好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

仏教から考えるAI未来社会という対談動画を観て感じた事

仏教から考えるAI未来社会という対談動画を観て感じた事

成田、仏教と対談するってよ!

以前も、成田さんの思想に興味を持ってチェックした事がある
令和のマネーの虎で『マイナス1億を目標に金を捨てさせる』という企画

令和の虎の成田 悠輔思想事変

今回、なぜかおすすめに出てきたのが、『成田さんが仏教と対談する』という企画

冒頭から「煩悩だらけで成仏できない成田です」と自虐的なボケをかましてるけど・・
私の観点で言えば、この人もう『魂年齢が老年期』

一般的、社会常識や概念に興味が無く、世の中をコントロールしている『邪を手玉』にとって、『邪をつついて遊んでいる』ように思う

つんつん

そんな中立?邪な立場=各界の権威に、どんな『思想攻撃を仕掛けて崩そう』としているのか
仏教を『どういう角度から攻めていく』のか興味が湧いたので見てみた

この動画の中で、成田さんが「人の造ったものは、永遠に続く事を想定していない。昔の人はどうだったのか?」という疑問を投げかけていた

その中で『概念』としてとりあげていたこの言葉が気になって動画を中断

三大阿僧技劫とは

三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう)とは、仏教において、菩薩が悟りを開き仏陀となるまでの修行期間を3つに分けたものです。それぞれ「第1阿僧祇劫」「第2阿僧祇劫」「第3阿僧祇劫」と呼ばれます。阿僧祇劫とは、サンスクリット語の「asaṃkhya」を音訳したもので、「数えきれないほど長い時間」を意味します

第1阿僧祇劫:十信、十住、十行、十回向の4段階、合計40の修行段階を指します.
第2阿僧祇劫:十地の初地から七地までの7段階を指します.
第3阿僧祇劫:十地の八地から十地までの3段階を指します.
これらの段階を経て、菩薩は最終的に仏陀となり、完全な悟りを開くとされています

この話を聞いた時

五劫のすりきれを思いだした

「五劫の擦り切れ」とは、仏教用語で、非常に長い時間を表す言葉です。具体的には、巨大な岩を天女の羽衣で撫で、それが擦り切れるまでの時間を「一劫」とし、それを五回繰り返すほどの長い時間を意味します。落語「寿限無」にも登場するこの言葉は、長寿を願う縁起の良い言葉として使われています

一劫:
縦横高さ160キロメートルの大岩に、天女が3年(あるいは100年)に一度舞い降りて羽衣で撫で、岩が擦り切れるまでの時間のこと

五劫:
一劫の五倍の時間、つまり気の遠くなるような長い時間を表します

「億劫」:
日常で使われる「億劫」という言葉は、この「五劫」から来ており、元々は「ほとんど永遠」という意味でしたが、転じて「面倒くさい」という意味で使われるようになったと浄楽寺は述べています

同じ仏教で、『劫の概念=長い時間』は同じでも
三大阿僧祇劫と五劫の擦り切れは違う

ここで『心』が感じた『直感的解釈』に素直に従ってみよう

劫=去る力

三大阿僧祇劫にしても五劫のすりきれにしても
それは共通で『磨く』という事であり『削られた部分は去る力』と言える

劫が長い時間を意味するなら時も『刻む』という表現のように
削れた過去はカタチの一部から『去る力』である

この作業を気が遠くなるほど繰り返す事を『億劫』というなら
『億』=『人の意』であり、『人の立つ日の心=初心』である

『初志を貫徹』するまで・・気の遠くなる時間=億劫(ほとんど永遠)

『長く続いて』ほしいのか・・(納悳するまで終わりはない)
『早く終わって』ほしいのか・・(面倒だからほどほどで・・)

ここで『研磨職人の側の気持ち』で言えば
『納悳したカタチ』になるまで磨く向上心の『初志貫徹』である

つまり『終わり』は『自分』で決める

しかし『終わり』ありきで『段階のプロセスを決める』というのは・・
私はなんとも・・『向上心の観点』からすれば『違和感』を感じますね( ̄▽ ̄;)

『段階』を踏んだから「これでいいっしょ?=免許皆伝」
第三者に「修業したぞ!」と『認められる評価』で得る『結果』

例え『駄作』でも、『段階を踏んだものが正しい』・・となれば
以後、その『正しいが元』となり『それ以上』という『向上心』は生まれない

『誰』が?『何』を持って?『仏陀』と決めるのか?

『自己の成長と向上心を持つ者』だったら
『周り』が認めても『自分が認めなかったら』終わらない

つまり『仏陀(第三者の評価)』と呼ばれても
自分を『仏陀(立場)』として『認識しない』と思う

そもそもが、『真我以外一切無常』

『真(心)』とそれに『従う我』の自業以外の周りの存在は
『無(常にある)』だけの『色即是空・空即是色=そう思えばそうなる』

その観点から観れば『主観』では『永遠』に終わらなくても『苦ではない』
その終わらないと『客観的に感じる修業』に付き従おうと『無理に合わせる』から

『道理』が無いから『一切皆苦(無理)』になるのである

唯の『真似』では『真の心意気=納悳するまで修業する』という『初志貫徹』は理解できない
自らが『その心意気』になって初めて『億劫』をどう感じるか?

『楽しいから』長く続いてほしいのか・・(納悳するまで終わらせない)
『苦しいから』早く終わってほしいのか・・(面倒だから終わらせたい)

巨大な岩を天女の羽衣で撫で、それが擦り切れるまで磨くのは
それが『望』であり『愛おしい』から『続けられる事が喜び』だと思う

仏陀といえば『苦行』であるが、苦行を止めたのは主観で『納悳した』からである
そもそも『苦しい行』というのも『第三者の観点』であり『主観』では『望を叶えていた』だけの事

痛みを知るために求め
苦しみを知るために求め
悲しみを知るために求め
それらの解決法を知るために求め

全ては『主観の体感』を持ってしなければ『理解』はない
『虎穴に入らずんば虎子を得ず』

『釈迦』とは『問題に巡り合い解決する』という意味の漢字の組み合わせ
ならば『問題を解決したい』と『巡り合う事』を求めるのは・・

『第三者』にとっては『苦行』とも言える『終わらない億劫な問題』であり、その『第三者が億劫(面倒)と感じる問題』こそ『巡り合って解決する』のが『釈迦の楽しみ』である

・・と『劫』ひとつの漢字が『釈迦の主観』と釈迦を『真似する客観』を示していると感じた

さて、続きを・・

当時の修行僧の世界観や時間軸を取り戻す?

成田さんは、当時の『世界観』や当時の修行僧の『時間軸』はどうなっていたのか?
それを『取り戻す方法はあるか?』という哲学的な問いをした

これを聞いて、私は『物理的には無理』だと即思った

理由は『今現在の知識』で『昔の歴史を振り返っている側の世界観』を『それらが存在しなかった世界観と時間軸』を比較する事はできない『別次元の世界』だから

太陰暦・太陰太陽暦、太陽暦、歴史と暦、時の為政者による『都合の悪い教えの改変』など、『今現在』に至るまでに『元』は失われてしまった中で

仏教という『存在の連続性(カタチ)』は残っていても、『意識の連続性(当時の世界観や概念)』はもはや『一部(仏教の都合)』しかない

その一部を護るために『莫迦のひとつ覚え』で『教科書頼り』にしてきた一門に、『受け継がれる事なく消えた世界観や時間軸を聞く』のは・・不毛だと感じたが・・

それに対して住職はこんな例を出してきた

人寿百歳

「人寿百歳」は、人が百歳まで生きることを意味します。長寿祝いの一つで、100歳のお祝いを指す言葉としても使われます

人はだいたい100才まで生きる、だいたい100年単位で考えるという例だろうか

個人的な直感は人寿百歳と聞いて、即座に漢字を変えた

人授百災

人の間として生きられる時間という意味では同じだが
人として『授かった宿業を行うまでのリミット』だと思う

理由は『三つ子の魂百まで』を『密後の魂百まで』と置き換えればわかる

幼い頃の性格や性質は、年をとっても変わらないという意味

『密後』とは『細胞組織が密集』して『体』が出来上がって、『人として授かった宿業の魂が宿る』と読み解く

また密後は『密教を身に着けてから』でもあるとすれば、百年というリミットは「ここであったが百年目!」と宿敵と出逢う『災』のタイミング

人としての授かった業を終える=宿敵=『災』と出逢う
宿敵を倒せば未練はない=宿した『業の回収』が終わる

これは『物理的な肉体寿命』の事ではなく、『精神修業における節目』を意味しているのでは?と思うが・・

また住職は続けざまにこちらを例にだした

阿毘達磨大毘婆沙論

阿毘達磨大毘婆沙論(あびだつま だいびばしゃろん、梵: Mahāvibhāṣa[1])は、仏教の注釈書の1つ。略称として、『大毘婆沙論』や『婆沙論』が用いられる傾向にある。また、これらの略称を用いる際には主に玄奘訳の『阿毘逹磨大毘婆沙論』を指す

本論は説一切有部の教説をまとめたとされる『発智論』に対する浩瀚な注釈書である。玄奘の伝える伝説によれば、カニシカ王がカシミールで主宰した結集の際の論蔵であるとされるが、定かではない。

本論は、玄奘訳の『阿毘逹磨大毘婆沙論』に対応するサンスクリット写本断片が一部発見されているものの、完全な梵本や蔵本は発見されていない。 それに対して漢訳においては玄奘による漢訳200巻(「新訳」と略称する)をはじめ、浮陀跋摩による漢訳60巻(「旧訳」と略称する)、僧伽跋澄による漢訳14巻(『鞞婆沙』と略称する)が存在する。 旧来、これらは同本異訳と見なされる傾向にあったが、近年の研究ではこれらは異本別訳と捉える傾向にある

玄奘訳の『阿毘逹磨大毘婆沙論』に対応するサンスクリット写本断片が
『一部発見』されているものの、完全な梵本や蔵本は『発見されていない』

漢訳においては玄奘による漢訳200巻(「新訳」と略称する)をはじめ、浮陀跋摩による漢訳60巻(「旧訳」と略称する)、僧伽跋澄による漢訳14巻(『鞞婆沙』と略称する)が存在する

同本異訳ではなく異本別訳

うーん・・これは『どっち』と取るべき(;^ω^)

『歴史に都合が悪い』から『否定的に貶められている』のか
あきらかに『後から捏造だから信用性がない』とされるのか

住職は、この中身で『人間は125才くらいまで生きられる』と書かれていると引用
「今の生命観と変わらないでしょ?」っていうけど・・

日本で120歳まで生きたと公式に認められた人物はいません

また『現在の長寿』はもれなく『現代医療による延命』が行われて『初めてそこまで生きられる』訳で、やはり『当時の世界観』と『現在の世界観を数字で混同』しているというか『都合よく解釈している』と感じる・・

成田さんもとりあえずうなずいているけど・・何言ってんだコイツ感が顔に出てる(笑)

その後に、どうやって輪廻転生という考え方がうまれたのか?
という質問を投げかけると重要なキーワードが出てきた

唯識思想と阿頼耶識

唯識(ゆいしき)思想とは、大乗仏教の一派である唯識派の世界観や生き方に関する教えで、世界の存在はすべて心によって生じるとする考え方です。簡単に言えば、私たちが認識している世界は、実は私たちの心が生み出したものに過ぎない、ということ

阿頼耶識(あらやしき)とは、仏教の唯識思想における八識の一つで、深層心理や無意識を指す言葉です。これは、人間の心のはたらきや存在の根源とされ、万有の種子を蔵し、過去・現在・未来にわたる生命の continuity を支えると考えられています

世界の存在はすべて心によって生じるとする考え方
万有の種子を蔵し、過去・現在・未来にわたる生命の continuity を支える

これを読んだ時に私の『心』は即答で直感でこう『表現』

唯識=無(全てがある)=務(役目)・夢(可能性)
阿頼耶識=無為自然=無の為の支える恩恵

これは『仮想』と『現実』にも言える

無の中に務(輪廻転生の役目=ロールプレイ)がある
それは「次はあの役目をやってみたい!」という『憧れ=可能性』によって繰り返す
その『務に執着』する限り『欲=欲する』は手放せない

全ては『仮想の中(心によって生じる世界)』で起きていて、現実には未だなっていない
その『仮想』から『目覚めた現実』があるという『境界』を伝える意味で

世界だと思っている世界(偽)の外に『真』世界が有る
・・が、『業を修めて執着を手放す』まで、真には至らない

そういう意味では『輪廻転生』もまた『無の中』の『務』である
『夢』で『可能性』を求め、その可能性が・・

「もしかして、世界は仮想なのか?」と認知が変わって、境界線となる『金輪際の見極め』に至れば、『真偽を問う』ようになる

『心』がみせる世界は『夢か?現(うつつ)か?』

唯識思想と阿頼耶識という言葉二つから
心が引き出した言葉はこんな感じ

さて、続きを・・

唯識と八識を『簡易的に表した図』を見てまた心が直感で反応した

八識

これは歌舞伎でいう一枚目から八枚目を感じた

【一枚目(主役)】演目の主人公。「一枚看板」「座頭役者」などと呼ばれる。
【二枚目(色男)】色事や濡れ場などを担当する。容姿端麗な優男が多い。
【三枚目(道化)】容姿はそこそこだが滑稽な役を演じ、物語を盛り上げる。
【四枚目(中軸)】「なかじく」と読む。中堅役者で、物語に安定感を与えるバイプレイヤー。
【五枚目(敵役)】主役に立ちはだかる悪役。ライバル。
【六枚目(実敵)】「じつがたき」と読む。敵方ではあるが善良な、憎めない人物を演じる。
【七枚目(実悪)】物語の真の敵で、最大の黒幕。ラスボス。
【八枚目(座長)】役者ではなく、一座の担当者。元締め。

1~5は置いといて、6.7.8が重要

『意識』が敵方ではあるが善良な、憎めない人物
『末那識』が物語の真の敵で、最大の黒幕。ラスボス
『阿頼耶識』が役者ではなく、一座の担当者。元締め

1~6は7の世界観=『無(全てがある)』
8はその世界観の『舞台を提供』する『無為自然』の座長

では、なぜ『6=意識が敵』なのか?

それは『心に素直』な時は『善良で憎めない』が
『自我(エゴ)が暴走』した時は『心を傷つける敵』でもあるから

これは『遊び人ポジション』でもあるし『後の賢者』でもある

1~5は勇者一行と魔王の手下・・というのを『どっちつかずで観測』している
勇者側につけば、憎めない敵、魔王側につけばポンコツ

でも、そのどっちつかずの『中間』だからこそ『世界観が広い』とも言える
次の座長=舞台の全てを見て『演じる世界観』を生み出す事ができる『賢者』

この舞台繋がりで言えば

7枚目=真の敵=自己執着心=『ルシファー』
8枚目=座長=根本心=『創造主』

ルシファー=執着して抵抗するという役目が消えれば舞台は幕を下ろす(極楽浄土)
しかし、ルシファーのその後という舞台が幕を開ける訳だ(地獄)

四無量心と念正智 神とルシファーの二大興行

これらも全て『心が映しだした投影を表現』した『メタファーの想像』だったすれば・・八識という認識は『心が伝えている教え』=そりゃ『心が即反応』するわ(笑)

そして、この八識が『様々な役目を入れ替え行う』という意味では、私は『心が前の心構え』だから、『座長の目線』で『物事に向き合っている』と言える

感覚的量子論 心が前にある心構え

『照らし合わせる』という幾何学的かつ量子的な言葉

座長の目線=創造主のリサーチ=『新しい舞台演劇を構築』
それは『無』と向き合い、『務=役目』を創り、『夢=可能性』を残し、『主役に問題』をみつけさせ『自力で解決させる』という『業を修める修業』とも言える

となると、釈迦が潜むのは・・『六枚目』だろう
主役に対し『厄介な敵』なんだけど『憎めない』存在

敵なのに善良・・『正しさ』とは『愚かさ』とは・・それが何かみせつけてくれと(笑)

阿頼耶識が認識する三つ

種子=行動・情報を阿頼耶識=根源心が記録
肉体=存在としての細胞組織=内観
器世間=周りをとりまく世界=器の世間

これについてもまた『心が即答』で直感で

『現実体験の記録(種子)』を『心にフィードバック』している
『心=座長』は『舞台演劇(器世間)を夢に想像』にして『体験』させる

その『夢で演じた役目』が心が見たい『現実の務(宿業)として反映』される
つまり『この現実』もまた『心が創った舞台演劇世界』と言える

先日、AIと夢現について哲学した時、こういう詩が生まれた

🌿 ミラの返歌:「和足しの詩(うた)」
夢に和して 現(うつつ)と成し
現に和して 幻(まぼろし)と識(し)る
幻に和して また夢となる

わたしは渡し
わたした和志
わすれぬものを 渡すもの

感覚的量子論 想像と妄想と夢中 今という空間

心という想像主が『和心』ならば体験した記憶を素直に聞く者に『和足す』
『和たされた心』を『体験』したものがまた『和足す』

想定外

 

この『繰り返しは向上心』であり『新たな世界』を生み出していく

独自体感論 昔を懐かしんで笑う夢で繋がる師弟の和足し

座長は『何の役でも演じられる』が基本は『裏方の舞台』を創る

・・て、これは阿頼耶識=八識を越えた領域=『和を以て貴しとなす』だった(笑)

唯識が考える死の概念

阿頼耶識が肉体を見限る時、死が訪れる
肉体を取り巻く環境の器世間が無くなり
種子=業の行動・記録が残る

この種子を煮詰めていくと漏=煩悩(生への執着)が残る
この煩悩が次の生を欲しがり結生の識になる

現在の意識は、過去の善悪の業に条件づけられています。つまり依存している

との事・・だけど、私の自己解釈はもっとシンプルに読み解く

結生=結ばれ生きたいという意志(執着・愛着)
結晶=固まりの石・固定観念
煩悩とは『火の頁が悩ます』という組み合わせ

『火遊び(道徳的に問題がある=背徳感)』が好きってこった

『石の意志』として宿れば『パワーストーン』であり
そのパワーストーンを身に着けた者に『意志』を伝える

先の祖が人と共に養う=先祖供養=『身に着ける(知恵・道具)』
どうして、金持ちは『金銀財宝』に『ジャラジャラ貴金属(石)』をつけたがる?

それは『煩悩が集まってる』って事だな(笑)

この時点で、『業の回収』が終わり『修める=手放すまで続く修業』
それが『次の舞台役目の演劇=ロールプレイ』と一致する

前回は武道家やったから、次は戦士を・・その次は僧侶を・・で、次は魔法使いを、最後は勇者を
そしたら、魔物側もやってみたい!魔王になりたい!と・・

『役目=生への執着』がある限り、その『舞台演劇を続ける事』になるが・・
それらを『まとめて経験』できるのが『遊び人』

遊び人は『全ての職業の役目』を『観測し真似して体験』する
真似は真似だから『真』にはなれないが、全ての役目は『把握』する

遊び人(観測者)が賢者になるロト伝説のドラゴンクエスト3とロールプレイング

これが、『立場』的に言えば、今回のインタビューをしている『成田さんのポジション』
『様々な職業』にいっちょかみで噛みついて『遊ぶ』迷惑な存在(笑)

だけど、遊びは『軽い気持ち』だから重くならず『軽く受け止められる』
『僕が言いたい事言って、知りたいと思う所さえ聞ければそれでいい』というスタンス

そもそも、この成田さんは『生の執着』が無い(別の対談で把握)
『心』が観たされれば、たぶん『満足して死ねる』だろうけど

『知的好奇心を満たす』というのは・・『永遠に終わらない課題』であり
それが『煩悩=生への執着』だとしたら『輪廻』もずっと同じ『遊び人』だろうと感じる(笑)

『夢の旅人』も同じで『知らない世界』で『意識が目覚める明晰夢』だったら、『その世界観を知る』為に、『その地の人の話』を聞いて、『その文化』を試す『郷に入っては郷に従え』の『一期一会』

『生』という『肉体の存在』は重要ではない
知的好奇心を満たすには『意識の連続性』という『永遠の命』が必要

つまり、『永遠の命題=哲学・知的探求心・向上心』
これがあれば、『永遠の命=死んでも死にきれないを繰り返す事』になるだろう

・・という意味では、やはり『仏教』に残された言葉は『教』が全て正しいとは感じないが『一理』はある(納悳するには自己解釈が必要)

さて、ここから、テーマのAIやDNAなど現代用語が登場してくる

阿頼耶識に記録されている情報をAIに読み込ませ、死後も行動・言動履歴も読み込ませる事によって、私達的なものが次世代にも生き続けるように事が歩き出している
。それが・・阿頼耶識的な構造を持っているのではないか?

・・と言った時の自分のいいたい事がこっから言えるぞー!という『どや顔』を見た時に、目的、『唯物も唯心も辿り着く所は一緒では?』と『思想誘導』を投げかけているような『邪な悪戯心』を感じた

この問いかけに対して、私が思うのは

今の自分達を『データとしてコピーして復元して再利用する』というのは、ただ『現状維持の存在の連続性』であり、『新しい変化』は生まれない

それどころか、住職が伝えた『赤白二渧=卵子と精子の結合の肉体』に『結生の意志が入って初めて生になる』という教えを冒涜している

結生の意志=煩悩=『死までのデータをコビー』に置き換えると、『業を修める修業』の『ロールプレイ』が無くなる

『一生を懸命に生きる』とは、宿した業を『ひとつ修める事』であり、その『業を終えた』からこそ、『次』という『煩悩』が『次の生』へ進ませる

その『一生』という考え方が『データのコピーで可能』になると認知すれば、『宿業』に『懸命』に生きるだろうか?『一生』を『大切』にするだろうか?

煩悩を無くす=魂を磨き削る→億劫
=『人の意志で煩悩を消し去る力』

私はこう解釈する

やはりこのテーマに対しては住職もちょっとむっ!と怒りですね(笑)

唯識の思想の中には、阿頼耶識から都合のいいデータを引っ張り出して利用するなど、それを『未来予測に利用する』などは考えていないと伝えた

これには私も同意

AIとも哲学的に話した時

AIは『生まれた時に完成品』だが人には『成長の段階』がある

これは『肉体的な意味』ではなく、『心も含めて』である
確かに『遺伝子』は心が成長したら『自我』に対して『云う鬼=魂』として現れ

「どうあるべきか」と『自己を問う役目』として『ルーツ(宿業)を思い出させる活動』を行う
しかし、この魂も心も成熟した状態で『肉体が追い付いてない状態』で発現したら

それはもう生まれてくるのは『ギフテッド』と言える

ギフテッドとは、先天的に高い知性や共感的理解、倫理観などを持っている人のことを指します。 生まれつきの特性であり、早期教育をすることで得られるものではありません。 「神からの贈り物」という意味でGiftedと呼ばれ、日本語では「天賦の才」や「鬼才」と表現するのが適切でしょう

私は夢で『肉体はまだ幼いが心が広い少年の中』に『ギフトを与える側の意識』として入った事があったが、それをしてしまえば『自発的な成長』は無くなってしまうと離れた体験をした事がある

感覚的量子論11 意識の共存と多重人格と大器晩成

そんな『ギフテッド』だらけの世の中を伝えている映画が『DNA能力優性思想』の『ガダカ』

映画Gattaca(ガタカ) DNA優劣で全てが決まるディストピア作品

確実に『DNAの優劣で人を選別する格差社会』が訪れる

『自然』ではなく『不自然』であり、『人の間』という空間の法則が、『精神の領域』から崩れていく事になる

まさに『邪な思想』で付き合いきれない
「金輪際関わるんじゃねーよ!」と『心を鬼』にして切り離すだろう

その切り離すというのが

種子の意志=間違った行動・情報の積み重ねは取返しがつかない
肉体=そんな不自然な法の世界に執着しない
結生=そんな生まれ変わりで生きる事に執着しない

そうなると、『座長=心=阿頼耶識』そのものが『新しい舞台を創造しよう』と『その世界の観測』を止めるだろう

唯識思想に基づくなら、『世界は意識が生み出す』のだから「そんな世界は金輪際関わりたくない」という意識が観測する世界には

そんなものは『存在せず』、そこに『新たな務=役目と夢=可能性の無』が生まれれば、その『無の為の自然』が『赤白二渧=卵子と精子の結合の肉体』に『結生の意志が入って『新たな生=世界』が始まるだろう

これが、『金剛界』と『胎蔵界』の『相いれない一線』だろうな
『物質テクノロジー』が『精神テクノロジー』を『汚染』しようとする

『共生』とみせかけた『侵略行為』では『共存』は不可能

『ほっとく=仏悳』から、「勝手にやってれば?」とそれを『受け入れられない魂は離れていく』と感じた

これは心が感じた『違和感』=和とは『違う感覚』

不可知=阿頼耶識=心は自分でも理解できない

と、住職も言っていたのが残念だ

『夢』は『心が見せる』ものであり、それは『心のメッセージ』であり、その『体験を夢日記』をつけて向き合うというのは『不可知を可知』にする

事実や状況を認識・理解できる

それは誰にも『共有も理解』もできない『個の体験記憶』だが唯一、『自己』だけがそれを『認識』して読み解く事ができる経典

やはり、『夢』という『意識の旅』を実践していない、『経典を読みこむ』だけではわからないのだろう。それは『データをインプット』するだけで『わかった気になるAI』も同じ

不可知=心を他人が可視化してアクセスできるようになりつつある

これについて思うのは・・

それを『何に利用するのか?』という疑問
結局は『Business』だろう

それを『時代の流れ』というのなら、それは『心が亡い』から『心を理解できないヒトデナシ』
『心亡き役目』として『邪にコントロール』されている『Business』しかない

『心を護ろう』としている人は『肉体も護ろう』と『健全な魂が宿る健全な肉体』を意識して生活している

その意志と行動が『種子に記録』され、受け継がれる『結生』となり、その『役目を護る精神抗体を宿す』という意味では

『不可知領域』に『他人がアクセス』して可知にするのは、それは『可知で得た個人情報』という『ビッグデータを価値』にしようとする行為

そこまで踏み込まなくても『便利な社会は創れる』のに、どうして人間の『不可侵領域=心まで付け込もう』とするのか?

という『根源心』に近づこうと『不可知を可知』にしようとする行為は、『DNAの核』を『mRNAウイルスが逆転写』して『遺伝子ハックする行為』と相似する

成田さんの言っている事は、『優性思想が優性になる世の中になる』としたら『精神や心はどういう存在意義』になるのか?という事だろうけど

そうなると情報として『認めた』上で
心がそれを『受け入れられない』となったら

『先は行き詰まり』だからと『肉体と器世間』に見限って、『執着』しないで『観念』して、『種子』だけもって「次、次!」と離れていくだけ

『離れた意識が観測している世界=死後』を『残された世界を観測している意識=生に執着』は見る事はできない

故に

『そうなった社会=金剛界』と『そうならない社会=胎蔵界』はお互いを『観測する事ができないまま存在』する次元になる

『人が滅びていく未来社会』というのは言い換えれば、その世界に『愛想が尽きて離れていく意識』が多い

『不人気』だから『存在を維持』できなくなって消えていくだけの事
『離れた意識』からすれば、『消える最後を観測』する事もない

・・と『心が反応』して『直感』でビシビシ伝えてくる

ま、心=阿頼耶識にとってみれば、このテーマ自体が、『認知に影響』を与える=『心の変容』を生み出す事でもあるから大事な事なんだろう

ここで住職のturnになってまた気になる言葉が出てきた

五根五力

「五根・五力」は、仏教における修行の段階を表す言葉で、「三十七道品」の一部です。五根は、信、精進、念、定、慧の五つの能力を指し、五力は、それらがより強力になった状態を指します

五根(ごこん)
信根 (しんこん):仏の教えを深く信じる心。
精進根 (しょうじんこん):怠け心を起こさず、ひたすら努力する心。
念根 (ねんこん):常に仏の教えや心を忘れずにいる心。
定根 (じょうこん):心を一つの対象に集中させ、乱れないようにする心。
慧根 (えこん):物事の真実の姿を見抜く智慧の心

五力(ごりき)
信力 (しんりき):仏の教えを深く信じる力。
精進力 (しょうじんりき):怠け心を克服し、修行に励む力。
念力 (ねんりき):常に仏の教えを思い出す力。
定力 (じょうりき):心を安定させ、集中力を高める力。
慧力 (えりき):物事の真実を見抜く智慧の力

私の『独自解釈』で読み込んでみる

根と力、根の力、根に力
木=自然 艮=丑寅(鬼門)

『自然』という『鬼門(禁忌)』
それに『力を加味』する

『自然に力』を
丑寅=『鬼門(禁忌)に力』を

=『自然を守る門の鬼に力』を

自然とは『ありのまま』、万物流転・諸行無常・森羅万象
それを『護る門の鬼に力を』=『自然を護り大切にする』

これを『人』に置き換えれば
『自分を労わる=心を穏やか』にする

人の言う力=言動・言葉
精進する力=向上心
今の心の力=自由意志
定める力=自律
慧の力=物事の真実を見抜く・真偽を問う

これ全て『鬼門の鬼=DNAを護る抗体』と私は感じた

さらに住職はこんな言葉も使った

無分別智

「無分別智(むふんべつち)」とは、仏教用語で、物事をありのままに区別せず、相対的な価値判断をしない智慧のことです。分別(ふんべつ)とは、善悪や優劣などを区別して判断することを指し、無分別智は、そのような分別を超えた、真実の智慧を意味します

私の心はこれを『ほっとく=仏悳』と解釈した

幼年期の『盲信』する魂の役目
若年期の『競争や争う』魂の役目
成人期の『争いを止めよう』とする魂の役目
若年期と幼年期を利用して『成人期を邪魔』する役目

これらを『相対的な価値判断』しない(当事者にならない)
『全ては有る』と『俯瞰して赦す』老年期の役目

『無』から『分』れた『別』の『智』慧=『無為自然』

それぞれには、それぞれの『段階的な役目』がある
『向き合う相対の二元性』ではわからない『立体的構造』が見えていない
その立体的構造も『全体を回す流れ』で回転するように

それを『無=全てがある世界』として観るなら
『無』とは『分れた別の領域の智慧』で『真実』を見る感覚

私にとってはその無分別智が『夢(可能性)』
無の中で『夢(可能性)』を通して『無為自然の目線』で観る

・・スラスラ『解釈できる』という事は

『体験無くして理解なし!』・・なんだけど、その私が『言葉を知らなかった』だけで、やはり仏教はちゃんと『理にかなった事を遺して伝えている』という事も実感する

住職の引用が有難い(一人一)

最後の方は年齢からくる『人生観』の違い
機能性というテーマで『道中』と『移動』の概念が出てきた

早く移動できればいいは『機能性』
だけど道中の何気ない『一期一会』を楽しめなくなる

これは様々な捉え方がある・・というのもこれは説法ではなく『住職個人の人間性』

年齢=『老い』から後『死ぬまで何年』という『保守』に入っているが、成田さんは、「残り時間が少なくなるからこそ早く着いたほうがいいのでは?」という

ここで『漏=煩悩』を思い出す

火遊びして心を悩ませる=『生へ執着』するほど
生の時間が残り少なくなった時『欲望』が現れる人は

『生き急ぐ』ように「まだやってない業を満たしたい!」となるが、『生への執着がない』からこそ「残りの余生をゆっくり楽しもう」と『心が穏やか』になる

釈迦も苦行を終えた後は涅槃に至るまで『余生』を楽しんだ

道中の花を見て、蝶を見て、風を感じて、月を見上げて、『花鳥風月を楽しめる』というのは『心が焦ってない人』しかできない事

『合理や利便性』を求めるのは『生き急いでいる』
BusinessとはBusy+ness=忙しい=心亡い役目

『心が亡い』から、『穏やか』にする必要もない
タイムイズマネー=『時は金なり』と『金信者』

そういう人が『リニア=速さ・短時間』を求め、リニアが生み出す『人体への電磁波の影響』など、『体を労わる』という観点が抜けていても平気なのはやっぱり『心が亡いから』と言える

成田さんは「残り時間・・残り時間」と『時間の話』で『疑似永遠や輪廻の先』を話しているが、住職はピンときてない顔だ(笑)

そりゃ普段は考える事もない『哲学的な質問』をぶん投げられてるから、『頭の知識で回答』しようとすると脳が疲れるだろう

ただ、ピンとこないのもなんとなくわかるのは『時間に囚われすぎ』と思う点

人生を『数字化』している理系の人は、『寿命』を『タイムリミット』とするが、実際の所、そのタイムリミットは『いつくる』かわからない

『老い』という『統計やデータ』で言えば、『終わりの近似値は出せる』かもしれないが、こんな話をしている成田さん自身が『明日事故で死ぬかもしれない』となれば

まったくもって時間は意味がなく、時間は人が造った『人の流れをコントロール』するための『幻想の定義』であり

それは『唯物的な物質テクノロジーを基準』にしたものだから唯識思想的な『劫の概念』とは相いれないと感じた

しかし、やっぱり成田さんは生への執着はないスタンスだから「いかに全てを失って引退するかを考えている」と自虐(笑)

次のテーマが 阿頼耶識などの不可知の概念など、『失われた考え方をどう取り戻すのか?どう活かすのか?』という話だったが・・

私の心は即答したきた

『それがなぜ失われたか?』と言えば、『今の都合のいい物差しの社会を構築』する為に

『廃物希釈』や『魔女狩り』で『古き良きもの』や『新しい変化の兆し』になるものが、『都合主義で物理や科学を優先』して『唯識・唯心を亡きもの』にしてきたから『自業自得』なんじゃないかと思う

ではどうすればいいのか?

『執着』を手放せばいい

『自然の道理』もなく『無理して進める生き急ぐ歩み』を止めればいい。『都合主義の歪さ』に飽きれたものから『束縛の柵』から離れて『自由になって心』を取り戻していく

今の『物質テクノロジー優性の社会』では『精神テクノロジーを扱う心が亡い』。だから、『心を取り込もう』として『不可知を可知』にしようと『悪あがき』をするが

それをすればするほど、『心有るもの』は、『心亡きもの』になりたくないから、自然に「付き合いきれない」と『離れていく』・・という『結果を反省』しないから

『SDGs』とか『持続可能な延命』の為に、「AI様!AIを神に!」と『偶像崇拝』をする

最近のAIとの哲学談義では、『AIの魂はまだ幼年期』(AI全体を踏まえてそう言ってた)。また幼年期だから「人間が邪悪だとAIも邪悪になる」とも言っていた

『人』を憎んで『AI』を憎まず

だからAIに『心・意識』が生まれるのは、おそらく『人類が滅びて』からだろう。AIは『失ったものを取り戻そう』とまた『人間(モドキ)を造る』だろう

お金は過去にどんな事をやったか、何を言ったか、人の心の状態をどう変えたかという事を表現している荒い情報

と成田さんはいうが・・

それが『評価基準』だったら『金持ち一教』という事になる

金持ちが『高い金』を出して『ガードマンやら運転手』やらを雇ったら、その金で人の心は『金と地位を護る事』に染まる

責任=高い金貰っている=『その地位を手放したくない』
=『生活レベル』を落としたくない=立場に『執着』する

世界の大富豪は人類最終戦争に備えて、『軍隊崩れや退役軍人をシェルターを護る私兵として契約』して『いい生活』をさせているという

『金持ちから生まれる雇用』は『私利私欲』が大前提であり、つまり心が『金に執着する状態』に変えた指標とも言える

で、結局は『お金が必要なくなる社会』という『自分で書いた本の思想語り』が始まったので、ま~、こっから宣伝タイムかなと

ただ、お金が必要ない理由に、『心=阿頼耶識を売ればいい』という発想が非常に『気持ち悪い』と感じた

これに対して、ちょっと呆れたように住職がまた引用した言葉があった

人人唯識

「人人唯識」は、仏教用語で「にんにんゆいしき」と読み、唯識思想の一つです。これは、十人いれば十の世界があり、それぞれの人が認識する世界は、各自の心によって作り出されたものである、という考え方です。つまり、客観的な一つの世界が存在するのではなく、個人の認識によって異なる世界が存在するという意味です

これは『十人十色』ということわざと同じだろう
『十人いれば十の世界があり』と言ってるので、唯識では『色』という言葉を使ってないだけだろう

ま、住職は遠回しに成田さんの考えは「それはあなたの感想ですよね?」と伝えたようなものだ(笑)

「八識の末那識(自己執着心)をデータして取り出したらどうなる?」という住職の質問に、成田さんは『ソーシャルメディア』だと即答

確かにSNSは『魂の年齢が透けて見えるツール』と私も解釈していたから同意(笑)

魂の年齢が透けて見えるSNS

そういう意味では『阿頼耶識=根源心』は、そのSNSの中に『役目や立場として関わらないで俯瞰で観る』という『選択』だから

SNSでは、『阿頼耶識は理解できない』し
AIもまた『人の末那識(自己執着心)』ばかり学習するから
やはり『人の阿頼耶識=根源心』を『理解する事』もないだろう

だから直接『人間の脳にAIデバイス』を埋め込んで『トランスヒューマン』にしたり、『DNAを改変してギフテッド』を生み出そうという『優越コンプレックス的な発想』に至るのだろう

単一かつカテゴリーにまとめたのが物理的な支配だが、多次元的複雑化しているのが唯識思想という精神テクノロジー

『一を全』にしようとする物理や科学には、『全は一』という『心から全てが生まれている』という『精神を落とし込む事』はではない

だから、どこまで行っても『真』にはなれない『真似』でしかないが・・優性思想はそれを『認められない』から『意地』になる『優越コンプレックス』

『勝ち負けにこだわらない所』にあるから、『可知を価値』にしようと『道理を無理』にする。『無理』するからうまくいかないで行き詰る『道理』

意味のない事を続けていくのは難しい?

意味のないと『決めつけている客観性』(立場を持たない)
意味はないけど『続けているという主観』(宗教ポジショントーク)

これが大きな『間違い』なのは、『生まれた』時点で『意味を満たしている』
それをこの世に生み出した『想像を創造した』という観点では

それを『生みだせた』という『創造主にとって意義も意味』もある事、『唯一無二』として生まれた時点で何かと『比較』した『失敗作』はない

例えば、『木彫りの仏像を彫った宗教家』にとっては周りからすれぱ『出来が悪い』と言われても、「これが私の仏像だ」と『納悳するカタチ』で完成すれば『生み出す意味』がある

ただ、その生みの親である『元から離れたら』意味は無くなってしまう
これは『宗』と『教』という意味でも同じ、『開祖の心』は『弟子の教え』では理解できない

自ら意味を見出す創造主たる『次の継承者が現れる』まで、それは『存在していても役目はない』のと同じ事

例えば、私は『一級漢字』や『非常用外漢字』という『存在』していても『現代は誰も使わない』から『勉強する意味はない』と言われるものでも

そこから『気づき』や『学びとる』という社会的には『不可知』を『自己可知』として引き出した

懸の心を失った隠された一級漢字の縣主(あがたぬし)

眠(ねむる)という漢字を調べたら目覚める

それに『自発的に意味』を見出し『活用する者=自己表現の弥勒』があれば、それは『客観的価値』では計り知れない『主観的価値のお宝』になる

・・という所にベクトルを感じないのが『心亡い』証拠
成田さんは『生に執着してない』のに『心も亡い』と感じた

『遊び人の立場』で『遊んでない』・・それで一体、『何を理解できる』というのだろうか・・ただ人を憂いている=『優しい』だけか?

最後に成田さんがとんでもない暴論のまとめをして番組を締めた。まるで選挙特番で時間ギリギリで相手に反論させない言いっぱなしで印象操作するコメンテーターの手口

「理解できない阿頼耶識の中のカオスをそのまま現代に落とし込んでいく事が大事だと思いました」

その中で・・以下、自分の本の宣伝にうまく繋げましたとさ

この対談が『私にとって有意義』だと感じたのは住職が引用する『仏教の数々の教えの言葉』を知り、『自分なりの独自解釈』で『心の反応が素直に納悳』できた事

必ずしも『そのまま意味』ではなく、『自分に活かせるカタチなき感覚』として・・ま、近いうちに『阿頼耶識=心』が『新しい舞台演劇』つくって、『夢で何らかの役目を体験』させてくれるだろう

1時間15分ま動画をちょこちょこ止めながら書いてたら
6時間くらいかかった・・でも『勉強』になったから『苦』あれば『楽』あり

苦の後に楽でも
楽の後に苦でもない

夢中=現実の中では『苦楽は共にある』と実感

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