菌』
その『小さなバクテリア達』が『仮想世界』において、『私(I)』が『観たい物語(VR)』に参加して『演じてくれている先祖達』
『その道の生き様』をかつて持っていたからこそ、『適材適所の配役』で、『夢(シミュレーション)のクオリティ』が上がる
これは『先祖供養・寄生・受け入れ』が素直になれば『尚更クオリティが上がる』と言える理由は
最初は小さな町の『小規模の舞台演劇(細胞のひとつ)』だったのが、その『演技指導をしてくれる先祖達(共存細菌)』を宿し、実力が上がって『劇団の規模』が大きくなり、さらに多くの『自然細菌達が集まる大劇団』へと変わると…
もはやそこは『夢』であり『現実』の『理想を演じる世界』になる
という事は
『バクテリア(細菌)』と『ウイルス(極微小な感染性の構造体)』の関係性はこうなる
ウイルスは『脚本・演出』
バクテリアは『劇団員』
細胞はその『舞台演劇空間』
宿主はその『興行を許す支配人』、あるいは『主役兼座長』
これは全て『病』の中で起きてる
バクテリア(細菌)、ウイルス(極微小な感染性の構造体)、細胞の『三位一体』
それを演じていいですか?|´-`)チラッ
に対して『許可も拒否』も『気』の持ちよう
気持ちが『-(マイナス)の波動』ならvirusが『演劇の脚本とバクテリア劇団』を連れてくる
でもマイナスだから悪いとかダメとかではなく、『そういう波動の体験を求めてる流れ』だから『自然にそうなる』というのが『因果の不思議』な所
ちゃんと『必要な戒め』が『自然の恩恵』として『必要な人に必要なタイミング』で巡ってくる
『目に見えない細菌』となった先祖達(バクテリア・ウイルス)
『日々の呼吸』で『類は友を呼ぶ存在』と同じ空間に存在している
なるほど(´-`)oO
『息苦しい』という状態は
『自らを支える心』に『逆らってる状態』か
息苦しさで『心に気づく』のか
苦しさで『皆が間違っていると気づく』のか
試しにそこから『一』切り離して「苦しくない!!」と気づくのか
一切皆苦と生病老死の『絶望解釈』の間違いは正さないと、なぜ日本は『無宗教=自然信仰』だったのか理解ができないだろう
一切皆苦と生病老死を『従来の意味のまま盲信』しているのは、『思い通りならない事を利用』して、『無知蒙昧の脳』を『思い通りに重いコミットの思い込みに同意』させ洗脳した『都合のいいトップダウンの命令系統の金剛界』
ここからもう『生まれる認知世界が分岐』した『パラレル・ワールド』は在ると言える
そっちの世界はそこから『自力』で『自己解釈』し直して、『自己を納悳』させて『認知を変える』以外に救いはない
『他人』が言って聞かせた所で『納悳』はできないさ┐(´∀`)┌思い通りにならん(笑)
しかし、『私が感じた涅槃寂静』で伝えられる『一切皆苦と生病老死』は『希望』しかない
思い通りにならないとは『エゴ(自我・欲望)の思い通りならない』
必ず『道を共にする存在(先祖)がいる』のだと伝えている
崇め奉った『神仏』は『形なき存在』として壊れ崩れ去った後、『自然の細菌』として分け隔てなく人と共に養われて『供養して寄生』して
『人の身体の中の自然を護る』という『自然崇拝のアミニズム』をしている『先祖の祈りの力』が、『自浄作用』であり『自己免疫』であり『自律神経』となる
つまり、かつて『神仏だった存在』は『人の中で神仏に祈りを捧げる存在』になった
『人の中』に神仏が宿り
宿った神仏は『人の世の変化』を望む
これが『自然免疫』という『人を愛する力』であり、『自然崇拝のアミニズムの祈りの根源』であり、『身体の主』たる『今の意識が行う事全て』が、『後の自分の生き様(ウイルス)となる』のだから
バクテリアとしては
I 私 i(虚)
ABC 3つの可能性(+、-、±)
tera 一兆(一つの兆し)
『どの波動を受け入れるか』によって、『観る世界=舞台演劇・仮想世界』が変わる
その『講演が行われる舞台』の『一つの細胞の老死を人生』とするなら、それは『一つの可能性』に過ぎない
『類は友を呼ぶ』のだから、その波動に『汚染(影響)される細胞』もあれば、「その波動とは合わない!」と『一』切り離して「皆で苦しんでる細胞世界とはさようなら!」と新天地(転移先)を目指す
それをできるのも『主の自由意志』(気の持ちよう)
『病』の中には『色んな世界が内包』されているが、『無い方がいい』なら『ほっとく=仏悳=知らぬが仏』
だから、死ってのは、『先祖』になる事なんだよね(文字通り)
で『祖先』となったあなたを『供養した子孫』に宿った時
『演じる役』が『今の生き様』を『体験させる師』になる
と、同時に人と共に養うというのは、師の観点から、かつての自分の愚かさや至らなさを客観的に振り返って業を回収する時
苦しみから解放された師と苦しみの中に居る弟子、その弟子(かつての自分)を救う為に
貴方がかつてできなかった、『思いつかなかった智慧』を『閃き渡すハイヤーセルフ』になるんです
『和を足す事』、それができれば、もう『供養』される必要がないので『成仏』して先祖ではなくなります
・・・ま、その後は、生まれるも、生まれないも『業の選択』は好きにしなwってな
ただ釈迦が2500年後という業を設定したのか、させられたのか、いずれにせよ、どこかの時代に『期待の気体』が集められた時、『類は友を呼ぶ波動』で引き寄せられても
おかしくはないよね
「え?2500年ぶり、また釈迦ショーが再演するって!?行くしかないだろ!」と(笑)
『特等席』は、『この時代に地球に生まれるというチケット』を手に入れたという事かもしれませんね
『肉体』があり、『体に宿す事が必須条件』なのかも
だとしたら、この『生病老死』や『一切皆苦』の間違った解釈は・・背乗りでなんちゃっての偽講演へのミスリードの陽動チケット・・
あ、そうか、『釈迦が説法』をする時は、『邪魔する弟子は皆陽動』してからだったから・・皆という人の為の『偽陽動=集団苦』では、『釈迦=問題解決』と巡り合えない
そこから『一切って』初めて『達する次元』なのか
シランケドww
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