好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

タヂカラオの言霊 神棚の奥の忌み

タヂカラオから八百万の神の語源のルーツ、そして神社と神棚の決定的な信仰の違いを明確に理解して意識が変わる月と月のお話

タヂカラオ?

寝起きひらめき( ¯꒳​¯ )ᐝキーワード『タヂカラオ』

いわゆる、天岩戸伝説で岩を開いただったかな?という印象

ここでふと思ったのは

他の力を?(他人を利用する)
他に力を?(他人を助ける)
田に力を?(農耕の知恵を)

ここで①ならば、他人を利用するする為に『アメノウズメの陽動』と『オモイカネによる悪知恵(鏡写し)』に手を貸して天照を岩戸の奥から引っ張り出す侵略となり済まし

『鏡写し』とは現代で言う『コピー・模倣の隠語』
普通に考えろよ?┐(´д`)┌ヤレヤレ

2、3の他に力を分け与えるという意味で、『自生』して行ける『農耕の知恵を与えた者』で言えば

タジカラオという存在は国立の神では?

日本書紀では、天地 開闢 かいびゃく のときあらゆる神に先立って現れた第一神。 国土生成の中心的神とされる。 「古事記」では、国常立神の名で、第6番目に現れた神。 国底立尊 くにのそこたちのみこと

うーん(´◉ω◉` )なんだか、やっぱり古事記と日本書紀っての情報読むと…あれれ?って思う事がある

例えば、『第6番目に現れた神』という点だが、聖書の天地創造において6日目に造られたのが・・

獣と家畜をつくり、神に似せた人

ここで動物や家畜と人間=『農耕』が生まれていると読み説けるのだが、そこをストレートに伝えないから偏ってる『能書き(自画自賛)』に見えるんだよな┐(´д`)┌ヤレヤレ

『古き良き物』を破壊した上での『国の上書き』『神の上書き』のような『元々ある神』を全部書き換えたような収奪的手柄の横取り?と、感じた理由がある

遠野物語に出てくるオシラサマ・オコナイサマ

おしら様(おしらさま、お白様、オシラ様、オシラサマとも)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる[1][2]。茨城県などでも伝承されるが、特に青森県・岩手県で濃厚にのこり[注釈 1]、宮城県北部にも密に分布する[3]。「オシンメ様」「オシンメイ様」(福島県)、「オコナイ様」(山形県)などの異称があり、他にオシラガミ、オシラホトケ、カノキジンジョウ(桑の木人形)とも称される。

通常、伝承やそれに伴う儀式は、信仰している各集落や町内、家族や親族間の中だけで秘密裏に執り行われることが多く、他者やメディア等へ詳細を明かすことが忌み嫌われている地域も多く存在するため、未だに解明されていない部分が多い。

おしら様は、女の病の治癒を祈る神、目の神、子の神[注釈 2]としてのほか、農耕神として田植え、草取り、穀物の刈り入れなどに助力するともいう。

また『遠野物語拾遺』には、かつては狩人が狩猟の際、どちらの山に行けばいいかを知るため、おしら様の神体を両手に持ち廻し、その馬面の向いた方角へ行く風習があったため、おしら様は「お知らせ様」であろう、とある[2]。地震、火事などの予知力もあり、『遠野物語拾拾遺』では、おしら様を鉤仏(かぎぼとけ)と称し、正月16日の「おしら遊び」の日に子供たちが1年間の吉凶善悪の神意を問うたという[2]。

この起源を中国の『捜神記』(晋代干宝撰)、『神女伝』(唐代)に求める説がある(「蚕女」)。おしら様信仰誕生の背景に山神信仰や、養蚕作業、生活の糧の馬に対する信仰その他が混ざり、原初的な多様な性格を有する神として成立したものとする見方もある[5]。伊勢地方の天白神、または中国神話の「蚕馬」を原型とする見方もある。

ふむ( ・・ )また『唐』が出てきたし、何やら面白そうな伝承の種も(笑)そのうち深堀してみよう

私は先日、遠野物語に触れたのだけど、その中の話で

畑の開拓作業を休む事無く行った体の小さな若者をつけて見ると、家の神棚の中に続く泥の足跡があった。その御神体の像の下半身が泥で汚れていた事から神様が手伝ってれたんだ!という

とても不思議でアットホームだけど、古き日本が『神棚を飾る理由』というのが何となくわかるエピソードと言える

私はたまたま、最初に岩手に訪れた時、この『神農神(炎帝)を祀る神社』にたどり着いた事がある(マジで予定外)

神農神

神農神

体は小さく頭には牛のような角が生えた農耕や薬の神。炎の帝とは、見た目が赤いのか、それとも毒素を体内に宿して漢方を作るという意味では免疫力の象徴か

さらに丹内山神社の木の屏風には、牛を引く農耕の若者の姿、中国(唐)の話、オシラサマのエピソードである畑の開拓作業を休む事無く行った体の小さな若者、すべてが合致する

何が言いたいかと言えば

東北に伝わる本当の意味での『農耕』や『漢方』、そして『法華経の伝来』をし、『国としての体』を立たせた『国立ちの神』とは

『唐から伝来』し『三蔵』を持ち込んだ『釈迦牟尼』だろう。釈迦の教えが『薬師(漢方)』、そして生きる知恵が『久須志』として、田を耕し『生産』して『伝統』を大切に繋ぐ事(森羅万象)を伝えたオシラサマ

当時は『釈迦』なんて言われないだろう

例えば東北にも『南祖坊』という『南から法力に長けた人物?集団が来た』という『十和田の伝承』を考えると、名前は重要ではなく『行ったこと』が大事

なるほど八郎太郎と呼ばれた八岐大蛇は『八幡太郎=役職』として読み解く、その名を持つのは『源義家』と色々見えてくるなぁ(今度深堀しよう)

そう考えた時に、おやおや?と思う名を思い出す、それが少彦名

少彦名命(すくなひこなのみこと) は、大国主命(おおくにぬしのみこと)とともに日本の国を作ったと言われている神様で、医薬やまじない、温泉・酒造など幅広い力を持つ神様と言われています。 炎帝神農(えんていしんのう) は、古代中国の神様で、人々に医療と農耕を伝えた

あ、ドンピシャだったww(シンクロニシティ)薬師、薬湯、久須志=唐由来の釈迦の教え、全部繋がる

と同時に竹内宿禰(風貌も似ている)

竹内宿禰

『公卿補任』では薨年未詳で295歳にて死去(一説として仁徳天皇55年に年齢未詳で死去)、『水鏡』では武内宿禰は仁徳天皇55年に280歳で死去、『帝王編年記』では仁徳天皇78年に年齢未詳(一説として312歳)で死去したといい、他にも諸伝説がある

帝王編年記・・ていう『炎帝』を匂わせる

ふーむ、国津という国、もしくは出雲という国の体を整えてから、天津の天孫降臨を導いたと仮定すれば『猿田彦(道祖神)』でもあるのか・・

ただオオクニヌシと共に日本の国を作ったというスクナヒコ、しかも武芸の達人でもあった『炎帝』という『両面』という意味では・・やはり事前に来ていたこれもシンクロニシティか

鬼滅の刃 刀鍛冶の里で気づく両面宿儺

ふーむ、実に興味深いがまぁ今回はいいやwたぶんその内、『深堀の閃き』が来るだろう

命を無駄にしない供養と御馳走を頂く精神

さてさてそれで思い出したのは、岩手って、牛を育てて『牛を食う』んですよね(^_^;)『短角牛』や『雫石牛』(ブランドで高いけど美味い)

釈迦だか誰だかのエピソードに「あなたが生き長らえる為に私を食べて下さい」と『動物が身を捧げる』いう話があった気がする

これは実はとても深い

『馬を食う』『牛を食う』というのは、おそらく『最後の役目』だったんだと思う(´-`)oO{

かつて農耕の牛車としてパートナーは『牛』だったと考えれば、その役目を終えて命が尽きた時に『無駄』にはしないと食べた(御馳走)

『供養』とは『共』に『養う』と書く(・ω・)φここ重要
『羊(供物)』を『食べる』とも読む

私はこの「私が関わった者の命を無駄にしない!」という精神は『釣り』を学んだ時に身につけた

釣りから学んだ外道の本質

『キャッチアンドリリース』というスポーツ感覚の釣りとは『人に都合のいい理屈』で、引っかかった小魚はどんなに上手く針を外しても『傷がつき弱る』

また呼び寄せる為に撒く『撒き餌を自作』するものは『人工化学調味料』など、ヒトにとっては問題ないが、『環境汚染に繋がる物』を平然と『撒き餌という大義名分』で海にばら蒔いている事を知った

人間で言えば「添加物だから食べても大丈夫!」…と『毒素を食わされている』のと同じ事

ヒトの都合で呼び寄せられて釣られたのに「お前小さいからいらね・⌒ ヾ(*´ー`) ポイ」と傷つけられて棄てられる(そのまま死ぬケースも)

これは無駄な殺生

関わった以上、例えどんなに小さくてもちゃんとその『命』を頂いて『御馳走様』(-人-)と『血肉』に変えて『共に生きる供養』しなければいけない

今は『家畜を産業化』したから『増やして食べる』になったけど、昔の根本の教えは、「頂きます(-人-)」御馳走様は『供養』だったんだと思う

『供物』とは『人』と『共』にあった『物』、お供え物

「これがあるといいよ?」と『備えた』もの
それをお知らせした『伝来のオシラサマ』

まるで『遠くからきた神様』のようだ!=神はどこから?追いかけよう→神棚?!Σ(゚д゚;)追えない?!

これは当時の人達からすれば『伝来した人が来た場所』なんて分からないけれど、『有難い知恵』を与えてくれた神様は『神棚の奥』から来る

そう信じたんだろうね

それで思い出したんだよね

奥の院という開かずの間

私は古史古伝系の古き神社を巡る時、いつもぐるっと回って『奥の院の形状や古さ』を確認しに行く

ここで見分けのポイントは『蜂の巣』である
蜂は古く乾燥した頑丈な木に巣を作る

秋田の赤紙五社堂に行った時、私は社の正面でピクピク死にかけの蜂をみつけて起こしてやったが・・もう瀕死だったのか、何もしてやれず死を見届けた。そしたら帰り際に別の一匹の蜂が追いかけてきて、私の周りを何周かした後に戻って行った(敵意は感じなかった)

岩手の丹内山神社にも大きな蜂がいたけど、こちらも敵意はなかった。私が毎回行く地元の神社のいつも拝んでる白龍龍人の小さな社の屋根の隙間にも……

私が拝んでると(-人-)その横を通り、私を無視してその屋根の中に蜂が入って行った時は……ちょっといきなり過ぎてマジで内心は心臓ドキドキで信仰心試された気分だった

私はいつも『蜂の巣の目の前』に立っていたのかと(笑)

でもおかげでわかったのが『敵意』がなければ『威嚇』される事も無いのだと。そんな『蜂の巣たっぷりの奥の院』には、神主以外は入る事ができない…と言われているが、はっきりいって

『物理的に遮られる』ように『本殿』が建てられて『奥の院に繋がる扉すらない』という形状の神社すらあった訳で、正面に向いてる本殿に行って賽銭投げて、鈴鳴らして柏手打って頭下げて帰る……

これはなんの意味も無い行為(´^p^`)Σ(゚д゚;)

奥の院を『開かずの間』にして一般から遮る為の本殿、『奥に神がいる』から一般とは線引き?いやいや『隠してるでしょ?』という所が…いかにも『後から上書き』して『物真似した侵略者の能書き』に思える

例えるなら『日本企業の名前』だけ残し中身は『外国資本の投資家のおもちゃ』みたいな?今も昔も『エネルギーの流れ』は変わらんよ┐(´д`)┌ヤレヤレ

神棚と神社の大きな違い

神は常に『身近』にいてその『行い』を見ていて、『人助け等の行い』は神が見てくれているし、時には『神が助けてくれる』のだと言う

行いを見ているぞ?という『オコナイサマ』
時には知恵をお知らせするぞ?という『オシラサマ』

自分自身を自分が正しき行いへと律する上に、『他に力を与える精神(タヂカラオ)が神棚』という象徴

一方神社は神頼み(他力本願)(笑)

どちらが『精神レベル高い』と思うよ?
『明確』に『明』らかに『和の心』は元々こっちなんだよ

さらに面白いのが『棚』という組み合わせ

八百万の神はヤオからきた?

棚は『木』と『朋』、木と月と月
台湾では親友の事をバンヤオ『朋友』

「友」は志を同じくする人で,「朋」は師匠を同じにする人となっています。 こういう区別があることを知っていても,それを区別して使うことはありません。 要するに,同じ師匠の下で学ぶ仲間や,同じ方向で仕事を進める仲間。 それが朋友なのです。ミエン語は、中国南部、ラオス、タイ北部、ベトナム北部の主に山岳地帯に居住する『ヤオ族』の使用する言語の一つ

はい(๑•̀ㅂ•́)و✧来たね!ヤオ族!
月と月、師匠が同じ志の仲間

つまりは神棚とは『神』の元、『木』を学ぶ『朋』を繋ぐ『ゲート』と考えれば、ファンタジーならばそこが『どこでもドア』で行ったり来たりな『異次元ポータル』な話だけど

現実的にはその知恵を与えてくれた『朋(ヤオ族)を忘れない』という『八百万(万事)の神』という信仰心

『神』『木(自然)と朋に生きる知恵』を与えてくれたから『自然は大事なパートナー』なんだと、『朋に生きた者』を人であれ動物であれ植物であれ、ちゃんと『供養』して『命頂き』ますと『御馳走』になる

さて、そう考えると、感じる漢字の成り立ちと変化は面白い

朋友→盟友
固く誓い合った友人。同志
文字通り『移民』との『混血(和合)が為された変化』とも読める

足るを知るで満たされたら
『他に力(支援)』を『田に力(生産)』を

それがタヂカラオという『国立(自律)の神』であり
それは『知恵を教えるオシラサマ』でもあり

同時に一人一人が『自分の行動を律する』ように見られていると、気を引きしめる『オコナイサマ』でもあり、神棚の奥、奥の院から訪れると言われる『オクナイサマ』でもあると

ちなみに『様』は『尊敬語』で使われてるけど、「この様よww」というように人を罵倒するのにも使われる都合のいい意味

『木』と『羊』と『水』、ひとつひとつがエネルギー
そのままの『在る様=様子』なんだよね

神様とは神の様子=エネルギーの質

田に力を!なら『木と水の自然』を
他に力を!ならば『供物(牛・人に備え物・知恵)』を

『無い』に与えて『有る』を産む
『空』腹を『満』腹に変える法華経(三蔵の知恵)の伝来

そこまで分かればもう私は十分(/・ω・)/
エネルギーの様子は『役割と相似』

神の元で月と月の同じ師匠から木(自然)を学ぶ『棚(たな)』という言葉の言霊は

カタカムナで読むと 分かれた核
まさに『あちら』と『こちら』に『核』がある

神棚を通して繋がると言えば『現象の自我』と『潜像真我』でもあり、同じ師匠とは、『和多志』という『根源の意識(心)』

心を開くとは、神棚を開いて

オシラサマ=知恵の伝来と閃・気づき
オコナイサマ=君たちはどう生きるか?

神(力の実態・実体)は棚の奥の院にいる心

かつてそこは樹齢数百年、数千年の時を超えた大木が立つ地脈・水脈の『豊富なエネルギーの自然』がそこに在る=自然・山信仰

という事を忘れない為の『目印』が神社の役割
でも大事なのはそれらと『繋がる生活』を忘れない為に

オクナイサマ=屋内様
家の中の『普段の行動』も何もかも『生活に反映』されるという事

質素倹約なら人は整理整頓や行動発言にブレがないとか
体裁ばかり気にする人は見えっ張りで(見栄)ブランド物の服は綺麗にクローゼットに入れてるが、普段の部屋着はボロボロでその辺に置いてあるだらしなさとか

オコナイの様がオクナイ(屋内)の様
心の乱れは体の乱れ

そうやって考えてみなよ?
神は『何処』にいるか?それは『あなたの中』ですよ

言葉は『真実』を語るけど
真実は『言霊』で産まれる

言葉を『生み出す事』は簡単だが、言葉に『役割をつける』のは難しい

だから『名』は『体』を表す

神とは力の『実態』である
様とは『様子・在り方』である

『私の神様』と言えばそれは、自分の『今のエネルギー状態』の事を言う

シンプル哲学 oh my Godの自業自得とお前ゴッド

最後に私の『今』の『神』の『様』をまとめると・・

古事記や日本書紀に出てくるタヂカラオやクニタチノミコトとかは知らないしどーでもいい(ヾノ・ω・`)Σ(゚Д゚)

『東の和』に伝わっている『唐由来の伝来=釈迦牟尼の朋友』からの『盟友』、『同じ師匠から学ぶ仲間』と言う観点で捉え直したら

『タヂカラオ』は『農耕の知恵』や『漢方の薬』を自ら実践して作り伝えてくれた『助太刀の伝来者達』であり、それは同時に『国としての自立の体』を与える『五穀豊穣の知恵』を転々と渡り歩いた『薬師(久須志)』

だから、北に久須志の意志はあったんだ

久須志=薬師 で繋がる不死(富士)の霊薬

彼らは『神社』という大きな物ではなく『小さな祠=神棚』を家の中に置く事で、誰も見ていなくてもその『オコナイ(行動)・サマ(様子)』は見られているぞ?と

善悪の具象神と地獄の審判=閻魔(審神者)の考え方=アヴェスター(原典)

…結局はオコナイサマは『自業自得で因果応報する事』になるから、毎日『神棚(心)』と向き合い、『オシラサマ(心からの知らせ)』の言う事はちゃんと護ろうと

そういう『認知』に変わった事で

田に力を=生産・自然創造に力を(オコナイ・サマ)
他に力を=知恵と経験を継承しよう(オシラ・サマ)

これらは『神格化』と『偶像崇拝』してるからややこしいだけで単純に

行い=自業自得の体験・経験
お知らせ=知恵継承・気づき・閃

『行い』と『お知らせ』を『実践して繰り返す』のが『伝承』
それが『洗練』されて形式化すると『伝統』
色んな所と行き来するのが『伝来』

まさに『神棚から現れる助っ人』のように『先人の知恵』が行ったり来たり繰り返すと納得出来る。この『意味がない』所に『忌み』をつけて、それに『自分が納得』したらそれは神の一部の『母体』となり

そこから『どのようなエネルギーとして引き出す』か『名(子)』をつけて生み出す

名は体を表すカタカムナ
力が分かれ、力が広がった核

それが言霊創造

それで言ったら……最後の最後にびっくりしたよ(´^p^`)

タヂカラオを言霊読みしたら

分かれて内に凝縮した力の場が奥から

神棚の言霊が
力の実態が内から反対に分かれた核

まさに神棚から出てきて『助っ人』してくれる『オクナイサマ』そのもののエネルギーの様(笑)

私がやった事は、既にあった『子(名前)』の実績から『ルーツ』をたどり『親(母体・ルーツ)』に至って、お参りした『産道』を逆に辿って『産まれてきた』ら

子の名前に母のどんな『願いのエネルギー』が込められていたか理解した(。-人-。)有難い

こうして『知らなかった言葉』に『言霊の忌みの力が宿る』から『精神が成長拡大』して行く

タヂカラオ

すげえ言霊を寝起きに仰せつかった訳でございまして候。終わったら頭パーン MP0(´^p^`)今日はもうアヘアヘ Σ(゚Д゚)

ちなみに『善意の押しつけ』は人助けとは言いませんのでご注意を

『満たされている』から『余った余力を回す』のであって満たされていない=欲に囚われている者がやったら本末転倒

例えば『神棚を作ってあげる』は最初の助け

しかし、それを代わりに作って売るの『商売』にしたら、それを『求め依存する人』の『弱みに漬け込む事』になる

仏壇仏具・墓石に墓地、なぜ『民間ライバル』が生まれないか?と言えばそれはその『弱みにかこつけて美味い汁を吸う事を伝統』にしてしまったから

神も仏も『供物にして食っちまった』のは『宗教』という信仰そのものの『自業自得』

だから神棚も仏壇も説明できる『忌み』を失ってしまった
屋内様の『自律の教え』と『先祖は朋に』ある気持ち

心を開いて自分自身と向き合うとは
『DNAの細胞核』にアクセスして『設計図を知る』事と同じ

その一部が『過去世』だったり、『夢』だったりとその時『必要なタイミングでアクセス』している

『神棚』は『心』にある

仮にそれを『天岩戸』とするならば
そこを開いたのは『タヂカラオ=伝来の助っ人』

さてさて、『伝説』とは『書く』も『詠む』も不思議なり(´^p^`)

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