またシンクロニシティのように勉強になる動画からインスピレーションの閃きを得た!四無量心と念正智を独自解釈したら、「なぜ神がルシファーを追放したか?」を舞台演出で理解するお話
四無量心と念正智
四無量心
四無量心(しむりょうしん)とは、仏教において、慈(じ)・悲(ひ)・喜(き)・捨(しゃ)の四つの心を指します。これらは、あらゆる生き物に対して無制限に広げるべき心のあり方とされ、仏や菩薩の境地として尊重されます
念正智
念正智何か行動する前に、 何か言葉にする前に、 それをしたいと思う心の働きは何かと考える
一瞬たりとも、真理の考え方や行動から離れないようにする
こういう意味として認知されているらしい・・そのまま飲み込むのは難しいと感じるかもしれないが、感じる漢字のままに『心に素直』に解釈すればもっと簡単である
四つの無を量る心
私は『無』とは『全ての可能性が有る空間』
そう思えばそうなる=色即是空、空即是色
この無が『四つ』とした時、この画像を思いだした
善と信じた世界の業を修める空間
悪と信じた世界の業を修める空間
中立として二元性の世界を見極める業を修める空間
邪として二元性をコントロールする業を修める空間
これらを『量る心』=日一里=日の一里
『量子的可能性』を映し出す『心が生み出す世界』を観る
心と同じ観測目線で『心の揺らぎ』を感じる
それが『四無量心』
この心の揺らぎというのが夢である
『無我夢中』という言葉がある
『無の中の我は夢の中』と書き、逆から読めば
『中の夢に我は無い』
私は明晰夢では『自意識』はあっても、それが『現実の自分(我)』という『体』を気にする事なく
『意志』で動いている『主観』として『その世界の役割』を担い目的を遂行する
その『達成感』を持って夢から覚め、夢日記を書く時
『無の中に我(自我)は無かった』があれは『ひとつの現実』だった
量=日一里の心
『その日』は『一つの里の心』の体験だった
という事は、『この現実』もまた何か『為すべき役目(業)』がある『夢の中』
『無=全てがある=夢の中=仮想』なのではないか?と考える事がある
しかし、この現実世界で
善と信じた世界の業も求めず
悪と信じた世界の業をも求めず
中立として二元性の世界を見極める業も求めず
邪として二元性をコントロールする業も求めない
『業=力を発揮する』という『立場』を求めないから
『存在の意味』がなく浮いて世を離れていく『浮世離れ』が起きる
そうなると『意識』はまた『夢の中の観測』を始める
『無』にはない『無の為』にある『未知の夢』
無は『四無量心』で完成している仮想空間
いうなれば役目役割が循環している『出口のない四次元の籠』
今まで『魂の年齢』で例えてきたが、『成人期の魂(二元性の板挟み)』が『陰陽をコントロールすれば邪』になるように
『三次元の観測』である限り『四次元の邪な世界』からは逃れられない
だから『四無量心』に気づいた時点で次が『金輪際の見極め』のポイントになる
念正智と正念場
念正智もまた面白い言葉の組み合わせ
『今の心』の『正しさ』を『知る日』と書く
それは『無には無かった事』に『気づく』という事
三次元をコントロールする『四次元の邪な世界』では
意図的に必然的に隠されていた『物事の捉え方』
舞台は『座長が演出』する
この座長を『邪』と捉えるのは三次元の『中立』から見た捉え方
しかし、『四無量心』に気づけば、座長が『どんな演出』をしているのか
『座長と同じ目線』で『座長の気持ち』を感じる事ができる
これは『創り手=創造主の気持ち』になる事で
『産みの苦しみ、育ての苦悩や喜び』を理解・解釈する事
『三次元的な空間』を興行している『座長=創造主』を理解してない状態では
『舞台を見に来ていた観客』として『好き放題、賛否両論』したり
『舞台の配役』として『役』を演じたり、『役や演出に文句』を言ったりと・・
『創造主=邪の世界』に囚われていた状態
しかし、元を正せば、邪とは、その『善悪に振り回される』のを
『上』と『下』を繋いで『止』めて『正』しさを説いてきた『心』
その『心の演出』に『自我・エゴが文句』を言うならば
「望む世界を見せてやる!」と求め願う舞台を用意している『座長の配慮』でもある
例えば、これを『神』に『逆らったルシファー』だとしよう
ルシファーは神に匹敵するほどの人気と実力を兼ね備えた舞台の『看板役者』
しかし、『座長の演出に逆らった』為に、舞台を『追放』された
「お前が座長の舞台を創ればいい」という『自由を与えた』とする
そこで『ルシファー率いる集団』がやりたいと思う事全部やる
『人の欲望を具現化』してみせる『新たな舞台(四次元)を演出』する
すると・・そのうちその演出に参加する『舞台役者や観客』が
「もう地獄はいい・・見たくない」と『そこには無い世界』を求める
そこには『無い世界=未知』を求める
その結果、ルシファー講演以外の『元々の舞台』もあったと
『創造主の舞台』へと移動する事になる
私がルシファー=座長だったとしたらそこで気づく
ルシファーが『元々の舞台に無い演出=自我で生まれた邪な世界』
それは『創造主』にとって『必要悪な役目』であり
ルシファーもまた創造主の『産みの苦労、育ての喜び』を知る事になり
『新たな創造主』となって、また『新たなルシファー』を『役目の為に追放』する
この『永遠の繰り返しの流れのひとつ』だと気づくと・・
その役目を演じる、演出する『必要』が無くなる
『全ての衆生』がその『自由意志』に気づくまで
これが『今の心』の『正しさ』を『知る日』=念正智だと感じた
その日まで・・正念の立場を護る『正念場』
歌舞伎(かぶき)などで、主人公がその役の性根(しょうね)、役柄を発揮する、最も重要な場面。転じて、ここぞという大事な場面・局面
「演じて見せよう!地獄の魔王サタンであり不動明王!」
『地獄(ルシファー劇場)を求めて堕ちてくる者』が
いずれ地獄に嫌気がさして『自力で創造主の元へ離れる』まで
これは『釈迦の説法』に『聞く耳持たない者達』を
『釈迦の弟子』が『陽動の誘惑で引き連れていく』ようなものだ
『三次元の中』で『四次元の役目』を解く=解釈・解放
『邪の中』に『三つの無(全てがある)の為の役』が投影されている
人はかつてどんなに『夢中で好きだった人・物・事』でも
いずれは飽きて興味を失い離れて『違うもの』を求める性質
『異性=異なる性質』を『足りない』と求めて『間』違いを繰り返す
『異星人=異なる星の人、異なる日の生まれ=転生』を求めて『間』違いを繰り返す
善の間→信じた人・物・事に裏切られ(予習)
悪の間→人を騙し、裏切り、傷つける事(復習)にも飽きて
中立の間→どっちもどっちだからと業(因果)に関わらないで諭しても聞く耳持たれず
邪の間→地位・権力を持って中立からコントロール(応報)する演出(預言・計画)
その自業自得の因果応報の『間』違いから離れて『舞台裏』をみれば・・
『邪の演出の立場』って『繰り返して飽きさせる事』なんだと気づく
自業=という『修めるべき修業』をさせる空間
「やりつくして飽きて満足したら元へ還れ」と『ルーツ』を辿らせる
そこには無い『創造主の元』へと『精神たたき上げの獄卒』を送り返す
『宗教神話』では確か、こういう『設定』だった
神は『天使』を創り、『人を神に似せて』作った
神は天使に『人の面倒』を見ろといったら天使がそれに『逆らったから堕落』させられた
それも『プロ・ローグの演出』だとしたら?
プロのローグ(「悪党」「ならず者」「はぐれ者」)だぜ?
マッチポンプ(繰り返し)だろ?(笑)
一瞬たりとも、真理の考え方や行動から離れないようにする
『今の心』の『正しさ』を『知る日』=念正智の正念場
私はこれを『万教帰一』として図解していたから、『四無量心』と『念正智』という『先人の格言』を『心に素直』に受け止められたのだと思う(与えられた意味を鵜呑みにしない)
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