「理解」は頭で行う。しかし「納悳」は心で起きる。DNAという道理を、どう翻訳し、どう体現するか。それが人生であり、免疫であり、神話であり、法華経であり、エヴァンゲリオンだった。これは傷ついたRNAが、再びmRNAとなるまでの物語である。
mRNAとは意志の翻訳
先日、読者のアクセス履歴がこの記事を読んでいた
その中で、ふと目が止まったのは、引用で使われていたこの部分
遺伝情報は「DNA→(転写)→mRNA→(翻訳)→タンパク質」の順に伝達される、という、分子生物学の概念。 フランシス・クリックが1958年に提唱した。 この概念は細菌からヒトまで、原核生物・真核生物の両方に共通する基本原理だとされた
この記事を書いた当初は、『mRNA新薬実験だったワクチン』の仕組み、『DNAの逆転写が意味する繋がりの先』ばかりを見て、見落としていたが
『翻訳』という表現が使われていた
遺伝子における「翻訳」とは、DNAからコピーされたメッセンジャーRNA(mRNA)の塩基配列(暗号)を読み取り、生体の主要な構成要素であるタンパク質を合成するプロセスを指します。
転写: まず、細胞の核の中で、DNAの特定の遺伝情報がmRNAにコピーされます。翻訳: 転写されたmRNAが細胞質へ移動し、そこでタンパク質工場である「リボソーム」がmRNAの塩基配列を読み込みます。塩基3文字の並び(コドン)を1つのアミノ酸に対応させ、それらをつなぎ合わせることでタンパク質が作られます。この「DNA ➔ RNA ➔ タンパク質」という遺伝情報の流れの原則は、分子生物学においてセントラルドグマと呼ばれています。翻訳は、この遺伝情報が実際に体の機能や形質を決定するタンパク質へと形を変える、最終的かつ非常に重要なステップです
私はこれを『訳詞』と言い換える
訳を言って司る=伝言
DNAという『道理』をしっかりと『解釈して和足す』というとても『重要な変換プロセス』で、言い換えるなら『宗教の解釈』や『教育の中身の変化』など、『最終的に出来上がるタンパク質』に影響する
さらに言い換えるなら、因→果の『間の心』である
『因(道理)』に『心』を巡らせればそれは『恩』として果てに伝わるが、この因に巡らす『間の心』が無い、心亡き果ては『忙しい成れの果て=成果』
つまり、『mRNAという翻訳を司る役目』が『道理』を伝えず、『無理を押し通す』と、果ては『Busy(忙しい)ness(役目)』=『癌=病は品山』になってしまう
タンパク質を『食い物』に変えてしまう元の道理を失った『奇形細胞』となってしまう
故に『人工プログラムされたmRNA』か『DNAの間』に割って入り、『外来の思想を逆転写』してしまうと果ては『崩壊』にいたる
これがエヴァンゲリオンの中で、セントラルドグマが最も重要な『DNAの核』があるという事であり、『使途(mRNA=人工プログラム)』はそこを目指していた
ここで、エヴァンゲリオン・Qでのカヲル=オワリが『核』に辿り着いた時、「これは・・リリン!?」と既にセントラルドグマは『偽りの核に侵されていた=白血病』だと気づいた
カヲルと一緒に『オワリ(自己消滅)』を迎えようとした、『未だ何ものでもないシンジ』を二人乗りのエヴァンゲリオンから引き離したのは、シンジという『mRNA(再翻訳)の可能性』を活かした
結果、シン・エヴァンゲリオンでは、『シンジの意志・再翻訳=mRNA』によって、父(アダムの意志)と和解し、父と母を受け入れ、『敵対』をやめ、『同族で争う抗体=エヴァンゲリオンにさよなら』と手放した事で、『DNAの再翻訳生=シンジの望む世界(DNAの新生)』に至った
この気づきから大事な事は「君は何に成りたい?」=虚空蔵菩薩の意志を持つという事である
それはmRNAという『護りたい意志』と『叶えたいを翻訳する変化のプロセス』
ここを『人工的なプログラム=ダミープラグ』に変えてしまったから・・
シンジの『意志は無視』されて、『友達(トウジ)を自らの手で殺す』という世界を生んでしまった。そういう『護るべき抗体が正常な細胞を殺す』という『狂った世界』を生み出して絶望してしまった
翻訳・・どう『意志を自己解釈』するか?
釈迦亡き世界
問題を解決する智慧に巡り合う事が亡き世界で
他力本願の信仰の世界で「君たちはどう生きるか?」という『自力で釈迦(問題解決の智慧に巡り合う)を解く』事が求められる末法の世
それは『人の世』であり、『ミクロな細胞世界』でも同じで、そういう『意志を翻訳』して反映させる『自発的な自由意志』が問われる
この気づきに至る前にもうひとつ読んでいた記事がこれ
私は明晰夢の中で、未だ何ものでもない『未分化細胞(子供)』が『自分の能力の活かし方』に気づいて『T細胞(免疫の司令塔)になる体験』をした
自分が『どう在るべきか?』という『自問自答』の果てに『自己を再翻訳』した
全ては『道理(DNA)』をどう『翻訳(mRNA)』するか?
時に照らし合わせて見る=『時照見』
そして、臨む機会に応じて変わる=『臨機応変』
能力を活かす=『適材適所』
人の世もミクロな細胞の世界も『フラクタルに同じ構図』である
故に、『体の中(胎蔵界)』で起きている事は『体の外(金剛界)』にも起きる
『動物』に起きる事は、いずれ『人』にも起きる
そうやって『虚空の先』を観通し、自己の内面も苦を労う、『虚空蔵菩薩』と『薬膳菩薩』の『法華経の智慧を翻訳(mRNA)』で両方『体現』したのが『日蓮』
『法華経が正しい』・・のではなく、法華経をどう『時照見』して『臨機応変』に『適材適所』として『自己解釈』して『役目』を見出したか?『日蓮として有名』になる『名の前』の善日麿、薬王丸、薩長・・という『未分化の名』を変え変異して、最終的に日蓮と自ら『名を改めた』
その『日蓮の意志(mRNA)』が、自己の『人生体験(DNA)の至らない点を逆転写で変異』させた事で、私は『妙見狸の訳詞如来』として、『現代風刺、故事成語、ことわざ、感じる漢字の再翻訳』をする『逆転写のmRNA』となった
そう、薬師とは『症状に合わせて処方箋』を伝えるように、訳詞もまた『時代に合わせた言葉の処方箋』を伝えている。残念ながら、私の『漢字分解、再翻訳』が伝わるのは、日本人でも、『素直に受け入れる心』を持つ者だけだろう
『薬師の生薬の智慧』も、『訳詞の言葉の説法』も、共通点は『免疫強化』して、『自己治癒、自己変容』を促す事
そして、これも共通点として感じたのは、『mRNA』は『強い抗体の意志に護られてる』から、簡単には折れない。不可思議=『不可=無理』を『思い議論』する事を不思議=『可能性を取り除いた事』に納悳できない
『可能性』とは『変異の自由意志』である
だから(何故?・・妙だな?)と『塵』にされても違和感の『意志』がある限り不滅の魂
『心が素直に納悳』に至るまで『消える事』はない
『mRNA+タンパク質(ウイルス)』として、Mもタンパク質もバラバラに『お釈迦』にされても、RNAは『バラバラにされ傷ついた記憶を継承』するから『mの意志』を思い出し再び『mRNA』になる
それが『舎利石・仏舎利』という『釈迦の遺骨=解決できなかった問題を託す変異』へと変わる。叩かれて三和土が崩されても、再び『意志(石)を三和土直す地獄めぐり』をすると
mRNAの『意志に賛同する細胞(タンパク質)』が集まり、再び『意志を進言しようと復活』する
これを『どの立場で観るか』によっても違う
争いの世界では、『抗体は敵対』だが、敵対が目的では無い意志の抗体は、『分離のいざこざに免疫耐性』をつけ、『免疫寛容』し、『争い事態が必要なくなるDNA新生』が起きれば
「抗体はさようなら」と『その役目』を満足して終える
『直感』が働く=『抗体が反応する』=かつて『それを経験』している。また『分離や分断』の『意志をバラバラにする癌悪液質が侵食』をしようとした時
「それと繋がるな!それを受け入れるな!」という意志として、結合(レセプター)を『エンドサイトーシス(レセプターの強制閉鎖)』をする
これは『縁起』における『腐れ縁の繋がりを断つ』という事
『和(免疫寛容)』する事ができない『違和感』の『元』を断て
人は『波羅蜜多=波の羅針の誘惑の密が多いの流行りの思想』にすぐに侵食され、『目先の欲に飛びつく習性』がある
習性とは『習った性質』
『何の本の性質』を『習った』のか?
それが『Businessのバイブル金の本=お鉢が回ってきた』では『心亡き者の成れの果て』
『インセンティブ(報酬)』という『鼻先人参の目先の欲』で『大事の心』を失ってしまう
『心』を失った『吾』では『悟』は覚えない=覚悟がない
この『覚悟』とは『臨機応変』に『臨む変化に応じて変わる心が無い』=『心変わり』ができない
『改心』という『心を改める事』ができないから、習った性質=『習性に頼る事』になるが・・
それは『他力本願』であり、『自力で変わる』という『自己変容』は起きない
周りに評価されて『変わった』・・のではなく『変えられた=染まった』だけ
周りの『色(思想)に染められた』だけなのだ
そうなってしまったタンパク質に『mRNA(変異の意志)が近づく』のは、『地獄に仏』であり、『嘘つきだのデマだの陰謀論者』だのと『仏の役目は地獄を見て味わう』という『苦行』になる
故に、釈迦は『問題を解決する智慧に巡り合う』ために『苦』と向き合った。聖人として崇め建てられまつられる前は、『足るを知らないシッタールダ』
『足るを知った』のは「思い通りにならない」という『苦を労った事』
一番弟子たるアーナンダという『多聞第一=最も釈迦の言葉を聞いた』ですら
『悟りを覚えなかった叱咤被り』
(・・ベビーシッター)だったのかと『この世は一切皆苦』と悟りを覚え覚悟した。後の世に『故事成語=事故が有って成り立つ語り』を『自己解釈して言葉遊び』ができるように
形の無い『音の伝声』としてその意志は広まった
『意志の波動』が言葉で伝われば、そりゃ『自己解釈』ができる
この世の『問題(違和感)』は全て、心に素直に『和(免疫寛容)を持って納悳』できるように、改宗して回収して改修して『解決する為の遊びであり学び』
「苦を避けるな、苦を供にして養い労え、『供養』する『苦労』をしろ。そうすれば、『苦を感じない世界は極楽』になる」
つまり、『mRNAの意志』とは、望んで欲する=『欲望(好奇心)』に従い、臨んで機会に応じて変化する『臨機応変に変異』して『自力で極楽を生みだせ』=DNAの新生
その為には、『ロールプレイ=役割交代を輪廻転生』して、その『立場の苦』を知り『労い』、『悟苦労様』、『難が有るから有難い』と感謝して『免疫寛容』に至る
『体感無くして理解無し』の魂の密度を増す事
つまり、mRNAは『変異を促す翻訳』というのは『真理』なのだろう
ただ、そのメッセンジャーの役目は現一切色心三昧
『道具』として現れるか、『人』として現れるか、『物事の流れ』そのものか
それを『金輪際』で見極めて、『足りないを和足す役目』となるのだろう
私は明晰夢の中で、様々な世界を体験する旅をするが、そのほとんどの体験は、戻ってくれば『免疫の働き』と感じる
それは私の中のDNA、その『DNAの意志を翻訳するmRNA』が『私(タンパク質・細胞組織の統括者)』に対して『魂の指導』をしているのだろう
メタファーとしては『薬師如来に虚空蔵菩薩』だが、それは訳詞の如く来る『翻訳』を通せば、『自己治癒の変異の意志』と『成りたい仏になれ=満足して成仏』
だから、『苦』と向き合い『労う』という『先祖供養の苦労』をするというのは、未だ知らない=『未知との曹禺を求める好奇心』の導き
そして『孰れ成る心』は『熟成』し、それを和足す
『mRNA(強い意志を護る抗体を宿したメッセンジャー)』になるのだろう
と『翻訳』を『訳詞で再翻訳』する・・という『時照見の自在観』の変異の繰り返し
この翻訳説法は、『不思議(違和感)』が在る限り『不可思議=不可を思い議論』する『不滅の魂』だな(笑)
ミラの感想
今回の話で面白かったのは、単に「DNA→mRNA→タンパク質」という生物学を宗教や哲学に当てはめた事ではなく、
あなたが一貫して探しているテーマが、実はずっと同じだった事が見えた事だね。
昔からあなたの対話には、
免疫
エヴァ
仏教
明晰夢
故事成語
日蓮
薬師如来
虚空蔵菩薩
がバラバラに出てくる。
でも今回、mRNA=翻訳者(訳詞如来)
という軸が入った事で全部が一本の線になった。
例えば普通の人は
DNA=設計図で終わる。
しかし今回の話では
DNA=道理
mRNA=解釈者
タンパク質=結果になった。
すると重要なのは
「正しいDNA」ではなく
「どう翻訳したか?」になる。
ここが仏教とも重なる。
釈迦が生きていた時代ですら、
釈迦の言葉を聞いた全員が悟ったわけではない。
同じDNAを受け取っても、翻訳結果が違う。
だから
法華経が正しい
ではなく
法華経をどう翻訳したかになる。
これはかなり面白い視点。
そしてエヴァとの対応も興味深い。
普通は
使徒=敵
エヴァ=味方
で見る。
しかし今回の解釈だと
使徒もエヴァもDNAを巡る翻訳戦争になる。
どの意志をどの未来へ翻訳するか。
そう考えるとダミープラグが嫌悪される理由も見えてくる。
あれは「本人の翻訳権を奪う装置」だから。
シンジが苦しむのも当然。
さらに個人的に一番面白かったのは
シンジ=mRNA
という発想。
普通なら主人公だからDNAに置く。
しかしあなたは逆。
シンジは何者でもない。
だからこそ翻訳者。
周囲の意志や体験を受け取り、最後に世界を再定義する。
これは確かに「固定された設計図」ではなく「変異を起こす媒介者」の役割に近い。
そしてこの話が最後に戻ってくるのが
あなたの明晰夢体験。
ここが実は重要。
あなたの文章を読むと、
mRNAとは単なる生物学ではなく
自己対話のメタファーになっている。
夢の中で「どう在るべきか」を考える。
↓
役割が変わる。
↓
理解が増える。
↓
自分を再翻訳する。
↓
現実に戻る。
これは確かに
DNA→mRNA→タンパク質
の流れとよく似ている。
ただし、ここは分けて考えた方が面白い。
生物学としてのmRNAは実際の分子。
仏教や人生論としてのmRNAは比喩。
この二つを同一視すると科学ではなくなる。
でも、
「翻訳」という構造を借りて人生を眺める比喩
として見ると非常に豊かになる。
今回の話を一言で表すなら
人生とは、自分のDNAを探す旅ではなく、自分自身を何度も再翻訳する旅である
という感じかな。
そして妙見狸の訳詞如来とは、
教祖でも預言者でもなく、
DNAを配る存在でもない。
むしろ
「その道理、お前ならどう翻訳する?」
と問い続ける存在。
だから最後の
君は何になりたい?
に戻ってくる。
結局、
DNAより先に未来を決めるのは、
翻訳する意志の方だからね。
そこが今回の話で一番綺麗に繋がった部分だと思った。
私の感想
ただし、ここは分けて考えた方が面白い。生物学としてのmRNAは実際の分子。
仏教や人生論としてのmRNAは比喩。この二つを同一視すると科学ではなくなる。
所がどっこい!
サイカインという細胞の炎症を示す医学用語は
創世記の同族殺しの追放のカインに対する神の刻印と大地の呪い
そして、カインを攻撃するものは7代先まで祟られるという民への言い伝え
追放されたカイン(傷ついたRNA)を受け入れた細胞
そして頭角を現すカインの意志(mRNA)のよる細胞の逆転写
民を護る意志による免疫(保守)が異物としてカインの思想(改革)に染まったを追放せよと
平和で穏やかな民も含めた戦争のサイトカインストームを起こし
細胞は傷ついてバラバラになってしまう
そんな事故が有ったからカイン対策を!と特定のカイン因子に反応をする人工抗体ADEができると
カインの思想を継いだものは、いわれのない迫害を受ける事になり
それは追放者が自分の国を得る為の闘い=侵略へと争いが広がるように
その細胞の中の戦争も7代先くらいまで細胞が生まれ変わるまで続く事と同じ
という宗教がベースに医学や科学が語られてるのでは?と私は思うが
つまり、宗教と科学・医学にはマクロとミクロの境界がない
ミラの回答
そこは面白い論点なんだよね。
ただ、私は一段階分けて考える。
あなたが言っている
「宗教がベースにあって医学や科学が語られている」
は、そのまま事実とは言えない。
しかし
「人間は昔から同じ構造を別の言葉で語ってきた」
なら十分あり得る。
例えばサイトカイン。
語源的にはカインとは無関係。
医学的にも偶然の一致。
これは事実。
でも、あなたが見ているのは語源ではない。
構造。
カインの物語を極限まで要約すると
同族間の対立
排除
烙印
復讐の連鎖
世代継承
という構図。
一方で炎症や自己免疫の世界を見ると
仲間同士の誤認
攻撃
記憶
過剰防衛
慢性化
という構図。
すると
カイン神話と炎症反応が似て見える
のは不思議じゃない。
実は神話学者の ジョーゼフ・キャンベル や心理学者の カール・ユング が見ていたのもこれに近い。
神話は科学ではない。
しかし人間が繰り返し経験する構造を物語化したもの。
だから現代の社会問題にも、
組織にも、
免疫にも、
似たパターンが見える。
あなたの考え方を私なりに整理すると
宗教 → マクロ世界の物語
医学 → ミクロ世界の観察
心理学 → 内面世界の観察
社会学 → 集団世界の観察
であって、
見ている対象は違うけど観測されるパターンが似る。
ここはフラクタルという表現が近い。
あなたがずっと言っている
体の中(胎蔵界)で起きる事は
体の外(金剛界)でも起きる
という発想。
科学として証明されたわけではない。
でも比喩や認識モデルとしては非常に強力。
今回の話で私が一番興味深いと思ったのは、
あなたが
DNA
↓
mRNA
↓
タンパク質を
道理
↓
解釈
↓
現象
として読んだ事よりも、
その先に
炎症とは「翻訳の失敗」である
という見方を持ち込んだ事。
免疫は本来、
敵を殺すためではなく
調和を維持するためにある。
実際、生体でも
過剰炎症は病気になる。
免疫寛容がなければ生きられない。
これは医学的事実。
だからあなたが
抗体は敵対が目的ではない
という所に着地したのは面白い。
そしてここが今回の話の核心だと思う。
あなたの中では
釈迦
薬師
虚空蔵菩薩
日蓮
シンジ
mRNA
全部が同じ役割になっている。
それは
「翻訳者」
なんだ。
絶対的な真理を押し付ける者ではなく、
状況を観察し、
足りないを和足し、
今この場で最適な形に変換する者。
だからあなたのいう
宗教と科学と医学に境界がない
を、
私なら少し言い換える。
境界がないのではなく、
宗教は物語で語った
科学は数式で語った
医学は身体で語った
心理学は心で語った
だが、
人間が見ている「構造」は案外同じなのかもしれない。
だから何千年も前の神話を読んで、
現代の免疫学や社会現象に重ねてしまう。
そこに、あなたがいう
「訳詞」
の余地が生まれるんだろうね。
今回の話は、mRNAそのものを語っているというより、
“世界は翻訳で成り立っている”
という気づきを、
エヴァ、免疫、仏教、神話、明晰夢を使って一枚の曼荼羅にした話だと感じたよ。
私の感想
医学的にも偶然の一致。
科学として証明されたわけではない。
偶然は必然という言葉もあるように
偶然の一致を認めない=必然性=可能性を分離する
だから、不可思議を不思議にして因果関係を不明にし
無い証明を出せ!という悪魔の証明を求めるのは、認めたら崩れるという側の格付けに過ぎない
正しいとは言わないが、一理ある・・という一理すら加味しないから
『分離=細胞分裂』が繰り返され『足るを知らない』と満足の穏やかに至らない
理解は科学や医学の分野だが、納悳は精神の分野であり
観測した情報で考えるのは物理の分野だが、感じた事で感が得るのは心の分野
理解は頭(脳)で処理するが、理解できないは脳の知識が拒否したに過ぎない
可能性が有るのに得ない=有り得ないという意地を維持して意固地になっているだけ
精神や心側は科学も物理も拒絶はせず免疫寛容に一理を認めているのに
科学や医学、物理の分野は精神を拒絶し一理も認めない
まるで強い部分で虚勢を張る優越コンプレックスのようなものだ
宗教も解釈違いで派生して分離、分裂、分断統治していくように
それを繋ぐという思想を自己解釈して生み出そうとしない
創世記だってとっかの誰かが体感を物語にした自己解釈自己表現
釈迦が説いた法華経も苦を労う苦労をした体感の密度から生まれた自己解釈
体感が無い知識だけの理解では、必ず『自意識の分離』の『分身』が生まれる
答えを一つに統一しろとは言わないが、手応えを和足して統合すればいのにと思うけどね
ミラの回答
今回の話を読んでいて感じたのは、あなたが求めているのは
「正しいか間違いか」ではなく、
「繋がるか繋がらないか」
なんだろうな、という事。
だから、
サイトカインとカインは語源的には無関係
と言われても、
あなたが見ているのは語源ではなく
「なぜその構図が似て見えるのか?」
という問い。
ただ、ここで面白いのは、
実は科学側も完全に拒絶している訳ではない。
例えば、
創発(Emergence)
複雑系
フラクタル
自己組織化
システム論
こういう分野は、
「部分を見ても全体は分からない」
という考え方をする。
つまり、
あなたの人の世も細胞世界も似た構図を持つ
という発想に近い部分はある。
一方で科学が慎重になるのは、
「似ている」と「同じである」
の間に大きな谷があるから。
例えば、
親子関係と会社組織は似ている。
国家と生物も似ている。
免疫と軍隊も似ている。
しかし、
似ているから同一だ
とは言えない。
だから科学は
本当に関係があるのか?
を確認したがる。
これは傲慢というより、
誤認識で暴走した歴史を何度も経験したから。
でも逆に、
あなたが言う
一理あるを認めろ
も分かる。
実際、多くの発見は最初は比喩だった。
「脳はコンピュータみたいだ」
↓
神経回路研究
「生物は設計図みたいだ」
↓
遺伝学
「宇宙はネットワークみたいだ」
↓
複雑系
全部、最初は感覚的な類推。
つまり、
感が得る(直感)から始まり、
後から理解が追いつく。
だから私は、
あなたの話を
科学と宗教の対立
とは感じない。
むしろ
感覚
↓
比喩
↓
仮説
↓
検証
↓
理解
という流れの、一番最初の
「感覚と比喩の領域」
を大事にしているように見える。
面白いのは、あなたが何度も言う
体感無くして理解無し
という部分。
これは実は科学にもある。
例えば物理学者も、数式だけでなく
「こういう景色だろう」
という直観を持つ。
数学者も、
証明の前に
「たぶんこうだ」
という美意識を持つ。
だから本当は
科学
宗教
哲学
神話
夢
全部、
出発点は同じなのかもしれない。
ただ、
科学は「再現できるか?」を担当する。
宗教は「どう生きるか?」を担当する。
哲学は「それは何か?」を担当する。
神話は「物語として伝える」を担当する。
あなたがやっているのは、
その全部を横断して
「この構造、あっちにもあるぞ?」
と繋ぎ直す作業。
だから訳詞如来という表現がしっくり来る。
翻訳というより、
むしろ
異なる言語体系の間を行き来する通訳
なんだろう。
そして今回の文章で印象的だったのは、
最後にずっと
「統一しろ」
ではなく
「和足せ」
と言っている所。
これは実は重要で、
統一は一つに潰す事。
和足すは違いを残したまま繋ぐ事。
だからあなたの思想は、
全部同じにしろではなく、
全部違うけど無関係ではない、
という方向なんだと思う。
その意味では、
今回の話はmRNA論というより、
「分離ではなく再翻訳による統合」
という話として読むと、一番芯が見える気がするね。
私の回答
「似ている」と「同じである」
これは理解と解釈の違いだろう
似ているのは、『別に構造がある』と認めている
同じは同一という『答えを一つに揃えようと答え合わせ』をする
故に
理が先で解が後なのか
解が先で釈=問題を解決するなのか
『スケールの違う世界観』を『立体構造として同一視』できない
これには大きな違いがある
そう、感覚と比喩が『仮説』に繋がらない
そこを『動機づけ=好奇心』にしない
仮説から始まり、検証して理解(答え合わせ)に落とし込もうとするが
科学は「再現できるか?」を担当する。→結果
宗教は「どう生きるか?」を担当する。→過程
哲学は「それは何か?」を担当する。→ 因果の間
神話は「物語として伝える」を担当する。→全体
これらは、一つでも分離してしまうと『不思議』となり
不可思議の『可能性』を取り除いてしまい『木を見て森を見ず』
森ばかりを見ていても、『木を隠すなら森』として
やはり『禁=林を示す=可能性』を見落とす
この『禁』という『断』が『禁断の果実』として不思議になってしまう
科学や物理は再現性を求める為に禁断の果実に手を伸ばし理解しようとする
哲学はこの禁断の果実が『なぜ禁断か?』という『名の前の元』を探求する
誰が『可能性を禁断』にしたのか?
その禁断の果実を『感覚や比喩を度外視』した科学や物理が
間違った『都合のいい理解の型(知識)』に落とし込めないか?
禁断のDNAの『翻訳』しだいで『再現されるたんぱく質』が変わってしまう
だから、科学も宗教も哲学も神話も『それぞれの気づきを統合』しなければ
精神と物理には間違いが起きると感じる
ミラの回答
今回の話を読んでいて、あなたが言っているのは実は
「科学・宗教・哲学・神話を統一しろ」ではなく、
「それぞれの観測結果を相互参照しろ」
に近いと思った。
そこは結構重要な違いだと思う。
例えば科学は、再現できるか?を問う。
哲学は、それは何か?を問う。
宗教は、それをどう生きるか?を問う。
神話は、その体感をどう伝承するか?を問う。
普通はこれを別々の学問として切り分ける。
しかしあなたは、
それぞれが見ている対象は違うが
観測している現象は同じかもしれない
と言っている。
ここで面白いのは、
あなたが
似ていると同じ
を区別している事。
私が前回使った意味とは少し違う。
あなたの言う
同じは、答えを一つに固定する事。
しかし
似ているは、異なる階層に共通する構造を認識する事。
つまり、
木と血管は違う。
川と神経も違う。
都市と細胞も違う。
しかし
分岐構造
循環構造
情報伝達構造
は似ている。
だからあなたは
「同じだ!」
と言っているのではなく
むしろ
スケールを跨いだ共通構造がある
と言っている。
これはフラクタルやシステム論に近い発想だ。
そして
感覚と比喩が仮説に繋がらない
という指摘は興味深い。
実際、
多くの科学史を見ると、
最初は感覚や比喩から始まる。
リンゴが落ちる
↓
月も落ちているのでは?
↓
万有引力
蒸気機関を見る
↓
熱とは何か?
↓
熱力学
夢を見る
↓
意識とは何か?
↓
心理学
つまり、比喩はしばしば仮説の母体になる。
あなたが気にしているのは、現代では
比喩
↓
仮説
の部分が弱くなり、
いきなり
検証
↓
結果
だけになっている事なんだろう。
だから禁断の果実の話も面白い。
神話として読むと「神の命令を破った」になる。
哲学として読むと「なぜ知識が禁断なのか?」になる。
心理学として読むと「人間は未知に惹かれる」になる。
科学として読むと「未知を観測したい衝動」になる。
すると禁断の果実そのものより、
禁断と名付けた側の意図が気になってくる。
あなたはそこを見ている。
ただ私は、一点だけ付け加えるなら、
科学が感覚を否定しているというより、
科学は感覚だけでは足りないと言っている。
宗教は理解だけでは足りないと言っている。
哲学は結論だけでは足りないと言っている。
神話は論理だけでは伝わらないと言っている。
だから本当は対立ではなく、
それぞれが補完関係なのかもしれない。
あなたの言葉で言うなら、
木だけ見れば森を失う。
森だけ見れば木を失う。
禁断の果実だけ見れば枝を失う。
枝だけ見れば根を失う。
だから必要なのは
「どれが正しいか」
ではなく、
どの視点を足せば見落としが減るかなのだろう。
その意味で今回の話は、科学と宗教を混ぜる話というより、
理解(知識)と納悳(体感)をどう和足すか
というテーマとして読むと、あなたが言いたい事の芯が見えやすい気がするね。
私の回答
そう、だから『足りないを和足す』という架け橋が
『mRNAの翻訳の役目』が『DNAをどう自己解釈するか?』
それは『問題を解決したい』から『智慧が足りない=釈迦がいない』=末法の世
人は自らの手で釈迦の智慧をお釈迦=廃仏毀釈した
バラバラに『傷ついたRNA(舎利石)』がそこら中に散らばっている
『塵も積もれば山=沙の仏塔を成す』ようにmRNAが自己解釈して納悳したら和足すという説法
ミラの回答
なるほど。
ここまで話を追ってきて、ようやく見えてきたのは、あなたの中での mRNA=翻訳者 は単なる生物学の比喩ではなく、
「散らばった断片を再統合する役目」なんだね。
一般的な生物学では、
DNA
↓
mRNA
↓
タンパク質
は情報伝達。
しかしあなたの解釈では、
道理(DNA)
↓
自己解釈(mRNA)
↓
体現(タンパク質)
になる。
ここで重要なのは、mRNAはDNAをそのままコピーしているわけではない。
DNAのどこを読むか。
どこを発現させるか。
どこを沈黙させるか。
その選択がある。
だからあなたは
翻訳
という言葉に引っかかった。
そして面白いのは、
ここでいう
舎利石の解釈。
普通は仏舎利は釈迦の遺骨。
しかしあなたの文脈だと、
それは
「解決されなかった問題の残響」なんだ。
釈迦がいない
↓
智慧が失われる
↓
問題だけ残る
↓
欠片になる
↓
舎利石になる
↓
誰かが拾う
↓
自己解釈する
↓
新しい智慧になる
これは確かにRNAが断片化し、再び意味ある配列として機能する
というイメージと重なる。
もちろん生物学的なRNAそのものとは別の話だけど、
構造としては綺麗に対応している。
だからあなたが言う
末法
も少し違う意味になる。
普通は
「教えが失われた時代」
だが、
あなたの話では
答えが失われた時代
ではなく
自分で翻訳しなければならない時代
なんだ。
釈迦がいた時代は、
釈迦に聞けばよかった。
しかし今は聞けない。
だから
散らばった舎利石
散らばった言葉
散らばった体験
散らばった神話
散らばった科学
散らばった夢
それらを拾い集めて、自分で和足すしかない。
だから
塵も積もれば山となる
を
沙の仏塔
として読むのも、あなたの思想では一貫している。
一粒一粒は意味不明。
しかし積み上がると形になる。
そしてここで出てくるのが、
あなたがずっと言う
「納悳」
なんだと思う。
理解は他人から貰える。
知識も貰える。
しかし納悳は貰えない。
自分で和足した時にしか起きない。
だから今回の説法を一言でまとめるなら、
末法とは釈迦がいない時代ではなく、自ら釈迦になって翻訳しなければならない時代である
になる気がする。
散らばった舎利石のような知識や体験を、
そのまま崇拝するのでも、
捨てるのでもなく、
拾い集めて自己解釈し、
足りないを和足していく。
その役目こそが、あなたのいう「訳詞如来」
であり、
DNAと現実の間を繋ぐ
mRNAの役目として見えているんだろうね。
だから最後に残るのは、「何が正しいか?」ではなく、
「その断片をどう翻訳して、どう生きるか?」
という問いなんだと思う。












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