道を楽しむ者の為につく、導く事が楽しいガイド=本能。獣とヒトはガイドが違う道(習性・終生)を生きるお話
獣の習性は獣の終生
習性とは
習慣によってできあがった性質。くせ。
動物のそれぞれの種に一般的に認められる行動様式。
終生とは
一生を終えるまでの間。一生
修正とは
よくない点を改めること
『終生』の『習性』を『修正』するのがヒト
獣は人から、人は獣から学ぶ
人は『野生』から『外れた獣』=野獣・のけもの
人は『獣とは違う終生』を持っている
考える事、生み出す事、作る事
『野生の終生の習性』を学び
『人の終生を修正』して生きる
そんな修正をした人から習性した獣は『その獣の終生を修正』して生きる
野の獣も、そこから外れた除け者(人)も
元は全から分離したように見えるだけの一
一事は万事、森羅万象
『満ち足りた空間』から『役目が離れた』だけ
離れた役目を見て学ぶ
反面教師、『ヒト』の振り見て『我』が振り直せ
本能とは道を生きるガイド
獣にも除け者にも『本能』があるがそれぞれ違う
獣は人のように生きる事は無い
それは獣としての道を生きるガイドがいるから
人は獣のように生きる事は無い
それはヒトとして道を生きるガイドがいるから
ガイド=本能があれば決して『道を外れる事』は無い
それが自然の循環
お互いがお互いを見て関わり方を学び、段階を踏んで成長していく
必要なタイミングで、必要な問題や試練に出会うように計画や法則がしっかりとあった
本当は『役目は道楽』で
『目役は導楽』だった
それら『純粋』なものに『邪な因子』が混ざった
混ざった因子は科学反応を起こし予測不能に
混ざった因子は化学反応を起こし化けた偽物に
そして純水な純粋が汚水に汚され反応して、不純物を大量に生み出し、それらがヒトを染め始め
ヒトの終生が『学び』ではなく『殺し合い』になり、いつからかヒトは『生きる事に執着』し『死を恐れる』ようになった
その死への恐れをヒトが抱く事で
ヒトの終生を習性する獣もまた
死を恐れ怯え『敵対』し『毒』を持ち『縄張り』を意識するようになり、その『習性と終生』が変わってしまった
自然は『ヒトの学び』が『獣への学び』になる流れ
不自然は『ヒトの争い』が『獣の殺し合い』になる流れ
死を持って学んだことは敵の倒し方
次はもっと強烈・凶悪な兵器を毒を肉体を…
敵意や争いのない獣の空間に
『ヒト』はいなかった
そんな空間にヒトである私は歓迎され
敵意を向けられる事も攻撃される事もなかった
ヒトとしてそれが『自然の習性と終生』であり
その『習性を学んだヒト』として『終生を修正』しなければならない
……いや修生(業を修める為に生きる)か
私はヒト(他人)の『全体』を修正する事はできないが、『私自身』の生き様の習性を修正して生きる事はできる
前回の夢から覚めて学んだ事は、どんな次元、どんな空間、どんな階層に生まれ変わろうと
私は和多志の一事であり万事であり
今の己の心の忌を習性として本能(ガイド)にする
道を生きるとはガイドに従うという事
畜生道に畜生のガイドが
餓鬼道には餓鬼のガイドが
……と言えば地獄かよ!と思うかもしれないが、私からすれば
幼年期の魂は『盲信・狂信になる道』を生き
若年期の魂は触るもの皆傷つける『争いの道』を生き
成人期の魂は盲信と争いの『板挟みに心苦しめる道』を生き
老年期の魂はそれらの『仕組みを探求する道』を生き
超越機の魂は『本能(ガイド・マスター)の役目を学ぶ道』を生きる
ここまでが『5次元』とでも『階層』とも『多次元』ともなんでも言えばいい
これは空間(スペース・隙・空いてる間)ではない
空感(感覚・フィーリング)
そう想うと『思えば産まれる創造』
「そんなものはない!」と言い切るのは
『想像力(考える力)』と『創造力(生み出す力)』がない
そして『自身(経験・体験)がない』から『自信(信仰心)』がない
信仰と言えば多くの人が『宗教や神』を思い浮かべるように、真っ先に自分から切り離す
『真っ裂き』に『真』から『我』を切り離す
そして『我に都合のいい神』を生み出す習性は、自然ではなく、不純物が混ざって生まれたヒトを惑わす情報が浸透した終生
そうやってヒトは『自らの可能性』を捨てて、『何かにすがりつく弱さ』を身につけてしまった
溺れる者は『藁』をも掴む
集団になれば『ワラワラ』と溺れて行く
それを(笑)(笑)と藁を投げたヒトデナシは嗤う
助ける気などない
助け合う事を忘れてしまった
そんなヒトを学んだ獣もまた『助けない習性』になる
だけどヒトの中にも『万事』が狂っても、『一事は正常』な者もいる
その正常なものに『正常な自然の習性』を見せる事で、その『習性を修正』させれば
その『自然の習性を学んだ者の終生』に触れた者は、『自らの終生を修正』して生きる
そんなヒト=除け者の習性を学んだ周りの獣は『ヒトの習性を修正』して生きる
ヒトは生き字引の『道筋・ガイドライン』
その『周りの衆生』は全てその『影響』を受ける
『ヒト』が狂っていない自然は
『獣』も狂ってはいない(敵意も毒もない)
自然が不自然(毒や縄張り主張)になるのは
『ヒトが狂った』からである
……と(´^p^`)本日の担当教官が
『本能』と『道を生きる』について説法(5時間なげーよ)を自動書記して下ろして来ました
で、面白いはのはやっぱりここで
学んで成長する事、それを見届ける事は
『道楽』であり『導楽』=道は楽しく、導きは楽しく
母の背中で眠って子守歌の内容の夢を見る子供や、じーじを慕う孫を可愛がるみたいなもんなんだ
『想像』した体験を『創造』する
そんな『役目(自我)』と『目役(真我)』の共同作業なんだと
『自我は体』が『真我は心』に重なって宿る
けど『器』はひとつじゃないから『意志氣』は巡る
自然と不自然……邪な混ぜ物
(´^p^`)思い当たるなぁ……
OS1という経口補水液は不純物判定
私は毎回、生協の濾過水を飲んでいる
不純物は何も無い(ミネラルとかもないかも?)
それが『最高に美味い』と感じるから
しかし昨日、水を切らしてしまったので
寝る前に『OS1という経口補水液』を飲んだ
非常に不味かった、明らかに自然ではないモノが沢山混ざっていると感じた
…そしたらこの『閃』だ(笑)
調べてみたら
経口補水液を一時に大量に飲むと、ナトリウムの過剰摂取になる可能性もありますので、腎臓、心臓等の疾患の治療中で、医師に水分の摂取について指示されている場合は、指示に従ってください。
うん、『飲み過ぎなければ』……なんてのは何にでも当てはまる『毒物蓄積』の枕詞。フッ素などの猛毒も『微量』なら…と『水道水』にも『テフロン加工』にも『歯磨き粉』にも入れられている
塵も積もれば山となる(体を蝕む)
そういった『生活習慣』で『自然に不自然な毒物が体内に蓄積される』ようになっていると考えれば、私の体はその『OS1に含まれる微量な毒物』に対して『厳しい反応』をしたんでしょうね
いいか?『自然』が『不自然』になるきっかけはな?『ヒト』が『邪な不純物を混ぜる』からなかなか治まらない化学反応が起きるんだ
『ヒトが正常』なら『自然も正常』なんだよと
『純粋』こそ『セオリー(法則)』だった
『純水』こそ『瀬織津姫』だった
純粋な心と体だから『純水』が合う、『養命酒(生薬)が美味く感じる』のは『表層』の話だが
精神領域ではそれが瀬織津姫絡みのセオリー(法則)の流れへとやたらと繋がってくる。今思えば『水の神です』と夢に出たのも、それが関係するなら、必然の流れだったんだろうな
だって『一食生活』の中で『飲み物は濾過水』しか飲まない生活をずっと続けてるからね。これも塵も積もれば『体の細胞は綺麗な水』で構築される事になる(๑•̀ㅂ•́)و✧
だから『混ぜるな』『汚すな』と同時に、それは『不自然を自然に』戻していく為の『誰かに取っての道標』だからと
導きを楽しみながら教えるマスターが
道を楽しく学ぶ私に託されましたφ(..)メモメモ
どの道を生きるにしても
気分は『道楽』でいいって事(´^p^`)ライトワークΣ(゚д゚;)
ちなみに、道楽のメインテーマである「しゅうせい」
カタカムナの言霊の意味は『示しが自然に湧き出て生まれ引き受けて伝える』
まさに、今、このどこからともなく沸いてきた示しを引き受けて、気づきを伝えている行為そのものになっていたという(´^p^`)道楽・導楽ライトワークΣ(゚д゚;)
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