意識は上に氣は下に。それが『生活』という土台を安定させる△の軸の安定=『意』は『心』を持って『体』に『感』を与える和らぐの精神のお話
前回の肚を括って据えるの応用編
また外で空を( ゚ ρ ゚ )ボーと見上げながら
(。・ω・)y-゚゚゚を吸ってる時に気づいた事
倍音呼吸法→肚を括って据えるという土台安定を意識して『見ているようで見ていない』
『体からなる耳鳴り』に意識を向けると自然と『目線は前』に向き、『氣は下』に向かう
この『意識を上に』…を忘れて(。・ω・)y-゚゚゚を吸ってると自然と『下を向く』ようになって『気落ちしていく感覚』があった
正確に言うと『下がっていく氣に引っ張られる』ように『落ち着く方向へと上半身も引っ張られる感じ』だが
この下に落ち着く氣の流れは自然に『体』に任せ、意識は『耳鳴りに観音』していると
例えるならこういうエネルギー状態
↑↑↑意識
↓↓↓肚への氣の流れ
この状態を確認する方法は簡単で
目を瞑って立っていてもふらつかない
↑↑↑の方向に『糸がピーンと張る感じ』で
↓↓↓は△のように『土台がしっかり』する
ポイントは『△の頂点』である内観して『観音している耳鳴り=軸の音』である
この『頂点の音』と『土台となる肚の氣の流れ』は『オクターブで同じ響き』になっている
つまり『中心軸』がズレない『音の調律』をする事によって『体の調律』も取れる
それは『呼吸で音階を繋ぐ』のだが・・自然に『チャクラ部位』になるからおもしろい
『表現方法』が『時代や国で違う』だけで、『自己表現で記録する弥勒の教え』はどこにでもあるものだ
それが生きる事に活かす=『生活』の知恵
『実践』する『愚か者=愚現者=具現を修業する者』の『体感の体験』
『人の身』で無ければ味わえない有難い学び(一人一)
机上の空論の『口の虚=嘘』ではなく、やればわかる=『実感』
その『実』を得る為に『体』が必要であり
『感』を得る為に『心』が必要なのだ
体を動かし、心が感じる=『体感』して『感動』して『震撼』したものを『神官』する
「こ、この感覚は!?一体なんだΣ(゚Д゚)」と『神経』を『審判』する『者』=『審神者』
『神を疑う』とは『愚か者』なり
だがその『感覚を遊ぶ愚か者』の『修める業』が『賢者=差取り・差に和』になる
つまり、よく(欲)遊び=試し、よく(欲)学べ=『達成』せよ
「達成したらもういいだろう?」と『業の欲』は無くなる
上の者が下の者に分け与えればいい=『和らぐの精神』
『潜象(シミュレーション)』を『現象(具現化)』へ
『息=自らの心』を『域(空間)』へ
達成したら『次へ』と進む=『次元』
「次はこれを遊ぼうか?」と示しが現れる=『示現』
『意識は上』から来て、それを『下に体験』させてくれる
↑↑↑の方向に『糸がピーンと張る感じ』で
↓↓↓は△のように『土台がしっかり』する
この時、意識を上・・に向けず落ちついていく『氣に意識』を向けると
それは『左右の二元性』の『極端な世界』を捉えてしまう
だから、上からくる主の糸=『素』を忘れてはいけない
素の意識に直で従い、素直に心を納めるから=『納悳』
納悳した事を『積み重ねる事』が『熟練』
練度を高めていく体験は『経験値という土台』になる
「達成してもういいかな?」と思うほど『夢中』になれ
それは『夢の中の出来事』のように楽しくなるだろう
・・だってさ(゚∀゚)アヒャ Σ(゚Д゚)
『魂の経験値』とは『録』ではない
かつてそんな『生活』をしたという積み重ねの『生き様』
『身』についているから『求めない』
『心の意』だから『憶』として土台になっている
『馬鹿莫迦しい』と『レッテル』を貼られる事=忌み嫌われる=『鬼門』
『都合』が決めた『やってはいけない』というルール=『禁忌』
『宗』の始まりはそこから
『一つの物事』が『二つ』に分かれる『示』
それを『下』に広める役目が『教』
しかし下に行けばいくほど『極端(二元)』に分かれる
その中で周りを惑わせ迷わせる『迷惑』な状態は『孤高・孤独・孤立』
『迷惑』とは『他力本願』する事で起きる『因縁』
『孤立無援』とは『集団の衆生の中』での『他力本願』における解釈
周りに頼れる人がなく、助けを求める人もいない状態を指す
一人ぼっちで、誰も手伝ってくれない状況
そこから『一切・金輪際』と離れると『子立無縁』
『素直な子』が『無(全てある)』と向き合った時
その『無の外』には無為自然の『支える縁』がある
その『無(全てある)』とは何か?
それが『可能性』の『禁忌の鬼門』である
・・なるほど、ここに繋がるのか(一人一)やはり『先に在る』けど気づかない『先在意識』
『素=主の糸』に素直になる『意識は上(天・閃)』に『氣は下(地・体感)』に
云う鬼の門と人が向き合う=『魂の閃』
その門を『示し申す』と書いて『示申(かみ)』
示し申すのは心であり、『心』がなければ『感』はない
『感心』も『震撼』して動く『感動』もない
それを『加味』すると・・さらに『子立無縁に夢中で没頭』できる
『味が加わる』のだから『他』では味わえない『美味しい想い』ができるである(創作)
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