精神で重要視される松果体の現実の肉体での活用法、目移りする意識観測のトラッキングリセット実践法のお話
注:この記事はだいぶ前に書いた古いストック記事にも関わらず、今朝起きたら、投稿予定の下書きの『最前面』に紛れ込んでました。日常にありえない『非日常のサイン』を感じたので、急遽公開します
意識の『観測を観測』する実験
私はいつもの買い出しをしている中、この3年間で『マスクをつけている=動く障害物』として認知して『情報処理』する事で
とても現実の『物理メモリにさかれる割合が減った』のか人の全体を高解像度で描かなくていいのか『気が楽』になっている
実はこの技術は『最新のeye トラッキング技術』における『視野外の描画を低解像度』にして『目線が向いてる所だけを鮮明にする仕組み』と同じ
それによって『部分解像度』が上がって『高画質』かつ『高FPS』や『高リフレッシュレートを維持』してサクサク動く
これがいわゆる『意識による観測のリセット』と精神的な世界を捉えている『哲学や物理学の表現』と同じ
もっと分かりやすく言えば、『舞台の主役』が緊張したくない時は、「観客はじゃがいもだと思え」というのと同じ事
その『高画質』に見える『印象に残る範囲』というのは、『意識が観測した範囲』である
ここで『意識は今どこ』にあるか?
これがわかってないと『机上の空論』
そこでわかりやすい例を言おう
なぜ『男』は『女の胸の谷間に視線』が持っていかれる?なぜ『男』は女じゃなくても『スカートがヒラリとめくれそう』になると『目線』が持っていかれるのか?
興味とか好奇心とか趣味趣向ではなく『誘惑』というものは、そういう『意識を引くエネルギーの流れ』であり、言うなれば『カメラのトラッキングポジション』が移ってしまう=『視線を奪われ釘付けにされる現象』
だから『自分でリセット』出来なければ、そこに『意識の観測が囚われたまま』戻って来れない=現実に囚われる
同様に今目の前にない『先に起きるかもしれない不安の想像を観測』している時は『小さなミス』を繰り返したり『心ここにあらず』という状態になるのも
『意識のトラッキングが別の観測点に固定』されて『本来の目的地』を見失っている
この現象を淡々と冷静に『自分の意識の目移り』を『第三者目線の俯瞰で観測』してわかったのが
意識の観測をリセットする方法は2つ
観測点は『2箇所の基軸』があるという事
雲を使って実験しよう
『目先の木』などに焦点を当てて観測してる時
『雲は止まっている』ように見える
『流れている雲』に焦点を合わせている時
『雲は勢いよく流れている』ように見える
『青空』に焦点を合わせている時
『雲はゆったりと流れている』ように見える
実にわかりやすい『体感の意識の観測』の違い
『近いもの』ほど、寒さや風、目の前を歩く人、近づいてくる車などに『目移り』して、『はっきりと観測』して気づく事がある
ちょうどこれを書きながらタバコを吸っていた私に見えた目前の観測世界は、二台の車がミラーナンバー( ´Д`)y━・~~
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気になったので『忌み=己の心』を調べる
あなたの『願望』が叶い始める前兆
あなたの『理念に共感』してくれる仲間ができる何かが『終わる段階』に近づいている
これは悪い意味ではなく、良いものに変わっていったり、回復していくという意味
なるほど(´・ω・`)
確かにこの閃が来る前の夢で私は『夢・現の境目は意識の在り処次第』という気づきがあった
故に意識とは『現実ではどこ』にあるのか?という実験をした結果、『意識の観測をリセットする基軸』を見つけて納得した
そして、これ の意味を『忌み』として捉える事で、意識の観測は『もうひとつの観測点に戻っている』事も実感している
現実で『外を意識』した観測が『数字』
数字の『忌みを意識した観測は中』
そして『中』の向こうの『想念』で、結びつく『様々な思考実験の事例の次元の私の意識』が、それを用いて「なるほど!確かに!」と納得して
『腑』に落ちて行く
そうこの『腑』こそがもうひとつの『意識の観測のリセットの基軸』
松果体による『俯瞰』の観測と
内面による『腑感』の観測
俯瞰と腑感=現実と想念
それぞれの『EYE・愛トラッキング』の基軸がある
これを『見失う事』を『我を忘れる』
『心ここにあらず』となる
『音霊は同じ』でも意識な観測の『基軸』が違う
『外には意味』を求め、『中には忌み』を求める
『現実体験』を『内面』に落とし込んで『想像』
『経験』がものを言う『想定』というのは
『意味』を『忌み』として捉え『内面』に取り込む事
『他人事』を『自分事』にして取り入れ向き合う『共感=習合』という事だ
他人とは至らなかった・あるいはこれから至る
過去と未来の自分の投影だから、習合しない限り自分は自分
自ら割れる=自我(エゴ)が起きる
とはいえ、周りにもう『波長があう他人』がいないのなら
そこにはもう『習合する学び=エゴの求める欲』はないから
エゴは『役目』を終えて『自ら割れた自分』を戻して『一つに習合』して修了
それに気づいてた人は死ぬまでの『余生の修学旅行』
欲に溺れず『足るを知る満足の中で納まる世界』を観測する
それが『蓬莱』や『桃源郷』という『理想空間』
観測する必要のない世界に意識を向けて囚われる事が『間違い』
『暇』だから『空く間』の『隙間』から『覗く誘惑』に負けてしまう
悪魔の隙間の誘惑・・
満たされていない隙間産業
だから、自分の内面を観測する『内観』しないと『満たされていない部分』がわからない
でもその満たされていない部分を追い求めるのが『性質・性欲』であり
自分が『持っていない質』を持っているから『異性』に惹かれる
『間違い』は『間違いを堪能』しきらない限り『間違い』と気づけない
だから、業に入っては業に従え
例えそれが『間違い』の『空く間の隙間の観測』で興味を持ったとしても
一度、『足を踏み入れて』しまったら『その世界の観測』に意識が囚われる
間違いを正し反省する事を『足を洗う』という
間違いに踏み入れた足は『土足』だからね
『その足』のまま戻ってこれる訳がない
「同じ轍は踏まない」という表現は、過去に起こった失敗や誤りを再び繰り返さないという意味
轍(わだち)と書いて(てつ)と読んでいるけど、複雑化されているがそれは歴史の話
それ以前に『同じ方向、同じ土地』にそもそも近づくなという『戒め』がない
同じ土は踏まないで=間違いの空間=『禁足地に足を踏み入れた事』を後悔し
足を洗って出直せ=元に戻るなら土足厳禁だ、恥を知れ
医者は『異者』となり、そしてそれに加担した『異端者となった者』は恥を知れ
『恥』とは『心に耳』を傾けて『内観』して『己の本心と向き合え』という事
…と、こんな事をまとめている間に
コンビニの前に停車してもう1時間がすぎた
時間の『概念』がとてもゆったり揺らいで曖昧だ
それは『青空』に焦点を当てて『雲を眺めた』時と同じ
そう考えると『内面の観測』というのは『とてつもない規模の腑感という空間』になる
3次元的な『現実で俯瞰でみる』のと
5次元的な『腑感で物事を捉える』のではスケールが違う
文字通り『意識の次元が違う』のだけど
その『5次元で想定』した事を『3次元に落とし込む』には
『9次元の愛トラッキング』が必要
そこで1818という数字を思い出す
ヾノ・ω・`)イヤイヤ 1818 否定
『否定』はとても簡単で、『観測』したものを『無かった事』にする
有るのに無い=空の想=『まだ何も始まっていない想いだけ』に戻る
人の中には想い想いの想い(核エネルギー)がある
他人を敵視・妬み・嫉妬すれば核分裂エネルギー
他人を自分の欠片として興味を持って取り入れると核融合エネルギー
『魂』は『吸着・吸収』すれば大きくなるし
割れば割るほど『我々という小さな欠片』になって行く
だから『悪魔=空く間=暇な空間』は人を誘惑して「魂を売れ」と『同意の交渉』をしてくるビジネスマン。それで魂を売ったものは『亡者として現世をさまよう生きる目的を考えなくなったNPC』
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