戦は尖った道具の現象化した武器、闘は閃・門と向き合う一人の潜象の武の器、術はその使い道(空想・無間)・・と云う鬼のお話
漢字で読み解く 戦うと闘いの違い
たたかい の言霊は
次々と分かれる力の現象
せん の言霊は
強く引き受ける・強い責任
いくさ の言霊は
現象に引きよる遮り
合わせると
強制分断・分裂工作
戦とは『単』に『戈』と書く
単とは『簡単、単純』など『安易、大した事ない物事』に使われる
戈とは『先端に刃が着いた棒』である
『人を殺す方法』を求め『人に対する怒りの仮想空間』で
それをどのような『形』にするか?を決めた『指向性のエネルギー』
つまり、戦とは『単に人殺しの潜像』で生まれた
『強制分断工作の道具』という『現象』
『刃が着いた人を殺す棒(謀)』をどう使うか?
戦で争う『戦争』の為に『戦術』という『効率化』を考える
『効率的な人殺しの為』に生み出される『武器という現象』になる
「それが軍事的に有って当たり前、平気平気w」とほったらかすと
『郡事的な大量破壊兵器』になるというのは必然だ
戦+→?
戦争→争い事に使う
戦術→人殺しの道具の効率化
この『現象』が生まれてしまう前に
冷静な『霊性』として『人の心』が試される
門の前に『豆寸』が立つ=闘
闘うという漢字は戦争になる前の『潜象』で起きている
カタカムナで せんそう の言霊は
強い責任が外れて生まれる
『現象』に『産んではいけないエネルギー』と向き合う
巨大な門の前に『豆寸のちっぽけな一人』として
『門』の前に『人』の意識として『門番の鬼』と向き合う逃げ場のない闘い
逆に言えば自己が『潜像で生み出したエゴの戦争(怒り)の仮想空間』を
『現象化』させないように『心を護る門番の鬼』として『心を護る闘い』
闘いとは己のエゴと向き合う事
これは潜像で人殺しの方法や道具を『空想や妄想』をしない
あるいは妄想してしまった時、その空間が怒りと共にでないように止める
云う鬼「おい、そこのお前…物騒な物(人殺しの道具)を持ってどこへ行く?」
エゴ「この怒りの空間で研ぎ澄まされた殺傷力の戦が完成したから、現象化させてやるのさ」
ここで『エゴvs心を護る鬼』という闘いがある
この『云う鬼=魂』が弱ければ『心への侵入』を赦してしまう
この『魂』がどれだけの『経験値=法術』を持っているかで
門番の『強さも姿』も変わる
ある時は『穏やかな仏』のように『説法でいさめる』だろう
ある時は『鬼』のように怒りに『怒りで懲らしめる』だろう
有る時は『釈迦』のように『問題を聞いて解決する』だろう
『闘の法術』を持って『エゴを消滅』させる
これは、例えるならば日々生まれる『癌(不安)』とそれを消滅させる『NK細胞(解消)』
こういう構図で捉えたらわかりやすいだろう
『癌細胞』は『常時生まれ』、そして健康な体では『常時消滅』する
これは日々生まれる『邪な思考や妄想』を『自制心で制御』する『精神』でも同じ事
その精神が『戦争という現象』を止める『潜像での闘』である
この闘が『門』と向き合う『人(豆寸)』ならば『閃』となり
その『問題を解決する閃が現象化』する事で問題が起きる前の『予測行動や対策という武器』が生まれる
『智慧が武器』になる
『武』とは『戦を中で止める』と書く
『器』とは四つの口の中に『大=一+人』がある
四つの口はそれぞれ二元性を示す
善悪・邪中間
『勘』とは『甘い四つの力』と書くが
勘が『鈍い=金に屯する』とこれを見間違う(金輪際の見極め)
そのどれでもない『中心の一人』という『大きな閃き』が
現象化する前の『潜像で戦争を止める』という『闘の武器(法術)』になる
武器は『戦う為』の『道具(現象)』ではなく
武器は『闘う為』の『法と術(潜像)』として使うもの
闘う為の『法と術』を身に着ける
それが『魂の経験値』を修める業の結果=『精神修業という現象』
発言も行動も『潜像』から発現した『現象』に過ぎない
戦と闘と術(使い方)
私はある時期から意識の観測が『戦闘術』という観点を捉えていた
『身体操作』、それを突き詰めて『尖った方向』へ磨く達人達
武術という『武の術(方法・使い方)』を
『身体に特化』していく『現象』とそれを『伝える=人に云う』
それを一説として人が云えば『伝説』になる
それは『戦いを想定』して『尖った人を傷つける道具』である
『護身の為』というが『恨みや人気、注目、嫉妬、妬み』などが集まる『業』
その『道具』を『人』がどのように使うかは『人の心次第』である
そこで、私は戦闘術や達人が技を伝え広める動画などを見て思う
この人達が『想定している戦い』が起きた時
戦闘者や達人は
『国の為に武器で戦う』のか?
『人の為に武器で戦う』のか?
『自分の為に武器で戦う』のか?
国の為という『権力に従う立場』だった時
『民を討伐』の『単なる戈』という『戦の道具の殺戮者』になる
その『国の為の命令』に従わなければ、『裏切者の烙印』を押され、今度は『自分を護る為の戦の為』に『単に戈を護身の道具』として使うだろう
『人(他人)の為』にという立場で独立すれば『国の命令』と戦い、『都合のいい人の為』に『都合が悪い人』と戦い
結局は、『武術や武器』を『戦争=強い責任が外れて生まれる=分断工作』をする事になる
『現象化』してしまった『武器や武術』は
『人(他人)を傷つける戦の道具』になってしまう
そこまで『思慮深く先読み』すれば
そもそも『武器や武術』を『生み出さない心』
『尖って』ない『和らぐ心』を持つという事は
『現象』として生まれてしまった『戦争には無力』だが
『潜像』では戦争を生み出す『エゴを消滅させる無敵の門番』がいるという事
ある時は『穏やかな仏』のように『説法でいさめる』だろう
ある時は『鬼』のように怒りに『怒りで懲らしめる』だろう
有る時は『釈迦』のように『問題を聞いて解決する』だろう
『尖(せん・とがる)』を生むのではなく
『閃(せん・ひらめき)』を生む
和の心は『丸く治める事』
それは『戦争の終結』という『現象の結果』だが・・
そもそも『戦争』という『道具と方法』を『現象』として産まず、『潜像』で止める『方法』を閃く闘いの『因果法則』を理解する事
敵意を生まなければ、無敵=敵などいない
『戦』が『現象化』してしまったから
その『戦を中で止める為の武術』が生まれたが
その武術を『武器という道具』として『現象化』してしまったから
戦が合わさって『合戦や戦争』が生まれ・・
『歴史は繰り返す』と言わんばかりに
それが『当たり前の平気』となり『当然の兵器』となった
その『戦争』は『敵意』を広げる『手段のひとつ』という
『法術』で生まれた世界の中での『平和』とは人の為=『偽』
その戦争の思想を『誰か』が『人の為』として『現象化』しそれに『周りが迎合』した
『集団的無意識』がそれに『同意して許可』している思い込み=『重いコミット(契約)』
その始まりは何か?
『戦争』が無ければ生きられない『武術の達人』が
『尖った道具』を発明した『科学者』や『道具の職人』が
『死中』に『活躍の場を見出そう』している『異物・遺恨・ICON(シンボル)』
例えば、『国境紛争や内紛』というのは『争いなき所に争いを生む』事で『戦争や兵器産業』が生まれる
『戦い』とは『無縁の生活』をしている人達からすれば『不安』に巻き込まれる
その『不安』に付け込んで『兵器や護身の為の道具』という『ビジネス』が入り込む
『護身の為の道具』といえば、聞こえはいいだろう
例えば、コロナ禍という『不安』を煽り、『ワクチン(護身)』を薦めて、予防医療の『需要と必要性を世論操作』してビジネスを拡大する(PCR・エクモ・mRNA新薬)
『蓋(量子論)』を開けてみれば「実は効果はないと私は言っていた」と『分科会の先導者が扇動』したたけの事案
分科会→分ける科学会
文化会→文字化する会
ワク信(ご都合主義と迎合)/反ワク(陰謀論・デマとレッテル)と分断工作
でも、いずれ来る『かもしれない』時の為に備えて・・という『安心させない発言と発現』
demo=『お試し』、デーモンストレーション、『仮想』
その不安を吹き込む『産みの親の生き様』が『方法や技術、道具』に宿っている『付喪神』
『現象化』する前の『潜像』に創られた『人殺しのエネルギー』
私は最近、『付喪神と一緒に行動する夢』の中で、付喪神とはその『道具を使って生きた人の意志を人に云うエネルギー』だと体感した
私が触れた付喪神は、『和の心』を持っていきた『先人達の生き様』を伝える『道具の使い方』だった
それは法と術、『方法と技術』の事だったのだろう
逆に言えば、和ではない『尖った道具の使い方の方法と技術』もあるという事
『安心させる敵意がない安全な使い方』もあれば
『不安にさせて敵意を生む危険な使い方』もある
『方法も技術=法術』も全ては『今の人の心』次第
一人一人が『魂=云う鬼』を宿す
それが『心』への『侵入・侵略の戦争』を『止める闘い』
「ここであったが百年目!(宿敵=エゴ)」
百鬼夜行の魑魅魍魎の主=ぬらりひょん
姿:老人のような姿で、和装をしていることが多い。
行動:夜に人の家を訪れ、勝手に上がりこんでくつろぐ。
役割:妖怪の総大将として描かれることがある
この『ネーミング』はなかなか的を射ていると感じる
カタカムナで ぬらりひょん の言霊は
抜けて場から離れて根源に自然に新しく強く
『ぬらり』と現れて『ひょん』と居座る『頭でっかち』で、それにつれて歩くのが『魑魅魍魎』
これが『心に侵入して居座るを意味する』としたら?
心が支配されると『有象無象の魑魅魍魎』が『心を不安』にさせる
「もしかしたら・・けれど、だけど、いや、でも・・」
自信が無いのは『自身の自心』が亡くなってしまう
結果、『心が亡き者=忙しい役目=Business』に囚われてしまう
この百鬼夜行の『主のぬらりひょん』と『魑魅魍魎』を分けて考える
百鬼=『一白鬼』とすれば、実は『有象無象は幻想』にすぎない
これは三つのたとえ話ができる
『仏』と仏の為に従う『阿羅漢(付喪神=九十九神=創造神アッラー)』
『エゴ(自我)』が描いた『妄想』の具現化
『mRNA(メッセンジャー)』と結合した『タンパク質(RNAウイルス)によるDNA逆転写』
つまり、『心の門』の前で門番と『一対一』である
ここで『百鬼夜行の見極めの必要性』を問う
『仏に成る』為に『必要な試練』ならば
『仏』としてほっとく(仏悳)として現象化
『自我の妄想』を『体験して自業自得の因果応報』したいなら
『釈迦』として問題解決のサポート』して仮想シミュレーション
『mRNAウイルス』として心を上書きしようとするなら
『鬼』として『心を護る闘い』で機能獲得して無害化
『仏鬼釈』を『魂』として宿していれば心は『必要な試練』を与える
与えるだけでなく『問題を解決する後押し』をする
しかし、心を侵略しようと『邪な妄想を通そう』とした時
門番の鬼が弱ければ、押し通られて『心に間』ができてしまう
そして、現象では「魔が刺した・・」とやってしまった事を『後悔』する事になる
その後悔が『戦争』という『敵意を現象化』させた反省になれば、「戦争の思想を潜象から出してはいけない」と『負け』から学んだ『魂の経験値』が蓄積される
だから、『魂年齢が高い人』の特徴は『自分から犯罪を犯さない』と言える
『多くの人の為』に『戦争を手段』とする選択をする者は、『立場』がある『若年期の魂』か、『立場の無い者を護る為』の板挟みで抵抗する『成人期の魂』か
『利他』という『外へ向かう指向性エネルギー』だが
『自己』というそもそも『一人一人』が『敵意を発現させない』という
『和の心』を護る『魂』に成長すれば戦争という『手段(法術・道具)』は産まれない
そもそも、その『思想を具現化』した『兵器や武器』が生まれない
人類の『霊的精神性の成長』とは武器・武術を『生まなくていい思想 』
『戦闘術』という『心を護る闘い』すらなくていい『理想の想像』
それが『閃き』として『心から発現』する『優しい世界』
それを『物質で現実化』する必要はない
現象は『唯物』という『物理の限定空間』だが
潜象は『唯心』という『カタチに囚われない自由空間』
『意識が観測したもの』が『世界』であり『現実』ならば、カタチに囚われない『自由な空間を意識が観測』すればいい
そこは『想像が創造になる』のだから
『尖ったもの』は『過度の角』を生んで『心を傷つける』から、『丸く和らぐ閃のエネルギー』が常に必要な空間だろう
「尖ったものとは何か?」を『想像』してしまえば
「それを体験して、『丸く治める問題解決方の方法』をみつけてこい」
と『創造した現実の観測』へと『意識』が向く
結局、これが『意識の法則』
『気』にしなければ、『知らぬが仏』なのだが
『知的好奇心や探求心』があると『想像を創造』してしまう
その結果、今朝の閃きは・・
『戦』と『闘』と『術』をじっくりと自分の今までの『魂体験』を踏まえて『心と向き合う事』だったのである
『護身』も行き過ぎれば『兵器』になる
『行き過ぎなければ平気』wと邪に思うだろう
だが、それは『身体操作』という『物理の術の使い方』しだい
戦争の兵士の多くが戦場から帰還すると『PTSD』に悩まされるのは、本当は『人殺しなどしたくない』という『心を裏切った結果』であり
その心を裏切った『瞬間の傷が心に刻まれている』から『フラッシュバックの悪夢』を見る
心がやりたくないと『悲鳴』をあげても『現実的な立場(命令、人の為)』から望まない『裏切り』をする
そうやって『心が壊れた者』が『心亡き者』として『指導者の忙しい立場=Business』になり、延々と『心が壊れる役目を継承』していく
『極の教え』からは必ず『邪』が生まれる
間違い、反省を『人の為』ではなく『心』に誓えばその後の行動や発言は変わり、『自分が発現したエネルギー』が『何』を生み出すか?
という『未来(未だ来ない)の可能性』に『責任と後悔』を感じて『未然に防ごう』とするだろう
結局は道具(武器・方法・技術)は『人の使い様』
人とは『心(想像と創造の空間)』であり、心を護るのが『魂』である
魂に何を宿すか?
私は、『廃された事』で『Business=心亡き役目=忙しい』がやりやすくなった『現象の現実』を観測して
改めて
仏 穏やかな意志
鬼 間違いを見極める意志
釈 問題を解決する意志
これこそ、『魂の成長に必要な三要素』であり、『現実の問題』になる前に『潜象で止める精神力』だと感じた
・・というのは、魂が
与えられた物事を自分で考えず盲信する『幼年期の魂』も宿さず
他人より優っている事を求める自己顕示欲の『若年期の魂』も宿さず
盲信者に「自分で考えろ」と自発を促し、格差を変えようする『成人期の魂』も宿さず
これらの『先祖供養は終えている(機能獲得済み)』のように『興味』を示さない
それらは『精神の成長に必要な因果応報の試練』としてほっとく=仏悳
そして、自分が周りを気にせず心に素直に悳を積む『老年期の魂』として
足りないを知る=足るを知る=『シッタールダ(仏陀)』を学びつつ
それは『~たるを知る(法則)』を理解して『問題を解決する釈迦』へつながる
『弥勒=自己表現』の『元の自分へのルーツの旅の軌跡』だったのだと気づき
『人の間の欲』から離れつつある魂が、これから、それら『学んだ事を活かして創造』する『心の拡張』でもあり
心は『人の間』に囚われていないからこそ『カタチ』という『唯物の籠の中の鳥』から意識の観測は出る=解脱
そもそも『敵意』が無ければ『鬼の役目』は必要ない
『問題』が無ければ『解決』の必要もないので『釈迦の役目』もない
残るのは心のままに自由に『自己表現する弥勒(遊ぶ子供)』と
それを穏やかに『見守りほっとく仏の心』だけ
ただ、それを『法術=方法と技術』として備えておけばいい
そうすれば、それを元に『想像で創造されたカタチ』には
『和の心』、『和足す心という生き様』が反映されて、その生き様が反映された『付喪神』が次の道具の使い手に『宿っていく』
次に『仏に成る=成仏』する者の為の『阿羅漢(応具・創造神(99の名))』
そうなると?99+1=百・100(1∞)
「ここであったが百年目!(宿敵)」
百鬼夜行のボス(一白鬼)=ぬらりひょんとは『自我(エゴ)』である
『エゴ』を止めれば、『魑魅魍魎の行進は起きない』と『エネルギー法則は相似』する
戦争は起きる前に『人の心』で止められる
元・はじまり・『因』を『心』が支えて『恩』を感じればね?
怒りと向き合う精神の闘いを云う鬼
『他人に向いて生まれた怒り』は心の鬼門との『闘い』であると云う鬼
怒りは『他人』に向けてはいけない
説教をするつもりはない
ただ法則を伝えるから心して聞け
現実とは『既に成った空間』であり
潜像とは現実に『生まれる前の空間』
つまりは『形になっていないエネルギー』
ここで想像・先入観・概念・思い込み、感情・自信など様々な要素が絡み合って、現実の『可能性の輪郭』や『指向性』が決まる
この輪郭を狭め指向性に『強く影響』するのが『感情』というエネルギー
悲しみや苦しみは『殻に閉じこもる』ように『自分しか入れない狭い世界』を創り出してしまう
怒りは『自我(エゴ)以外への指向性』を生み『特定の他人』を『仮想空間』に閉じ込めそいつにエネルギーをぶつける
『潜像の中』でそうなってしまうとそれはいずれ『現象』になる
虐められっ子が『窮鼠猫を噛む』ように『一線』超えた時、その潜像の仮想空間で『シミュレーションしていた攻撃の妄想』を『現象として実行』してしまう
これが『魔が差す』という無意識の無我夢中
『潜像の仮想現実』が『現実に入れ替わった事』に気づかなかった…という事
だから『他人に対して怒り』が生まれた時は『自己で闘う』必要がある ←ここ重要
その自己というのが『魂』である
怒りに怒りを『拮抗』させる
それは『自我』を『自己』が『自制』する事
拮抗すると『無間のエネルギー』が生まれる
その中で、『仏』が『可能性を説法』する
「こんな事があるかもしれないし~?」
「あんな事になるかもしれないし~?」
「ま、やってみれば自業自得の因果応報でわかるっしょ」とほっとく
この仏が説く有るし無いし~の『夢現の空想の可能性』に素直に心に耳を傾けた時、「問題解決する気があるならサポートするぜ!」と『釈迦が後押し』して
釈迦が作り出す『自力で問題解決の三千世界を旅』する事になる
これが『トラウマ』と向き合う『仮想空間・可能性の夢』
最初は『見たくもない無間地獄』かもしれないが、一つずつ『問題を解決』していくと『自信・自身』を取り戻していく
『次の問題』を『待ち構える心構え』となり、いつしか地獄だと思っていた場所は『夢現の成長の遊び場』だと気づき
『周りへの怒りの感情』はなぜ生まれた?と『物事の元の発生源に意識の観測が向く』と
それは『その人の修めるべき業』に触れた事で『怒りという感情』を『体験して自己理解する事』だったとなる
怒りの『発生のメカニズム』がわかればそれが『現象になる前』に止められる
これは『異物のウイルス』に対して『抗体が捕縛して機能獲得』する事と相似する
つまり『鬼』が止めて、『仏』が道を示し、『釈迦』が手伝う
その心構えになった状態で再び『心の鬼門の門番』と向き合う時
「怒りを修める業を終えました」と今の心を『真言』し
「私はこの怒りという感情をほっとく=仏悳にします」と『進言』して修業を終える
それが心が発現するエネルギーとして『現象』として『具現化』すると?
行動や発言は『人を傷つける怒り』を返さなくなり、怒りをぶつけても『打っても響かない』となれば周りも『怒りを伝えるのを止める』
理由は簡単で
怒りは若年期の魂=『競争・自己顕示欲』によって『他者を貶めよう』とする学びの段階
『鵜呑みに盲信する若年期』や『正論で抵抗する成人期』はこれに『反応』するが
「そういうもんだよね~(若いなぁ)」と『ほっとく=仏悳の精神』を『抗体』として獲得した、自分の心のやりたい事に夢中の『足るを知ればいい老年期』や
物事には必ず『~たる法則』があると『エネルギーの流れ(波動)にしか興味がない超越期』の魂は、相手にしなければ『怒りはそのうち去る一過性』でしかないと『人の間の法則』を知っている
これは普遍的な『相似の法則』だと私は確信している
だから、『怒りの感情』を感じた時、怒りに呑まれて発現せず、まずイライラ・ムカムカと『湧き出る怒りの元』と向き合う事
でも、魂のレベルがそれを『自業自得の因果応報として必要』としているとしたら、それは、『怒りに呑まれて我を見失う程度』だと魔が刺して『心』を裏切り『後悔した時』に気づく学びだろう
それが『結果』として内包されて『現れた実=現実・果実』
それがあなたの体験する次の『次元・示現・時限』
始まりの『因(元の教え)』だから、『因』に『心』を巡らせれば、色素是空・空即是色
『そう思えば、そうなる未然の仮想空間を体験』する『夢現の恩』を感じるだろう
その夢で感じた事が『反映』されて現実に発現する『発言』になる
逆に言えば『発言』から『真意=夢の意図に至る』のも簡単だという事でもある
それを応用すれば、『怒りを誘発』させようと『発散(指向性・八つ当たり)』している『そういう人への対応』をする『心構え』も身につくだろう
説教をするつもりはない
ただ法則を伝えるから心して聞け
・・と言っておきながら、『例えという説を教えて』しまった(笑)
ただ法則だから、説法というのは『方法を説く』という事であり
万物流転、所業無常に『臨機応変に対応するエネルギーの相似象』
まさに『NK細胞』である
それは『縁の下の力持ち=支える心』であり『自力で問題解決をする者(自己治癒)』に力を貸す『釈迦のサポート』でもある
仏も鬼も釈迦も『唯物の現象では道具(手段)』であり
『唯心の潜像では法術(法則と技術)』である
・・そうか、『法具師・孵化師』になるという夢は、これだったのか・・(時間差で気づく)
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