たまたま見ていた哲学的な洞察をする動画で気になったワード『魂の罠』「光へ進むな」「死後の世界は今現在の行いで創っている」という気づきの話にうんうんと私が供養で宿した先祖達がうなづきつつも・・ちょっと解釈を和足そうと妙見狸の訳詞如来が発動した言葉に隠された意識の観測の変化のお話
死後の世界は選べない?
以前から、ぶっ飛んだSFやスピリチュアルなテーマを取り扱うエンタメでありながら、自分なりの考察や洞察に一目を置いていた配信者
今回、飯を食べながら何も考えず、観ていた時、動画の中でふっ・・と気に留めた解釈と言葉がこれ
魂の罠
臨死体験者の体験談を研究すると「死後のに来る光=お迎えは再び肉体に閉じ込める罠だから、光のほうへ進むな」という意見が多かったとの事
これを聞いて、私は笑ってしまった
闇の中の光=良いという『固定概念』
闇から離れる=逃げであるという『固定概念』
興味深い言葉は『7人の問いを持つ存在』がいて、答えられなければまた肉体に戻されるという表現
はいはいはい・・・と思ったのは
光=『兆しに進む』は前向き
「その光は罠だ!」と『逃げ=それ以外』を提案する
さて、『漢字』は『世界構造の全て』を語っている
まず、魂というのは、『云う鬼』=先人の苦言
先人は『他人を侵略・支配する業欲』に殺され『鬼籍』に入った
これは『直接的な殺人』に限らず、『毒(薬)』を盛られて体を壊したも入る
「それは体にいいものです」という人の言う『信仰に侵攻』されて
まんまと、『健康が不健康』になり『患者』という『患う者(思い込み)』に・・
『された=人の所為』のではなく『成った=選択した』自業自得の因果応報
それで、死後の門番は問う
「お前は何故、ここへ来た?」
(なぜ?理由?死んだから?)
こんなすっとんきょうな回答をしようものなら
「もう一回人生をやり直せ」となる
何故?とは『果て(死の門)』に至った『原因(何で間違った)』を聞いている
それを『明確』に『自得した結果』に至る『過程の自業』で「お前は何をした?」という審判だ
それを『抽象的なメタファー』で言えば、『閻魔大王の地獄の裁き』というが・・
私は『その漢字』も違うな~と感じたのは・・
『縁間』なのだ
『縁起』という『人と人の影響し合う関係性』を示す『繋がりの間』を取り持つ
いわば、『この魂を成長させる』ためには『どんな縁が最適か?』を『見極める』存在
そう考えると『光』というのは唯の『通過点』であり
『量子力学的』には『粒子』に戻って量子テレポーテーションした先で『また物質として再構築』
『法華経的』に言えば、『現一切色心三昧』で『望む縁(最適)な場所に最適な形』で現れる
魂の成長に最適化している支配=支え配る
これは『相似』している『構造力学=法則』
だから『選択はできない』・・というか、『今の選択の連続』の『密度の結果』なのだ
密教とは秘密ではない、密度を重ねろという『体感無くして理解なし』
自分自身で心に素直に悳を積んで、足るを知って納悳した密度があればこうなる
「お前は何故、ここへ来た?」
「やりたい事やって満足したから」
言葉では軽いが、それを言った時、その密度が備わっていれば余計な説明もいらない
「そりゃ極楽だなw」で終わり
あるいは・・私は『明晰夢体験』で、何度もその『鬼門』と向き合っているから
「これが足りない、それを知る為の体験を求む!」と
明確に『魂の成長の試練へ向き合う意志』を示した時
光=兆しへ進んだ先にあるのは、地獄だ(笑)
自ら望んで向かった賽の河原で『云う鬼(先人)の指導』でこづかれながら
「叩いても壊れないように土台を三和土直してやる!」と苦労する
で、その体験・体感を持ってまた肉体に目覚めた時
『苦を労う』事で、『難が有った』から「問題(夢体験と相似する事象)を解決できた!」と『有難いと感謝』する
そのサイクルで輪廻転生をしていると考えると・・観念って大事だよw
『観念』とは『今の心を観る』=自分自身・自己・心吾が向き合う事で
『今、回収すべき自業』を『授記』として成すべきを為す
その一つ一つが人生体験で『密度を重ねる教え』という『密教』なのだ
『心が求める事』以外は、全て吾を道に迷わせる『誘惑・迷惑』という間違う『幻想』
故に、『心の指針』に『吾が素直』に向き合い、人と共に養う=『供養』する事
『先人(鬼)』とは、自分自身の『自業の失敗の積み重ね』
だけど、その『屍』となった『塵も積もれば山となる』
だから、間違った道には『逃げ場』はないから例え『一寸先は闇の地獄』であっても
心が示す『兆しへ進む』
『挑む』とは手の兆しと書く
私はその手を『釈迦の掌』と説く
模試(if・畏怖の試練)を可視(仮想体験)させる手
『好奇心や探求心』とは、『足りないを足る=自己満足』にする為に『挑み続ける力』
故に、失敗は成功の元であり、失敗を重ねた先にしか自分のゴールはない
『この人生という空間』も終わってしまえば『仮想空間の儚い人の夢』
しかし、その仮想の中で『成すべき事』をなさねば仮想の繰り返し
それは失敗した事を繰り返さず、未だ知らない兆しへ進む事
一人一人役目、役割が違うから『縁起(関係性)』という『演技(影響力)』は磨かれていく
『切磋琢磨』して『精錬研磨』して無駄(間の違い)を削ぎ落し、心に素直に『悳』を積む
・・という、億劫でいつ終わるかもわからないような・・気の遠くなる同じ事の繰り返しの永遠のように見えて
『自業』っておもしろいもので、『回収』すると『次の兆し』が見えてくるから飽きないのだ(笑)
『苦楽を供にする』というのは『苦の先には必ず楽がある』という『体験密度』の言葉
そして『楽あれば苦あり』というのもまた『一難去ってまた一難』という
『難』を受け入れ、『難が有るから有難い』と成長の糧にする心構え
『問題』を乗り越えるほどに『問題』ではなくなり、『さらなる難問を求める』ようになる
『地獄』を抜けて『極楽』行っても、難を攻略するのが楽しくなると、また『自分=分離』で『地獄に戻るよw』というやはり『体感密度』の教え
これは私の中では『NK細胞』が細胞が浸蝕・侵略される事を恐れる『癌=病は品山』を狙って『食い物にする存在』になると相似する
『魂の経験値=密度』は他人には分からない
『人が人を理解できない』のは『心の器の大きさ』と『魂の密度の差』があるから
『器が大きい』と『大半の苦』は『納悳=機能獲得して耐性』を持っているから『苦とも思わない』
転じて、これは『細胞の自然免疫力』とも同じで、何が来ても『免疫が強ければ』いちいち『同じペクトル』で相手しない
『赤子の手をひねる』ようなもので容易い事で『脅威判定』しないで遊ばせる(免疫寛容)
と書いてるように、死後に恐れているのは、『自分の次の行先』というのも『天国・地獄という上下の固定概念』である
科学者は『死後の臨死体験者のレポート』をさも『自分の手柄』のように『学会に論文』として発表し『名と立場』の称賛を得るが
そこには『自分自身の主観の体感密度』がないただのデータを鵜呑みにした都合のいい解釈過ぎない
私はこの動画でロバート・モンローに触れている事もシンクロニシティだなと感じた
『明晰夢を夢日記』として『自己体験記録』として研究していくと『意識の観測とは?意識が世界を映している?』と自己解釈(フォーカスレベル)が発生する
それは『他人とは共有できない』が、『自分自身が体感』したからこそ、『心』に『嘘』はついていない『吾の気づき』である
つもりその密度を重ねていくと、心が何を伝えたいのか?に吾が近づいていき、自然に悟りを覚える=覚悟
想像を体感密度を増して、間違いない(間が違わない)と『覚悟』して『現実に自己表現の自己解釈』を創造する
それが塵も積もれば密度が増して山となり、童子の戯れが沙の仏塔を為すように形になった時
それを指標・墓標・道標として、その密度が欲しかったと、その先へ向かう者達への『先人の智慧』となる
『足るを知ったら和足す』のだ
・・という自分のこの人生の中では『見えない密度』を増す為に、最適な云う鬼(魂)が門番として立ち、『門の前の小さな人』に『閃きの光=兆し』へ進めと促す
進む先が地獄でも、それは自らの選択の積み重ねで生み出した世界
それを知らなければ満足できないと創造した輪廻転生
だから、陰謀論者=都合にレッテルを貼られた真理の探究者は、例え、周りにバカにされてもその未知を進むのは、そういう世界を意識が観測して観たいから、言葉に出して影響を与える
そして、その『自己表現された言葉』に『影響を受けた縁起の繋がりの有る者』が、『その指標』に向かって進む
『達観した人が皆から離れる』というのも、『皆』という『自分の分離』が多ければ多いほど、『業は深く回収するのが困難になる』と気づいているから(笑)
道に迷う、未知を間違う人が増えれば増えるほど、縁間大王の仕事=縁と縁を繋ぐ見極めは増える
その仕事量を減らすのが、足るを知って満足して『成るようになった仏』という
大半の問題は難なくこなすその道を達観したスペシャリストたち
これをスピリチュアル的に言えば、アセンデッドマスター・ハイヤーセルフ
でもそれは、『云う鬼=魂の指導』という『自己成長を促す地獄(現世)に仏』
『縁の繋がり』を『自己で見直すきっかけ』を与える
転じて、それは、細胞で言えば『炎症を自己治癒』というオートファジー
自己を労わるとは・・『労わる必要がある状態』にしてしまっている
それは自分に『無理』させている=『道理』はない
体を酷使するとは、人の本質・本性の質と性を酷く使う=負荷をかける
負けを荷う=『苦しみを与える』という『自業の積み重ね』の密度
という事は、『業』と向き合い『回収する』とは?
自己を労わるをしなければ極楽なんぞ『有り得ない』
『有るのに得ない=気づかない選択』ばかりをしている
『何』を『気』にしている?=病
人の不幸は蜜の味?=蜜多=気にさせる誘惑多い
人は欲望で病を気にする=そりゃ癌=病は品山=Businessの思う壷
不安にさせて高額な壺を買わせて「死後極楽いけますよ?」の霊感商法
そりゃ忙しい=心亡きでは気に病むはなw
という根本の原点に戻る言葉が「病は気から」
現代では『人気』
人気にはBusiness=『忙しい役目』が絡む
それが道を外す=外道というが、外道といっても道は道
そういう『道を未だ知らない』ものが『皆』となって『人気の業』に向かう
『7人の問いを持つ存在』とは、7つの滞在であり大罪
人の世の『根本的な欲の原理』であり、北極星(唯一無二)の周りの北斗七星
人は死んだら『天(空)に昇る』?、どこまでを『昇る空間』だと?
仮に上の方向だとしたら、地球から観た唯一動かない天は北極星のみ(シンプル)
天ではなく『点』に帰る=『原点に戻る』とすれば
そこで自業の積み重ねで『足る』を知らなきゃまた『地上』に戻る
それを搾取されている、支配されていると嘆くのは・・他力本願
なぜなら、北極星=大日如来は「お天道様は観ているんやで?」
『縁間の仕分け』にすら届かんで7つの業欲の化身が「欲を満たして足るを知ったか?」で『門前払い』
縁の間の役目・役割はロールプレイ
支配者を偽神とグノーシス主義が『名付けて固定概念』にしたとして
それは『人の為=強欲を手放せない者に厳しい』だけという観点もある
『根源の7つの欲を満たす』事で、7つの門番に問答されたとて
「お前は何故、ここへ来た?」
「やりたい事やって満足したから」
その『言葉』に『嘘偽りない裏付けされた覚悟の密度』があれぱ、それは『獄卒』だ
ま、言葉じゃなくて実践の試験をへて進むだけ
死後に『お迎え』が来たとして、その『真偽を見極める選択』は魂の密度
それがともなわなければ、光も間違うだろうな
そもそも『メタファー』
闇の中の光=『救い』・・と思い込む時点で
そもそも家族が迎えに来る・・と思い込む時点で
『愛着や盲信』という『執着』を手放せていない
『気締め=覚悟=悟りを覚える=心と吾がひとつ』でなければ
『死=終わり』は訪れない
必ず『戻ろうと選択』する
輪廻転生の運命(運ぶ命)から『逃れられない』のではなく
与えられた誘惑・迷惑=「皆がこっちいにいるぞ」というトロッコ問題に乗せられてるだけ
これを『魂の罠』というなら、これも言いえて『妙』だが
『云う鬼の上の監視の目』が『鬼の居ぬ間の選択』を試している
これは私の独自の体感だが・・
『先祖供養=先の祖を人共に養う』とは、その『云う鬼を自分の密度に一つ』にしている
密度は魂の経験値だから、縁起の間の云う鬼を全て宿せば・・
最後に向き合う門は一つだけ
「満足したか?」
「うん=云」
こうして、云う一人の鬼=『魂』になる
『魂を成熟』させる為に、『色んな魂』を『核に融合』させていく
核分裂=自分という分離を、自ら然るべく『自然体』に戻す
その『人として生きる為の環境』が『人生』なんじゃないか?と思うと
罠という『民を支配する上の目』とは、『お天道様』というほっこり穏やかな表現をするけど
「観てるんやで?」と『厳しい目』でもあり『自業の積み重ね』を最後に『自得』する『因果応報』そのもの
私がこんな表現をするのは、全て明晰夢で自分がどんな失敗体験して、その都度、体に意識が戻り、夢日記という旅の経典をまとめ、自己反省し自己解釈して自己改心して
それを素直に悳として体感密度を確実に三和土にしているから・・
難しい故事成語やことわざとか、失われた先人の智慧の言葉を引用して、現代の人の世で起きている現象と照らし合わせているんだろう
『自分で体験』した事は『自分を成長させる為』なのに、自分に起きた事が世界でも起きていて、自分の細胞の中でも起きている・・
こんな密度ある体験が増えればそりゃ・・間共な神経ではいられない『魂の罠=お天道様は観てるんやで?』
人は『人類』という主語をでかくした集団=皆で物を語るが・・
『類は友を呼ぶ』で人類では『一切皆苦=思い通りにはいかない』
『群集心理、集団』というのは、人それぞれ『役目も目的』も違うのに
『都合=都に合わせる』と途端に『格差が生じる』のは『他力本願の連鎖構造』だから
輪廻転生を繰り返すとは、そういう集団の居心地の良さ、その中の欲望の誘惑、永遠にループする世界でロールプレイを求めるから
求める=選択している
・・と言葉にして世界観を俯瞰で観た時、やはり密教を思い出す
胎蔵界
↑
金輪際の見極め=縁間
↓
金剛界
胎蔵界には胎蔵界の縁起があり
金剛界には混合界の縁起があり
金輪際、二度と関わらない・・というか、『体感密度』が増して『堕ちようがない』となれば
そりゃ自然に、進む兆しは一つしかなくなる
『意識は胎蔵界』にありながら『体は金剛界』にある
そういう『人の間』を離れた『魂(云う鬼)』を『地獄に仏』、『如来=~の如く来る=現一切色心三昧』
海外では『天使と悪魔』と言うが・・それは『立場』が違った『欲への執着させる極論のメタファー』
仏は天使でも悪魔でもないからこういう
「ほっとけ(仏)、関わるな(鬼)、それで問題解決(釈迦)」(笑)
この『道理』のない『無理な間違い(間が違う)』に進ませる手口を観通した
『足るを知った密度の教え』が『廃された三本柱』
これが『有ると無い』では、観える『空観世界』が違う
まずは『姿勢=死生』を正せ、与えられた言葉を鵜呑みにするな
『名が体を現す』のではなく、『体が名を現す』のだ
そして自ら然るべく、ありのままの自然体で、心に素直に悳を積んで密度を重ねれば・・
死後の世界?ほぼ毎日、『明晰夢』で『別の世界の人生』を生きてるぞ?と(笑)
罠はwana=「〜したい」「〜が欲しい」
『魂の罠』なら、『云う鬼』はしたいと『望む方向=光=兆しにすすめ』と導くだけ
ここで覚悟の有る無しが重要で
『覚悟』がある奴は『臨む』=ある物事や状況に対して直接向き合うこと
「その光の先に地獄が待ってようと臨む所だ」と意識の観測の旅をする
臨機応変とは『臨む機会に応じて変わる』
臨む地獄めぐりを終えたらそりゃ耐性ついて変わるわな
でも、望むだと・・それは欲しい=欲望だ
それを『密度』を観て『見透かしてる』から運ぶ命はまた輪廻へ戻る
ただそれだけと観念する=今の心を観る












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