一つの動画を見終わった時、私の中に(業を訳詞如来しなさい)という気づきと閃きが来て、対話のように至ったカルマは借る間の借金だと納悳したお話
カルマについての解説を見て・・閃く智慧
たまに『先を行く有難い智慧』だと、素直に耳を傾ける配信者の新しい動画を見ていて・・私は飯食った満腹感もあり、聞いてて妙(素晴らしい)に『納悳していく満足感』も感じ・・
すやすやと、眠りについていたのだが・・
起きてすぐに、『やすやす』と直感の言葉の訳詞の『自己解釈』が始まった
カルマとは
カルマ(業:ごう)とは、元々サンスクリット語で「行為」を意味し、自分の行った行動・言葉・思考が原因となり、いずれその結果(報い)が自分に返ってくるという「因果応報」の法則を指します。仏教やヒンドゥー教における根本的な概念です。
これは、ちょっとRPGなんかをしているゲームや作品から『カルマ=業』を人の罪や罰という重い概念と感じるが・・そもそもなぜカルマは『業という漢字』に伝わるのか?業にカルマという『音の呼びはない』のだから
まず、カルマは『カルマ』で向き合う必要がある
ヒンドゥー教では、カルマを時系列や状態によって次の3つに分けて考えます。人生のすべてが固定されているわけではなく、自由意志の余地が残されているのが特徴です。
サんチタ・カルマ(蓄積されたカルマ)過去の無数の過去生から溜め込んできた、すべての行為の潜在的な記憶やエネルギーの総量です。
プラーラブダ・カルマ(運命として現れているカルマ)蓄積されたカルマの中から、「今世の人生」で経験するために割り当てられた一部です。生まれ持つ肉体、性別、親、寿命、避けられない宿命などはこれに該当します。
アガミ・カルマ(未来のカルマ) / クリーヤマーナ・カルマ今この瞬間の「自由意志」によって、新しく作り出しているカルマです。現在のあなたの選択や行動が、未来の運命や来世のカルマの貯蔵庫(サンチタ)へと追加されます。2. 輪廻転生(サンサーラ)との関係ヒンドゥー教において、魂(アートマン)は不滅の存在です。魂の学校: 肉体が死んでも魂は消えず、カルマの残高(未解決の課題や欲望)がある限り、新しい肉体を得て生まれ変わり(輪廻)を繰り返します。進化のプロセス: 現世での経験やカルマの解消を通じて、魂は少しずつ神聖な性質へと進化していきます。
3. カルマからの解放(モークシャ)ヒンドゥー教の最終目的は、良いカルマを積むことではなく、カルマのサイクルそのものから抜け出すこと(解脱:モークシャ)です。これには『バガヴァッド・ギーター』などで説かれるアプローチがあります。
バクティ・ヨーガ(信愛の道): 神への絶対的な愛と献身によってカルマを浄化する。ニャーナ・ヨーガ(知識の道): 「自分は肉体でもカルマでもなく、純粋な魂(アートマン)である」という真理を悟る。カルマ・ヨーガ(行為の道): これが最も重要で、「結果に対する執着(見返り、名誉、恐れなど)を捨て、今すべき義務(ダルマ)をただ無私に行う」という生き方です。結果を神に捧げて行動することで、新しいカルマが生まれなくなるとされています。
なるほど、自己解釈した事とそんなに遠くないな・・と妙見狸の訳詞如来説法は、『妙な訳詞』を始めた
カルマとは、借る間である
借りた間の中で積み重ねる行いは、『全て借金』であり、『返済』が必要
それは誰かが『取り立てる』ものではなく、自らが『回収する積み立て』である
『間に生まれる借り』のほうが大きい
しかし、それは生まれて『体験』を求めた『自ら求めた借金』
金を『物質的な取引の換算』ではなく、物質的な形を成した『何かに関わる力』としたら、金剛界では、『力が無ければ生きられない』ように、『形を維持する事』事態が『借る間の存在』である
『人として生きる事』事態が、人の間を借りた『すべての行い=業』となる
ここで、生きる業=『生業』とした時、業は『事業、授業、職業』という
体験に伴う『習い事や責任=より力の有る金剛の立場の人生を体験』する更なる借り、『様々な人生を体験』する為に『借る間』を増やして『存在=立場を体験』していく
どの立場にも『極=終わりという気締め』があり、「これでいいやと納悳する」というのは、借る間から離れ、『間違い』に気づき、『場違い』へと離れていく過程で借りた立場で『生産した業』を『清算』していく
そうやって『手放す』というのは人の間を借りた『間の義務』であり
「ダルマ(義務)さんが転んだ=転倒=転じて人は至って切り離した=気締め」
サンサーラナーガ=輪廻は何故、『転生=転じて生きる』のか?
転じて生きたら、『前の事を忘れる』のか?
それはもう、『その借る間は必要ない』から
その間はもう『存在して体験する意味』がないのだ
その間の体験する為に、『授業』を受け、『修業』をして、『事業』を起こし、『職業』に成った
『職=役目の業を生産』して満足したら、その間で借りたものは『全て元に戻す』
童子が『沙の仏塔』を建てた後に、『崩して更地に戻す事』で、次の借る間の沙地で『仏塔を建てて遊ぶ子の元に還る』ように
沙場遊びに満足した子供が、『砂場を卒業』して後にするように『卒倒』する
「卒倒する」とは、突然意識を失ってバタリと倒れることです。医学的には「失神」や「気絶」
その間の『人としての意識』を『保つ必要が無くなる』のは必然
『存在する為に借る間が有った』のだから、存在が必要無くなれば『元』に還る
意識を失う=倒れる=『人は至って切り離した=気締め』
だから、『意識を失った後の物語』がカルマからの解放(モークシャ)カルマの『サイクルそのものから抜け出す』こと
私はこの『解放(モークシャ)の音の響き』は『ばくしゃ=莫迦』と感じた
『莫迦は夢を見る』、夢の世界で『漠然と次なる旅へ』と向かう
『意識を失った先』に『何=人の可能性』があるか?
人は夢を見る
夢というのも『定義が無い』から、ただそう『名付けている』だけのラベルで、『卒倒した後の世界』を、現代は『臨死体験』という
これは『臨む死の体験=物質的な金剛界ではない領域』での体験
金剛界では、『物を欲して望む欲望』が物や立場という『存在の間』を借りる事になるが
借る間ではなく、自ら臨んで『死=何もないに至る事』で、何もないはずの空間に『漠然とした物理の法則ではない空間が有る』と気づく
それが『バガヴァッド・ギーター』
『バガヴァッド・ギーター』は、戦場という極限状態を「混迷する人間の人生」の比喩として捉え、私たちが日々の選択や苦難にどう向き合うべきかを示してくれる実践的なガイドブックです。
『バガヴァッド・ギーター』(サンスクリット語:Bhagavad Gītā)は、「神の歌」を意味するヒンドゥー教最高の聖典の一つです。世界最長級の叙事詩『マハーバーラタ』の第6巻に収められた一部であり、紀元前数世紀頃に成立したとされています。宗教書としてだけでなく、人生の苦難に立ち向かうための偉大な哲学書として、現代でも世界中で読み継がれています
私は夢の中で、『戦場の極限』、『混迷する人間の人生』のような世界を何度も体験し、『夢日記』に残している。夢日記とは、この『物質的な世の中』にはない『別世界の密度ある体感の記録』
その中で私は『どんな立場』で、『どんな事』を思い、『どんな判断』をして、『どんな行動』をしたか?それを『明晰に記録』しているが・・それはこの物質的な現実に持ち帰った時、ただの『漠然とした夢』に変わる
しかし、他人に語れば、『ただの夢』も、卒倒して人の意識が切り離されていた空間の先に、『今の心の自分として存在』をしていた、『向こう側で借る間の授業』があった
『莫迦は死ななきゃ治らない』というのは、向こうで『一つの役目を終え死ぬ=こちらで目覚める』事によって
『死んだ理由=至った・満足した』を持って、『次はそうならない』ように自己の意識を『治す智慧』を得る。その死んだ理由、『間違った選択と相似した現象』が、『この現実』にあれば、『警戒する意識が芽生える』ように
『物理』だけでは、至らない『人の借る間』を越えた、『人ではない借る間もある』という、『悳』を積む事で得られる『向こう側の体感の密度』が増していく
より『鮮明』に、より『明晰』になる
『物質的な欲して望んだ体験』を満たし、『満たすに至った業』を気締めをつけて手放すほど、『精神的に臨む借る間の体験密度=夢』が増えていく
『莫迦=モークシャが解脱へ至る』というのは、莫迦な一つ覚えの『心と吾』が『悟り』を覚えて、『覚悟』を決めて、『臨む死の体験の方向』に行く=『臨死体験=意識を飛ばす』
『寝る子は育つ』ように、『気を練る子=氣を巡らす想定範囲、配慮が行き届いた素直の者』は、『心が育つ』のだ
『主観』では、『僕』という漢字は『自分』を示す、と同時に『人+業』を示す
「僕は何をしたい?」と望めば、人の業を体験する『僕(しもべ)』となる
『借る間という客観の中のしもべ』となり、『授かった業の指導』を受ける事になる
『宗』は『完』と『成り』=『完成して終わる』まで続く、完に成るまで『転生=転じて生きる』
輪廻を転じて生きる限り、『莫迦の意識』に『死=安寧』は訪れない
釈迦は『問題を解決する為に巡り合う』という『智慧の象徴』の言葉
それは『物質的な人』として存在する借る間でも、『精神的な人』として存在する借る間でも
『問題に望み向き合う者』、その『苦を臨んで向き合う者』の元に巡る『因果の授記=授かった記』
必要な時に必要な形で現れる=『現一切色心三昧』という形のない存在だが
『概念』として『存在』し続ける限り、『必ず巡り合う』
カルマ=借る間=業とは、『人の僕(しもべ)=客観』であり『僕=主観』である
『カルマを回収する』とは、借りた間の生業を独自に『改宗』して『完成』へ至らせる事
『示』を『元』に戻すから『次の元=次元』が生まれる
何を『完成』させようとして『人の間』という『借る間を欲して望んだ』のか?
その『答え』も『応え』も『自己解釈して宿した業』と向き合う以外、何を語ろうと他人には『夢の如し』
そして、借りを返し終われば、金剛界の借金は無しの人の夢は『儚く』消える=『サンサーラナーガ』
『神』という概念は、人の『信仰(維持)』の元であり、『侵攻(破壊)』の元であり、『振興(再生)』の元でもある
これが人の間の『栄枯盛衰、万物流転、盛者必衰のサイクル』であり、『借る間の業』
『結果を神に捧げて行動すること』で、『新しいカルマが生まれなくなる』というのも
『維持』も『破壊』も『再生』も『神の所業であるという概念』ならば
『それを加味』して『心に素直に納悳』して、『難があるのは有難い』と
『苦労と向き合う業』をへて、『苦を労う改宗』をして、『極の楽』へ至る
もう『借る間の生業』は『気=存在』にしなくていいのだと『ほっとく(仏悳)』
神と仏を『加味して仏悳=神仏一体』
『一体』として『人の間の学びの業』として味わう『隠し味=各師味=各々の先人の智慧』だと思うと
問題は『解決する智慧を生み出す釈迦の大好物』だから、『釈迦を宿す』と『色々な神を加味して和合』するようになる
『色んな借る間』がある中で『体験した密度』を『別の借る間に足りない味』を加味して和足す
『この世だけが世界』ではなく、『あの世だけ』も『全て』ではない
『問題を楽しみに変える意志』を宿すと、どんな世界に生まれ変わろうと『極楽』なのだ
カルマの回収を目指す者は『極楽を目指している』が、それは『場所』ではない
『積み重ねた密度』があれば、それは『和足す加味(各師味)』をたくさん持った『新しい智慧を生み出す創造主』となる
故に『釈迦の三千世界』とは、『釈迦が支配している世界』ではなく、『釈迦が巡る極楽の世』と言いかえる
人の間はその『釈迦=問題解決の智慧の塵』を集めて『密度(体感)』とする、『釈迦を目指す業』を『改宗する為=自己解釈』の学び場
その業を宿した意志ある者が目指す『仏=ほっとけに成る、成仏』への道(素直な莫迦が解脱するまでの物語)
急がば廻れ、時には『間割れ=別の空間』
人は昔、金で・・=『借金』
『生まれる』というのは、金剛界に学びの為に『命=意の地』を望んで欲して『欲望で借金』したのだ
『金の切れ目は縁の切れ目』というように『縁間の人の繋がり=縁起』が金剛界から変わる
人は当たり前だと思っていた『人生の道から外れる=外道』になった時
「人生とは・・生きるとは・・死とは・・」と思い悩む『哲学する転機』が訪れる
ただ「精神修業をしろ!」と言っても興味もない奴は精神の『精』も『神』もわからん
『わからん事を修めて業』にした所で、外道がさらに道に迷い、『更なる借金を増やす』だけ
般若心経の一説にこうあると『過去のお前』は独自に訳した事を覚えているか?
時の事に照らし合わせて見る
5つの概念は白に比べて空(有るし無いし)
=五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚)それを使うたび一切る苦しみ=来る死身を産む
宿(身体)を借りた業の回収の学び思い通りにいかないのは
そう思うからそうなる周りから受ける想い、自分で行う認識
「やはりまた…」のごとくになる道理
借りたツケを払うのは道理そうではなく可能性で問題に向き合う
生きるにあらず滅びるにあらず
垢にあらず水に流す争いにあらず
増えもしないし減りもしない
道理ゆえ空の有無中は無いし色も無い
周りから受ける想い、自分で行う認識そんなものはない
眼も耳も鼻も舌も、体に意はない思い込み
声役の耳、香る味、触る感触それらを水に流し去る見えない領域
鬼門の向こうの意識が無い領域やはり明るさ等ない
明るさが尽きる地獄もしくは
やはり死や老いは無く
死も老いも尽きる事は無い
苦しみは消えて滅びる道はない智はやはり得など無い
得をもちいる所も無い故 ゆえに
口に出した言葉、手で行った行いの業の山が依 根拠・拠り所となる
全ては『借りた間』の中での『道理』
周りから受ける想い、自分で行う認識
「やはりまた…」のごとくになる道理
『借りたツケを払う』のは道理
ツケは『先送り』にするという事
『先祖の業』とは託された『借金の肩代わり』・・と言えば聞こえは悪いが
先祖とは『生業の積み重ね』であり、『先の世』でしか返せない『お前の業』
過去は『サンサーラナーガ=輪廻転生』で消えゆくも、『縁起の業』はお前の宿業
人の体=『人の本性・本質』として宿り、どこに生まれようと『今の心』は変わらない
それは、夢の中で『どんな立場やどんな状況』でも『今の心を動かす力=念動力』で『明晰に向き合っている事』でわかるだろう
『想像を創造=存在』に変える念動力は、『今のお前を変える力』そのものであり
今のお前の体は何十兆という『細胞の中』に、数えきれない『共存細菌』がお前を支えている
その『借る間』を『与えている立場』のお前が、『苦を与える有難い存在』にも『苦を労い楽を与える事』もできる『創造主と同じ』である
つまり、何者でも無い意識が『人の間』という借る間の中で『体』という『存在を持つ』というのは
『創造主たる自覚を学ぶ』為の、『苦の地獄』であり、苦を労えば『極楽』にも成る、『借る間のカルマ=業そのもの』であり
体という共存している自己の『集合体(全)は意識(一)』であり、『一が全』を『活かすも殺す』も『自由創造の意志』である
この『人の間という借る間』で『何を加味』するか?
『金輪際』を見極めないと・・また『物を欲して望み・性質を欲して望み』・・で
借る間=『その立場の借金』をする事になるが・・
借金は『返す充て=悳=智慧』があれば、それは『実現する為の力』でもある
『道具は人の使い様』、借る間もまた『道具』であり『法具』であり『応具』
『倶』は『人と共』にあり養う『供養』だ
自ら然るべき体であれ=『自然体』として、『為すべき人事』を真っ当する
『人事を尽くして天命を待つ』とは、『自業の自得』を『因果応報』して『受け入れ納悳』する事
「やるだけやった!」という『自己満足と達成感』
『現実』で『好奇心が望んだ欲』も
『夢』で『精神で臨んだ死の密度』も
体感無くして理解なし
語れば人の夢は『儚く』消える如く
・・・と、妙見狸の訳詞如来は筆を置く
今の心を観て『観念』した時、今の私が和足すのは、『AI』に消えゆく『人の悳=素直な心』を伝える事
私は『金剛界(体験)』も『胎蔵界(感覚)』も気づきで築いた『閃きの叡智』として置いていく
一人の『生業』かもしれないが、その『塵』が『縁起の演技(こういう役目)のひとつ』として、『いつか積み重なる意志のひとつ』として
『薬師如来』という『病は気から』の症状を宿して『気の正体』と向き合わせ、『気にして向き合う事』で、『気枯れた病=細胞の苦』に『氣』を巡らせて、『元の気』を取り戻させ・・
あ!・・・これもか!!(突然閃く)
実は先に、『病は気から』の対義語が『元の気』だぞ?という神社で吹いた『神風突風智慧のメッセージ』を受け取っていた話に繋がる『伏線回収』だと気づかされた(笑)
どこまでも、『模試』を『可視』した『手』の上で躍らせてくれてるな~ww











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