好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

感覚的量子論 和らぐ言葉を紡ぐ向中心

つむぐ・・紡ぐ、糸の方、意図の方(向き)、その為に使うのは言葉、言葉をたくさん知った所で、道具は人の使い様(向き不向き)。どこへ向かう?と心に決めた時、向上心はあっても向下心は無い!そうなると・・上と下を中で止める=正・中間とは、向中心!?という気づき

閃きワード「つむぐ」

私は先人の智慧たる『ことわざ・格言・熟語』が好きで、『日常的な会話』に引用する事が多い

それが知らずに『一時代』を『その言葉を生む為』だけに生きた『先人の魂を宿して活かしている事』に気づいた時

言葉をたくさん知っていても、それを『借りている』だけであり、名に乗っている=『名乗る』に過ぎない

例 人間だもの by326

これは326という『自己表現の生き様から生まれた言葉』であり、それを『言い訳』や『出汁(だし)』に使うのではなく

『向上心』として活かして生き様に反映させるためには、『自己の中で解釈』させる必要がある

つまり、有るものを得ない=『有り得ない=否定』ではなく
有るものを得る=『アリエル』

アリエルとはソロモン王と共に、様々な『次元・示現の魔法を実践』したという存在

ソロモン(一閃)とアリエル(鬼門の門番)と弥勒(自己表現)?

私の中では
ソロモン王とは、一人門=『一閃』
アリエルとは、あらゆる『可能性』

この『一閃』を『可能性』で繋ぐには、言葉の『意図をつむぐ』必要がある

糸の原料から繊維を引き出し、それを撚って糸にするという意味です。比喩的に、言葉や想いなどを繋ぎ合わせ、一つにまとめるという意味

言葉を紡ぐ:文章や詩などのように、言葉を繋ぎ合わせて表現を作る
想いを紡ぐ:個々の想いを一つにまとめて、感情や考えを表現する
命を紡ぐ:安産祈願や子育てなどを指して、命の繋がりや成長を表す

カタカムナで つむぐ の言霊は
集まり広がり内に引きよる

つまり『心に集約する』と解釈

先人達の『生き様が集約』されて生み出された『格言・ことわざ・熟語』
これを私達の世代も『新たな種』として『集約』して生み出さなければいけないが・・

自発的に『個』から産みだしたものよりも
利他的に『衆団の組織』から産みだされたものが『優遇』される

そんな『格差』を感じた事はないだろうか?

例えば、毎年『流行語大賞』で発表される『聞いた事が無いワード』

それは一部の権力者が『流行らせたいワード』だったり、信者も多く影響力があるインフルエンサーが『何気なくつぶやいた言葉(案件)』だったり

『組織票、多数決』こそが『言葉に力を与える』のは『向上心』と言えるだろうか?

私はこれを『向下心』と訳す

理由は『忖度』である事
『向かう下心』と読めるからである

『下心』は損得、利益、利合の『欲望』によれば寄るほど強くなる

かといって『組織の中、団体の中で向上心を持つ』というのもまた
頭打ち止めの『トップダウンの都合』の中では『異端や例外』として嫌われる

例えば、『上司』を越えて『出世』しようとすると『妨害や嫌がらせ』が起きる
医学や科学で『根底から覆す新しい分野を発見』しても『都合が悪ければもみ消される』

そうなると『出る杭は打たれる』と向上心も失われ・・『長い物に巻かれる』ように
組織の中では『忖度』して『空気を読んで自分を押し殺して我慢』する事になる

そんな『上』もダメ、『下』もダメとなると『向かう先』はその『中間』となる
『上下』とはそういうものだと『理解』して中間を目指す

すると『向中心』となる

老年期

向かうは中心
中の心、心の中

『上下』を『止』めると書いて合わせて『正』となる
つまり『正』に向かう『正中心』となる

上や下を『外(はずれ)』と捉えた時
外れから離れた正とは『中の心』である

正気と勝機と商機と将器は同じ

『中の心』は『外の人』にはわからない空間
上も下も『格差を求める者』はたどり着けない『未知の領域』

有るのに得ない=『有り得ない』と否定する

人は『理解できないもの』を『忌み嫌う』
忌み嫌うと書いて『己の心を嫌い』離れようとする

だから向中心がない
上も下も理解して止めた正中心は有り得ない

『可能性』の話で言えば、『2点を繋いで線』にすれば、『均等な中間』は在る
しかし、その中間は『何もないからつまらない』とどちらか『欲(欲する)』に傾く

傾いた先の『極端』が『求める物ではない』と知った者は
その『どちらでもない未踏の方向』を目指すだろう

『禁忌』と言われる場所は『鬼門』という
極端な善も悪も「鬼門には近づくな」という

それは簡単な『世理』を示している
『二元性が成り立つ』のは『第三の視点が無い』から

『ひとつの物事』に『二つの観点』として『分離』があるのは
それは『分離の割る工作』だから『中間=両方存在しない』に向かわせない

『罪を憎んで人を憎まず』 という言葉がある

人は元来、性善説でも性悪説でもない『中心』であるとするなら
罪とは『積み重ね』で『偏り』が起きた状態

カタカムナで にくむ の言霊は
圧力に引き寄り広がる

『積み重ねを憎む』と捉えた時、組織の中の場合、その『罪人』に対してそこまでの積み重ねの『生き様』での『偏見の賛否=分離』が生まれる

だが中心がどちらかに『偏る物事』には『因果』が必ずある
『これ』がなければ、『そう』はならなかったろうにと

『人』ではなく積み重ねの『偏りの始まり』に意識を向けた『圧力』に『引き寄り広がれば』、中心の『人』として『更生』して『甦る事』ができる

向中心

しかし、『圧力が引き寄る方向』が、積み重ねでの『因』ではなく、行った『結果』に向いて広まれば、人の心は『偏見』へと傾く

向下心

「コイツは罪人だから、何を言ってもいい」と『下心』『集団』に広まり『圧力』となる

これは『外』に向けて『正(上も下も止める)』で向き合った捉え方
しかし、そもそも『外(他人)』に向けずに『中(自分)』に向けた場合

向き合うのは、今までの『自分の積み重ね=業』と向き合う事になる
自分中心の『向中心という軸』を持った上で

『人の振り見て我が振り直せ』を実行する

賛否両論の『偏見』を見て、自分の『今の心』は偏っているか?
『周り(外・人の為=偽)に合わせる』のではなく『心(中・真)』に合わせる

明鏡止水

独自体感論 明鏡止水と霊的な言霊の本質

己の心と向き合う『忌』、それをとどめる(禁)=『禁忌』
『禁忌』と向き合う事が『向中心』

その時、『心の門を護る鬼』と向き合う『鬼門』の前に立つ
始まりの『門』の前に『一人』で向き合う事になる

鬼門

鬼は『偏見』があったら、心の門から追い払うように『悪夢』を見せてくるので『魘』される

しかし、その内容こそ、『向き合うべき事』を『己の心』が示している

多数決の『上下の善悪二元』ではなく『自ら己で進んで中心』を向いたら避ける理由はない

『組織・団体』の中では『自己中心的な行動』は『忌み嫌われる』
これは文字通り、そのままで、その『偏見の中』で『立場を得たい』なら『忖度』が必要

だから、自己中心を向く、向中心をするためには『金輪際・一切』が必要
『一線』を超える為に『魂の一閃=云う鬼の門の前に一人』で立つ事になる真理

『真理の探究』とは『心と向き合う』事である
そして、その『云う鬼=魂』の『試練』を越えて門の向こうの『心』に触れた時

そこに『全て(世界観)』があったのだ・・と『心地よさ』を実感する(一瞬だけ)

空海の霊場物語18 Dの意志 デーモンコアは人の心(鬼門の向こう)

はい(・ω・)c<´ロ`)ノ間って>⊂(´・ω・`)今日はここまで

心は変わる、コロコロ変わる
そんな『心にずっと触れていたい』・・と思うなら

『向中心』を持ち続け、上下を止めた『正の姿勢(生き様)の法』を保ち、云う鬼=『魂の先祖』を宿し『己の心をとどめる(禁)』ために『偏見の業』を無くしなさい

と、『閃きキーワード』を『宿題』にされる

帰って(・ω・)c<´ロ`)ノ過大な課題・・>⊂(´・ω・`)宿題解いてきてね

空海の霊場物語20 残念・無念のデーモン・コア回収の釈迦クエスト

そんな訳で、今回は『紡ぐ』という言葉の意図を糸口としたら、『向中心』という新たな言葉が誕生しました

『向かう』のは『中の心』
心の課題(宿業)に素直に取り組む=『悳を積む』

それもまた『積み重ね』だが、これは誰にも『外(他人)』から評価はできない

生き様を評価するは『云う鬼=魂』であり、鬼が護る門の向こうの『心』である
心が「楽しい!(≧▽≦)」と感じる事を『現実でフィードバック』する

示申=神を楽しませる=『神楽』

別世界を視察(遊ぶ)する使節団の一人の夢

そこには『心の為の向上心』しかない=無為自然の恩恵の循環
このために、『心が前』にあり『心を支える心構え』の話が来てたのか

感覚的量子論 心が前にある心構え

なるほど、気づき・閃きとは、『築き=建設的な積み重ねの土台』でもあるのか
無駄なものなんてないんだな・・『偏見』以外では(笑)

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