団結とは、『人の為=偽』の『信』を『用』いて『束の頁(本・教え)』にした『信頼』で成り立つ、『いずれ分離する前の段階』であり、決断は『分離しない事』を決めて『断る結実』であるという気づきのお話
閃きワード 団結と決断
団結とは
人々が力を合わせ、強く結びつくこと。
決断とは
心をはっきりと決めること。 きっぱりと断を下すこと。 ② 事の是非、善悪、正邪などを判断し裁決すること
あるスピリチュアルの動画の中で、引っかかった言葉が『団結』
というもの、直前に書き終えた記事で図解した『宗の始まりと正体』において・・
団結とは『原子=経糸』ではなく『分子結合=横糸』を意味すると感じた
『心が同一の他人』は存在しない
誰かが誰かに『寄り添う』という事は、『偏見や思想への共感』という『素=主の糸の軸』からぶれる事を意味し、『ズレた所で結合されてしまう』と感じた理由もまた漢字の組み合わせ
団とは『口の中』に『寸』が入っている
口は『空間』であり、そこに『人』が集まると『囚』の『集団』となる
寸とは『小さい、原寸=寸法、元の等身大』の大きさ
『一寸の虫にも五分の魂』があったとしたら
五分(魂)と五分(肉体)で『五分五分の50/50の中間』になるが・・
そこに五分の魂を持った一寸の虫の『群れが大量』に集まったら・・
50/50/50/50/50/50/50/50・・各自に『中間』では無く偏る
この一寸の虫の五分の魂を『人の自我(エゴ)』とするならば
もう半分の五分とは『主の糸=素の心』である
それは口という空間を持たない、現寸大の等身大のありのままの心=『中間』である
『真(心・芯)』と『我』以外、『一切皆苦』という認識こそが『立場がない中間』
心=主の糸=『素は皆違う』
それなのに『団結する』というのは・・その集団が『結びついて分子』となるのだから
それは『極端のどちらかに傾く事』=『分断』を意味していると感じる
だらこそ『決断』という似て非なる言葉の『音の響き』こそ『中間を指し示す』と感じた
決断とは『断る事を決める』
二元性の『極端』の中では、どちらかを『切り』、どちらかに『つく』という
出口のない選択肢の『トロッコ問題』において『決断を迫られる事』がある
しかし、二元性の極端、あるいは『偏見で傾いた物事の全て』を『一切皆苦』として『中間から両方を断つ事を決める』
つまりは団結の『真逆』にある
だんけつ の言霊は
反対に強く分れ放出して集まる
けつだん の言霊は
放出して集まり、強く反対に分かれる
『似ている』ようで『違うエネルギー』に感じる
団結とは『群れ』、口の中に寸の『集団』が入って『結ばれる』
それは『その空間以外を強く反発』して『村八分』のようにして『集まる都合』
つまり『都合のいい者を迎合』する
決断とは『断る事を決める』
まず『一切を放出』して『必要なもので集まり』、そこから『離れる印象』
それは『我』と『我を労わる心』である
と同時に、やはり『金輪際の見極め=決断』という言葉になる
『胎蔵界の釈迦・大日(大光明)』と金輪の下の『金剛界の大日如来』
真我以外、一切皆苦という『金輪際の見極め』の『決断』
『素直な心と今の心(念)』だけを観る=『観念』する=『自力・釈迦力(一の位置)』
しかし、団結は心ではなく『我と我=我々』という『自我と自我(エゴとエゴ)』
『口の中』に集まった『寸』の手段の『他力本願(数)』を求める
同じ問題に巡り合い解決する=『釈迦』であっても
『胎蔵界』の釈迦・大日と『金剛界』の釈迦・大日ではやり方が違う
「団結するな=分断の妨害」でもあるし
「団結しろ」=『弱い者が徒党を組め』という『誘導』でもある
「この虫けらどもを集めて五分五分(同レベル)と思わせて一網打尽にしよう」
『飛んで火(偽の光)に入る夏の虫にする』という意味でも
『団結を促す』のが『金を支配した力』が全ての『金剛界』のやり方
『多数』に『決をとらせよう』と『任意で意を任せる』のは
それは『新たな分断の決断を生むきっかけ』に過ぎない
例えば、『反ワクで団結したコミュニティ』が、後に、『反ワクの中でも分断』を生み
真実を追う心を大事にする者は『分離を決断して離れていった』ように
『団結』は『五分という魂を持つ一寸の虫(益虫)』を
『烏合の衆(害虫)』にして『それぞれの自由意志を封じる柵』でもある
『主催者』がいたら、主催者に『迷惑をかける発言や行動』はできない
各々に『思う所(心の違和感)』があったとしても『業に入っては業に従え』の空間
それが『団』という漢字
『まとめる』という意味では『使い方次第』だが、それは『自然にまとまる』のと
誰かが『信』を『用』いて『信用』を『束の頁にした信頼』を軸にしたら・・
それはもう、『信用・信頼』という『一時の都合で生まれた軸』であれば
それが『折れる・変わる』だけで『分子結合の分離の始まり』である
口の中の『寸劇』は『虚』になり『嘘』になる
『嘘を盲信した信仰』は脆い
『他力本願』はそういう『信用とか信頼』から始まる帰依の教え
それを『体験や経験』で心が感じた事がない者は『盲信者』になる
あるスピリチュアルの動画の宇宙人(名乗る者)が軽々しくいった『団結』
あるスピリチュアルコミュニティが盲信している『不幸を止める集まり』
これらに『団結』しようとしている『大半』が・・『半信半疑』である
つまり、心は『納悳』していない=『素直に従えない』
それが『決断のサイン』なのだが・・残念ながら
それらを『一切!』と『線引きする覚悟が無い』から
『偏見で偏るポジショントーク』をする
『都市伝説は信じている』けど、『スピリチュアルや精神論は信じてない』・・とか
どっちもどっちで『人が言う事』を用いている『信用の口の中の寸劇』で結びついているだけ
そんな『半信半疑の他力本願の異分子』だらけの『団結』というのは『邪』である
『経糸の主の意図』が『真っ直ぐ』伝わらず、『極端に揺さぶる横糸』の『波の影響』を受ける
決断とはその『影響が無い間の見極め』であり、その『影響』を受けたくなければ
『金輪際二度と邪と関わらない』という『強い覚悟』があって初めて『断る事を決める自由』がある
何気ない言葉だけど、全ては『先人の智慧の言霊』
『一寸の虫にも五分の魂がある』
『現寸=等身大』『寸劇=ショーなどの合間にはさまれる、短く軽い演劇』
『口=空間』
半信半疑とは『尊い』ものを『口と八』で『噂』にしてしまう『邪(横の意図)の邪魔』
しかし、それはそういう『横の意図の役目』なのだと『横やりを無視』する
そうやって『決断』して『断捨離』して繋がりを切っていくと
始めて『素=主の糸の経糸(WARP)』を感じるだろう
必要な時に、必要な存在(人・物・事)が現れる『シンクロニシティ』=「現一切色身三昧」
「現一切色身三昧」(げんいっさいしきしんざんまい)とは、法華経に説かれる、菩薩が衆生済度のためにあらゆる姿を現すことができる神通力
それが、団結しないで『自力で主の糸(天命)を辿ろう』とする『人事に宿る自由意志』
『心に素直になる』以上に『やるべき宿業』など無い
『決断』して『結実』になる
成果をむすぶこと。 また、結果として生じること。
因果=念仏
『始まりの今の心』が『果ては仏』になる
では、『始まりの今の心』とは?=『決断』して周りは『ほっとく』
では、『それが果ての仏になる』とは?=『結実』して『仏悳』
決断が、放出して集まり、反対に強く分かれ
結実が、放出して集まった内なる示しが集まる
善も悪も、中途半端な偏見のポジショントークの邪も
『不要なものを放出』して『集まった内なる示し(心)』が集まる
それが『結ばれて実になる』=『新たな現実の創造』
言葉はよくできている
言葉に『先人の靈(例え・礼儀・禮=示し豊か)』を宿して『言霊』にする
言霊を聞いて『感銘』を受けた『人の中』に先人の『意志=主の糸』は宿る=主命入る=シュメール
『経糸=WARPする』=『意識のシフト・空間転移』
そして『主の意図』は『隔世で覚醒』して受け継がれる遺伝
世をへだてること。時代を異にすること
1→3→5→7・・無限
団結すると・・
2→4→6→8・・無限
割り切れる=永遠に『分断』は終わらない
気持ち的には『割り切れない(納悳できない)』から
やっぱりそこから『決断』して離れ
そこにはない流れにのって離れて流離(さすらい)
流離う先で『新たな現実』を『結実』する
大日如来、釈迦、空海、聖徳太子、シュメール、縄文、カタカムナ、ホツマツタエ、ソロモン、鬼、禁忌、鬼門・・心の導くままに意識の旅は『WARP(経糸)』を辿ってきたものだ
興味があれば、これらのキーワードでブログ内検索してみてください
文字通り『夢の有る話(ある体験物語)』ばかりなので
『自然の法則』とは面白いものだ(≧▽≦)
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