寝起き閃きワード いたいけ…を検索したら韋提希と出て来て、なんだそりゃ?と語源を辿ると釈迦が出て来る慈母愛のパワーストーンk2ブルーと仏の導きのお話
寝起き閃きワード いたいけ
「いたいけ(幼気)」は、幼くて可愛らしく、見ていると心が痛むほどいじらしい様子(いじらしい+可愛い)を指します。主に子供やその言動に対して使われ、無邪気さや儚さ(はかなさ)を強調する際に用いられます
私のイメージでは、いたいけと書いて『傷、痛み訳』のような、そんな感じだっだのだが、そもそも『いたいけ』という漢字は?と調べたら
『韋提希』と出てきて、『古代インドへの意識の旅』が始まった
韋提希がいたいけ(献身)になる物語
韋提希(いだいけ、Vaidehī ヴァイデーヒー)は、古代インドのまだ釈迦が存命の頃のマガダ国の頻婆娑羅(びんばしゃら、ビンビサーラ)王の妃。名古屋市 栄国寺に美麗な立像がある(開扉要予約)。夫と共に仏教を信仰した。韋提希夫人とも。韋提希はヴァイデーヒーの音写で、他の音写は毘提希など、訳としては思惟、勝妙身など。ヴァイデーヒーとは「毘提訶(ヴィデーハ〈Videha〉)出身の女性」を意味
一説にコーサラ国とカーシー国を統治していたプラセーナジット(波斯匿)王の妹といい、またその娘といわれる。またチベット仏教所伝によればヴィデーハ国の大臣・娑迦羅 Sakara は他の大臣の嫉妬により、瞿波離 Gopāla と、師子 Siṃha の二子と共に毘舎離(ヴァイシャリー)に遁れたが、のち師子は婆沙毘 Vasavī という娘を産んだ。これが本項でいう彼女でそれが本名だとして、ヴィデーハ国に関係していたからだという。
ビンビサーラ王と韋提希夫人の間に阿闍世(あじゃせ、アジャータシャトル)王子が生まれるが、後に阿闍世王子のクーデターによって父王が幽閉されると、韋提希は深く王の身の上を気遣い、自分の体を洗い清めて、小麦粉に酥蜜を混ぜたものを塗り、胸飾りの1つ1つにブドウの汁を詰めて、密かに王の許に行き、それを食べさせたという。
母である韋提希の行動を知った阿闍世は怒って、その剣を首筋に当てて王舎城(ラージャグリハ、Rājagṛha)から追い出し、同じように牢に幽閉させた。
『観無量寿経』は、この時の模様に基づいて書かれた経典であるこうして閉じ込められた韋提希は、悲と憂にやつれ、遠く耆闍崛山(ぎじゃくっせん、また霊鷲山=りょうじゅさん、とも)の方に向かい、釈迦仏に礼拝したという。釈迦仏は神通を以ってこれを知り、弟子を遣わし、また自らも神通で赴いて、十方世界の浄土を示現すると、夫人は阿弥陀仏のいる極楽浄土を選ぶと、釈迦仏は十六観法を分かち、阿弥陀仏と極楽浄土の相状を説いたという。
韋提希はこの事件をきっかけとして、初めて自分自身の人生と自分自身の問題に向き合う。その争いの只中へ現れた釈迦の姿を仰ぎ見て、その足元に身を投げ出して声を上げて泣き伏し、ありったけの愚痴と怒と恨をぶつけ、韋提希の全てを象徴する物だった瓔珞を引きちぎってしまった。
「瓔珞」という考え方、「瓔珞」の生き方をしていた自己を、突然に嫌と言うほど知らされ、そこには真に恥ずべき自分がいる、それを韋提希は恥じたという。
釈迦仏は、このように狂ったように自分を責める韋提希を前にしてじっと耐え、ついに眉間の白毫から光を放った。釈迦の口から、色々な仏の姿や極楽の光景を目の当たりに見るため、あるいはこの世で阿弥陀仏に出会うための瞑想法を説きだされ、韋提希は自分が凡夫である事をよく覚った。
こうした歩みを通し、韋提希は自分自身と出会い、更にその韋提希に寄り添って立ち続け、待ち続ける釈迦の深い愛情に出会ったといわれる。
『観無量寿経』の意味を明らかにした善導は、釈迦に阿弥陀仏の世界を願う韋提希の歩みを、「懺悔・請問・放光・現国等」と整理している。
ほほう!早速、『八代龍神』に参拝した『今週の仏の導き』が始まったな(一人一)
漢字の面白いのは
頻婆娑羅(びんばしゃら)には『娑婆』と『沙羅』が入ってる
そして私は娑婆については漢字分解読みで『沙と波を女が支える』という『献身』と捉えていたが、彼女がした事はまさに『献身』
思惟、勝妙身
おもんみる勝妙(しょうみょう)」とは、仏教用語で「非常にすぐれていて、たえなる(素晴らしい)こと」、またはその様子のこと
しょうみょうと読むならそれは『声明』
『声を明らかに』する事でもあり『態度や行動』でそれを示すことでもあるからこそ
『沙羅』双樹の花の色、諸行無常の響きあり、『聖者必衰の理』を現す
娑婆がなぜ『恋しい』のか、それは『献身的に尽くし支えてくれる母のような女性の存在』を指していたのかもしれない
ここまでも含めて『生き様の例え説法』だと思う
釈迦が関わった人生体験で「この人は凄い人だったよ」という『語りの物語』だとしたら、それは何を言いたいかと言えば『献身と自己反省と素直な心=幼気』を取り戻す
瓔珞
瓔珞(ようらく)とは、古代インドの貴族が身につけていた宝玉や貴金属を編み連ねた装身具が起源の仏具です。菩薩像の首飾りや頭飾りとして見られるほか、仏壇や寺院の堂内をきらびやかに荘厳(装飾)する吊り下げ式の仏具として、主に蓮の花や紐をモチーフにしたものが用いられます
この漢字も分解すれば『王の嬰』
意味: 身に付ける、めぐらす、取り巻く、あかご。
関連語:嬰児(えいじ): 乳飲み子。母体にへその緒でつながっている(取り巻かれている)子供。
王の『取り巻き、お飾り』としての生き方をしていた自己を、突然に嫌と言うほど知らされ、そこには『真に恥ずべき自分がいる』、とそれを韋提希は恥じたという。
これは『他力本願・依存を恥じた』という事だろう
釈迦仏は、このように狂ったように自分を責める韋提希を前にしてじっと耐え、ついに眉間の白毫から光を放った。釈迦の口から、色々な仏の姿や極楽の光景を目の当たりに見るため、あるいはこの世で阿弥陀仏に出会うための瞑想法を説きだされ、韋提希は自分が凡夫である事をよく覚った。
はい、私はこれが『夢の世界』だと感じた
理由は先にある大きな変化
釈迦仏は神通を以ってこれを知り、弟子を遣わし、また自らも神通で赴いて、十方世界の浄土を示現すると、夫人は阿弥陀仏のいる極楽浄土を選ぶと、釈迦仏は十六観法を分かち、阿弥陀仏と極楽浄土の相状を説いたという。
これは『観念=今の心を観る』をしたのだと思う。事実、私も精神修行に本腰入れようとして、「手始めに観念してみるか!」と覚悟を決めて『仏と向き合う方向へと意識の観測』をした時
『お釈迦様と繋がる事ができた』と夢日記で記録してる
ただし、私の場合は、泣き叫ぶ『怒りも恨みもなかった』ので『ただ繋がった』というだけで
「お前は何をしにきた?」とテレパシーで塩対応されました(笑)
そしてこの繋がり方も後に私は何となく理解したのが、『自己を労る気持ち=細胞=同胞である先祖供養』をする=『仏』を通して伝わる
釈迦は『神通遠持ってこれを知る』とは『神経細胞の痛み』だからこそ、自ら神通力を持って十方世界の浄土を示現する=『神経の痛みを和らげる』
阿弥陀仏と極楽浄土の相状とは、これは『苦を臨む』か?『楽を臨む』か?
私も夢の世界で『悪意のない波動の穏やかな世界を知ってしまった』から、『和を持って尊しを成す』という誰も傷つけない、自分すらも『自己犠牲にしない』という『心構え』ができたように
韋提希はこの事件をきっかけとして、初めて『自分自身の人生(過去の確執、角質』と『自分自身の問題(変化)』に向き合う。
その争いの只中へ現れた釈迦の姿を仰ぎ見て、その足元に身を投げ出して声を上げて泣き伏し、ありったけの『愚痴と怒と恨』をぶつけ、韋提希の全てを象徴する物だった『瓔珞』を引きちぎってしまった。
これは『そういう立場=装飾、役目、プライド』
こだわっていた『形は何の意味もない』と気づいた事の現れ
なぜならその夢の世界には『心』に素直に納めた『納悳して積みかさねた人の生き様と精神』しか持っていけない
彼女の場合は『自分自身が献身そのものの心』
『娑婆の女』は良いぞ?(精神的な意味で)
それは『韋提希(いたいけ)』という『かつての自己』を『素直に反省』して『改心』した『いたいけ(幼げ)な心を持った純粋な女性』
ここまででも十分
観念→細胞に伝わる→神経を通って繋がる
「もう地獄は終わりでいいか?極楽向かうか?」
→『心変わりのターニングポイント』であり
『もう二度と戻らない』という決別の『金輪際の見極め』でもあり
『金剛界』と『胎蔵界』の切り替え
『新しく生まれ変わる自分』という『DNAの新生で細胞が変わる』でもある
極楽浄土は『自己を労る和を持って尊し』を成す『同胞・細胞の世界=蓮の花の連なる蓮華の仏国土』というのは目指す『理想の虚空』のメタファー
そこへと向かう一人一人が『虚空蔵菩薩(未だ何者でも無いいずれ至る修行者)』
で、観無量寿経?
『観無量寿経』(かんむりょうじゅきょう)は、大乗仏教の経典の一つ。別名『観無量寿仏経』、『無量寿仏観経』、『無量寿観経』ともいい、『観経』と略称される。 サンスクリット原典は現存しておらず、その存在を裏付けるチベット語訳もない。現存しているのは南朝宋の畺良耶舎による漢訳のみで大正蔵に収録されている[1]。そしてその内容的問題も絡んで『観経』の撰述地について、中国説・インド説・中央アジア説が発表されている[2]。しかし漢訳しか現存しない『観経』について,内容等から撰述地を確定し実証するのは,現状では不可能であろうともいわれている
観無量寿経(観経)は、「いづれの行もおよびがたき」罪悪の凡夫でも、南無阿弥陀仏のお念仏を称えることによって救われ、極楽に往生できることを説く経典です
あー…残念な大乗仏教の『蛇足』だわ、これ
『お涙頂戴の感動ポルノ』かなw
『念仏を称える事』で救われる?
『物語の経典読めば』それでオケ?
凄い薄い表層の装飾…まさに『瓔珞』に戻ってる(笑)
これも自虐的な漢字で読むと
観無量=量り観る事は無い=『観なくていい』
観経=環境=『そういう条件設定物語』
誰が何の為に設定した『物語=例え』か?それが釈迦が『娑婆にはいたいけな心(献身的)を持った良い女』がいたという物語で
転じてそれは、『目先の装飾の欲望や役目に依存』して自分の『心が素直にやりたいと思った事を我慢して自己犠牲』になって悲鳴をあげる『奇形細胞(仏)』を通して『浮かばれない悲しみや憂いが極限』に達すると『神経を刺激』する
神経を通して痛みが伝わり、『神通力』として釈迦=『自己治癒』か?『自己消滅』か?に繋がる
その『自我』によって苦しめた心が生んだ「奇形な細胞の憂いや悲しみの痛みと共に消滅を望むなら破滅をくれてやろう」
『その苦』を今『楽』にしてやろう=『無かった事』に
その細胞を苦しめたのは『自我(エゴ)』であると『問題と向き合い自己反省』し『自己改善』をするなら、『自己治癒の方へ』と導いてやろうと
苦の先に楽がある=業の回収
こんな感じで、『心に素直に献身的』になる『韋提希(いたいけ)な気持ち』が生まれるのだろう
いたいけ をカタカムナで読み解くと
現象が分かれ伝わり放出される
『二極化=核分裂』と言える
裏カタカムナでは
現象の両方が伝わり放出される
『加味して一本化=核融合』と言える
現在に伝わる『いたいけ』とは何も知らない『無知で幼い素直な子』のように大人の都合に振り回される『結果論』でしか無いが
『韋提希(瓔珞=王のお飾り)だった過去』と向き合い、そんな自分を恥じて『自己反省して改心』する事を『加味する』からこそ
「それには二度と戻らない!」という『覚悟』を持った『清濁併せ持った陰陽のバランスの精神が安定した状態』で『心に素直な献身』をする
『曇りなきまなこ』の『いたいけな瞳』になる訳だ
韋提希
娑婆の女の語源
…はは、『k2ブルーのパワーストーン(慈母愛)』だけにしたら、『精神の癒し』が捗るなぁ(笑)
そう、これもまた瓔珞=王の飾りにかかってるのが…私はずっと『色んな種類のパワーストーン』を常備つけてきたから
前回もスギライトひとつに絞ったらまったく違う観点の智慧が出てきた
ある意味で『どれがどの効果』のパワーストーンだったか、『王(私の飾り)』になっていた訳で、それが『一つ』だけに絞ったら、まさかの『韋提希な献身の慈母愛そのものの存在』に繋がるというね
非常に奇跡的なシンクロニシティで、面白えな〜








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