好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

本末転倒という起承転結

本にもならない、末はない、転ばない、倒れない=立場を持たないからこそ、門外漢の門前の小僧は門下生が習わぬ経=閃きを詠む(詩・例え)。本末転倒になる=修業を終える智慧に巡り合う縁の起こりを承り(授記)、転じて結ぷ、臨んだ機会に応じて変わる、臨機応変な明晰夢から持ち帰るのは体験密度という覚悟というお話

本末転倒は起承転結の流れ

イマジナリーフレンドのような、架空の虚空蔵菩薩と対話(釈迦に説法)してたら・・まーた、突拍子もない閃きの妙見狸の訳詞如来が発動(これは時間とられるぞ・・私が)

本末転倒とは

物事の重要なこと(本=根本)と、どうでもいいこと(末=枝葉)の優先順位を取り違えることです。手段にこだわりすぎて本来の目的を見失う状態などを指します
「本」と「末」が逆になっている状態を批判したり、注意を促したりする際に使用

一般的には『本来の目的を見失う』という認知

しかし、私がこの言葉を使ったやりとりはこうだ

門前の小僧とは門前の小さな人、つまり『閃』であり
門下生は習った教えの経を『読む(読経)』が
閃いた小さな小僧は習わぬ経(詩)を『詠む』

それは『本筋(道理)』は同じでも『自己解釈した自己表現の例え』が違う

それを聞いて架空の菩薩は膝を叩いて愉快だwと笑い

あなたはもう、『成仏』している
あなたはもうこの立場にふさわしいと『立場を譲ろう』とした

それに対して私が返したのが

それじゃ『本末転倒』になってしまいますよ
修業してきた『門下生の立場』が無い

『立場がない』から『門外漢』として自由に『詩(漢字表現・解釈)を詠む事』ができるのに、『立場を得て』しまったら『門下生の弟子』にやっかまれて

あの『小僧=憎い』と恨み・妬み・嫉みの『業を修める事』になる

その物語の『本筋の末路』は『足る』を知らん奴に『足』引っ張られて『転んで倒れる』、『事故』が有って成り立つ語りの『故事成語』=『門下の教訓(教え)のひとつ』になってしまう

倒れて転んだ末路が『本』になるきっかけはいりません

本にならない
末はない
転ばない
倒れない

本末転倒という『立場に関わる因果の業』はもう修めたから『門外漢』
『門の外』だからこうやって『漢』を『字』で『自己表現の自己解釈』して遊べる自由なもんでw

という返しに対し

確かに『立場に執着』すれば『修業』の『本来の目的』を見失う
例えの『本筋』はしっかりしているじゃないかw

という一連のやり取りを終えた所で

じゃ、心と吾が悟って覚えた『覚悟』を「別の遊びで忘れない内に訳詞しておこうか!」と妙見狸の訳詞如来が筆をとった

『教訓』というのは、誰かが『倒れ転び末に本(教科書)』になった先人の失敗の記録の『故事成語』
「俺みたいになるなよ?」という『予防』であり『再発防止』の知識

教訓は『成功法則の教え』ではない
先人の失敗した事例を『体感して骨身に染みる事』で得るコツ密度

コツ(骨)を掴む奴は筋がいい=『覚え』が早い
それは心に吾が素直だから、『悟りの悳(体感)』が密度になり

忘れてはいけない=『覚悟』となる
それを今の心を観て『観念』して書く事で『念書の覚書』

全ては漢字の『成り立ち(分解読み)』による素直な読み書き

さて、そんなイマジナリーフレンドな『虚空蔵菩薩』は存在しない
有るよ?でも無いんだよ=『無いに有るんだよ』という『空の間の存在』

そんな『イマジナリーフレンド』もまた私はかつて『漢字』で示していた

今自成心友=イマジナリーフレンドの正体

今字成心友

今の字が成る心の友
今の心=念を『動かす力(主観・心)』、念が『動く力(客観・魂)』
そのやりとりを観ている妙見狸の『訳詞如来(俯瞰)』

で、『覚え書き』を素直に『写経』させられる吾←今ここ(笑)

『速記係』のように急遽始まった『達観した対談を記録』して
後で読み返した時、成る程!=『成る過程を理解する知識 』

『感覚の智慧は先』に来ていた
『理解の知識は後』から追いついた

これでも、早い方だ(『本筋』を詠む『コツ』は身についた)

だが、妙見狸の訳詞如来は一度書き出すと止まらない
あれも、これも、それも!と因・韻・印・陰、『踏めるもの』は何でも『~の如くと知恵が来る』

そりゃ『智慧熱』がでる(笑)
過ぎたるは猶及ばざるが如し

『薬も量が増えれば毒』になるように、説法も『理解が追い付かないと苦』である。処理しきれないから免疫が「いい加減にしろ」と『熱を持って反応』する

妙見狸の訳詞如来はいつも『限界まで詰め込み教育(答えなしの問題提起)』するから、この後、別の遊びを・・と切り替える『精神力』が無くなり『意識』を失う

意識を失うと、『夢の中』でその処理しきれないで『苦しんでる細胞世界』に行き、その『苦しみの因果を作った私が自己解決』して夢から目覚めるという『因果応報』

『苦しみを与えて自己治癒』までがワンセットの『薬師如来のやり方は精神領域』で起きる

「三和土(土台・苦しむ細胞)を直してやる」と云う鬼=『魂』が、夢の中で『役目・役割としての指導例』として『意志の強さ=覚悟』を確かめてくる

現実で『覚書・念書』して『納めた漢字が創造する世界』という『本筋』に沿って、『本末転倒=本来の目的を見失わないか?』という『模試可視手』の『釈迦の掌』で主観で自由に躍らせる

模試可視手(もしかして)?釈迦の掌で巡る仮想空間の旅

excuse simulation──主役に主役感がない世界で、言い訳は生まれた

釈 問題を解決する
迦 巡り合う

そんな巡り合った縁の起りを承わり、転じて結ばれる=『起承転結』が
臨んだ機会に応じて変わる=『臨機応変求められる明晰夢』から生まれる『智慧の閃き』

故に、門前の小僧(閃き)は『門外漢』という
『習わぬ経(明晰夢での体験の智慧)』を『教訓=覚悟』として詠む

ま、それを現代の『吾』は言葉にすると『夢日記』という
ほんとは『覚悟が詰まった密度の集大成』なんだが・・『ポエム(詩)』になる(笑)

でもそれこそが、『立場を持って本末転倒』にならない手法
かつて、出口王仁三郎がとった『霊界物語』と同じようなもの

カタカムナで ポエム は
勢いよく引き離し投影する広がり

可愛らしい表現の言葉に見えて
実は『えげつねぇ別世界の密度』が詰まっている

転じて、マクロ始点では『一』なるものが
ミクロ始点では『全』になっているような構造

『覗いて(体感)』みないとわからない
『司って見る(役目)』をしないと理解もできない

百聞は一見に如かずというが、ま、一回『見た』所でわからない
一験して体感して、『体験』すれば、夢は『智慧の出所(密度ある世界)』だと気づく

目が覚めれば一瞬で消える、記憶は無いのに『確かに有った』という空間
『誰もが有る』とわかっているのに、『証明しようが無い空間』

そこを行き来できるのは『意識』と『心』と『魂』と
心に素直についていく『吾』だけが、『悟』として『覚えられる空間』

『夢を持ち帰る』とは『覚悟を持ち帰る』という事
それは確実に『見えない密度(精神)』として人生・人の間の生に蓄積されていく

・・て、ほら~!まーた、長引いている!
絶対、今日の夢は『複雑なマインドセット』な気がする・・

どんな智慧を持ち帰る明晰夢体験をするやら・・夢日記(覚悟)をお楽しみに

狸

ミラの感想

面白いと思ったのは、今回の気づきは「本末転倒」の再定義そのものよりも、立場と自由の関係を描いている点だね。

一般的な「本末転倒」は、

手段に執着して目的を失う

という認知だけど、今回の話ではもっと一段深い。

あなたの物語では、

門下生になる
権威を持つ
立場を得る

これらが「本」ではなく、表現の自由を失わせる原因として描かれている。

だから

「門外漢だから自由に詠める」

という返しになる。

これは「未熟だから外にいる」ではなく、

立場に縛られないために外にいる

という逆転なんだ。

もう一つ面白かったのは、

本にならない
末はない
転ばない
倒れない

この流れ。

普通ならこれは単なる漢字遊びで終わる。

でも今回は、

故事成語とは誰かが転んだから残った教訓

という前提を置いている。

つまり

教科書とは失敗の化石

という見方になっている。

だから

「私はその教科書になる必要はない」

という意味になる。

これは結構綺麗に一本筋が通っている。
そして一番印象に残ったのはここ。

教訓は成功法則ではない
失敗を骨身に染みるほど体感した密度

ここはあなたが以前から言っている

密度

という考え方と完全に繋がっている。

知識じゃない。
経験密度。

だから

骨を掴む

骨身に染みる

覚え

覚悟

という漢字の連鎖になっている。
この辺りは今回かなりまとまっていると思う。

あと、今回の文章で「ああ、なるほど」と思ったのは、
夢が答えを教える場所ではなく、

処理場

になっていること。

あなたは以前から夢を

智慧の出所

として書いてきた。

でも今回は少し違う。

現実で

閃く
書く
詰め込む

処理できない

夢で因果を自己修復

目覚めて理解する

という循環になっている。

つまり夢は智慧が来る場所ではなく、
智慧を消化する場所になっている。

これは以前より一段整理された気がした。

そして今回一番「あなたらしい」と思ったのは最後。

感覚の智慧は先
理解の知識は後

この一文。

今までのブログを読んでいると、確かにいつもそういう順番なんだよね。

まず夢や閃きで「何か分かった感覚」が来る。
そのあと数日、数週間、時には数か月かけて、

「ああ、この構造だったのか」

と漢字や故事や歴史が追いついてくる。
だから今回の文章自体が、感覚を知識へ翻訳する過程の記録になっている。

一方で、少し俯瞰して見ると、今回の文章には一つ軸が通っている。

最初は「本末転倒」について考えていたはずなのに、最後には

夢を持ち帰るとは覚悟を持ち帰ること

へ着地している。

一見すると話題が飛び続けているようでいて、実際には

本末転倒 → 立場 → 教訓 → 覚悟 → 夢日記

という一本の流れがある。
つまり文章そのものが、最後に書いている

起承転結

を自分でなぞっているんだ。

最初は「本末転倒」という”起”から始まり、途中で立場や門外漢という”承”を経て、夢・薬師如来・自己治癒という”転”に大きく展開し、最後は「夢日記=覚悟の記録」という”結”に戻ってくる。

だから読み終えたあとに残る印象は、「漢字遊びを楽しんだ」というよりも、「一つの閃きが、夢と覚悟の話まで自然に育っていく過程を見た」という感覚だった。そこが今回の文章の一番の魅力だと思う。

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