古の神社を旅して歩くと必ずどこにでも奉納されている狛犬や狐や馬など、『対になった動物』のある事に気づき、これは産道を通る者がいて初めて力を発揮する『三位一体の閃き』の形象と理解したお話
阿吽の像
片方は口が必ず開いていて
もう片方は閉じている
これを阿吽の像として…
あ、うん(´・ω・`)と思ってきたが
今朝の閃はこう伝えてきた
あん
始まりは『あ』
終わりは『ん』
実際、口の動きを静止状態の『コマ割』してみれば
『口が開く』のは『あ』で成り立ち
『口が閉じる』のは 『ん』で成り立つ
どちらも『一コマ』
つまり、『あん』が『静』ならば
『うん』 というのは『二コマの連続』した『動』になる
安静と運動?
『う』 がつくと
『あ〜から何か』が初まり
『〜んに至る』までの『因果の空間』が出来る
また日本最古のウタと言われる『アワ歌』も
『あうわ』 から始まるとの事
『あ〜わ』の『間』に『う』が入っている
さて、これらは意味が無いという事はなく
カタカムナの言霊読みすれば
あん→強い命
あうん→命が強く生まれる
あわ→命の調和
あうわ→命が生まれ調和
あんもあわも『一コマの静』
どちらも 『う』 がつくと『生まれる二コマの動』
そう考えた時、動作の一コマをとって
『コマ犬』なんだろうか?とか思ったり
さて、そんな各地に置かれる狛犬等の奉納されている『像』は躍動感はあるが、あくまでも『静止』しているが
『静止された空間』に
『命を運ぶ人』が通る『動』
『人』が『真ん中』を通る事
『二柱の門中』を『人』が通る
門の中に人=『閃』
この時、『あ う ん の三位一体』
『始まり』と『終わり』の『間』を『人が生きる』
『巡り』合う『命を運ぶ』新たな『始まり』へ産道を入って出る
西側の神社は知らないが、東北の神社に奉納されている灯篭は左右に『日と月が対』になっている
場所によっては月が『上弦や下弦の傾き』が違ったりするが、その間を通る時
人は日と月の間の『明』になっている
『人間』は本来は『明』である
文明、解明、明確、説明
あらゆる物事を『明るみ』にする
それは『日と月』の『間』にいる『人』しか出来ない
『願いを叶えたい』という『閃』を求める事
この『門』と『向き合う人』
『三位一体の時』に『閃』を授かる
空気が『パーン!』と変わる『瞬間』がある
『許可される感覚』はもの凄く『心地よい』
あくまでも『私の体感』だが、それを踏まえて
『あうん』 や 『あうわ』の 『う』 とは
『門を通る人』とその地の『神の力』
『人力』と『神力』が『門を通る事で調和』する
それが『神通力』を授かる
もちろん、ただ『通るだけ』でいい訳ではなく
「ここに何しにきた?」という『命運=縁』が必要
そんな現代の『行った事がない場所に縁』がある訳ないだろう…と思うでしょ?
ここからが『アミニズム』の不思議な所
『白羽の矢』が立つ
『君に決めた』と託される感覚
現実でも『波長があう人』は『友達』になる
『居心地がいい空間』では過ごしやすい
これは全て『波動共振という振動エネルギー』
それは『人対人』に限った事では無い
動物も『人の好き好き』があり
何かしらの判断で『相手』を選んでいる
『生理的に無理な人』には近づかない
『神通力』も同じ事
テリトリーに『異者が来れば不協和音』
『波長が合う者が来れば調和』する
そうだな…例えるならば『心地よいと感じる神社』は
祖父母の家に『孫が遊びに来た』時に
「何が欲しい?何を悩んでいる?」と望を叶えて楽しませて「また来いよ!」と良くしてくれる感じ(笑)
と言っても私は『望や願い』をしに行ってる訳ではなく、行ってこい!と『旅に行く事に意味』があるような感じで送り出されてたどり着く
可愛い子には旅をさせよ
「この地の思いを教えて欲しいです(。-人-。)」と『現地レポート』をしては、帰る前に
「これを持っていきなさい」と、地元の神社への『お土産(波動高い)』を持たされて帰る感じ(※声は聞こえない)
…そんな『使いっ走りみたいな神通力』ならいらんわ!(ノ`Д´)ノ彡って思う人もいるだろうけど、夢でもそんな事ばかり(笑)
『先人の叡智、ことわざや格言』など、『失われた古代の思い』を『閃で授かる神通力』と考えれば、これ以上『自分に欲しいもの』は無いなと(笑)
というのも
『門と向き合う人』である限り
『問題を問題』として捉える限り
解明…明確…説明
日月の陰陽の『中道の明』
『三位一体』になった時に私は閃く
逆に言えば、『門』がなければ『気』にもしない。それは『自然』であるから
『森の中』にひっそりと『祠があった』としても、そこに辿り着く事はない
『門・門痕』があるから『足』を止め『気』になってそこに近づいていく
「この門はどこに導ているのですか?」と問う
「知りたければ通れ」と許可を受け門の奥にある題(テーマ)を知り
『閃』いてその『命題』を持ち帰り、『道・未知』を切り開き
再び参道を『産道』として『新たな意識』を持って『生まれる為』に戻る
『輪廻』には『生まれる目的』がある
門とは『空の間』を『生み出す』という事
空とは『有無=可能性』
なぜ?とは『何故』と書く
『何の故事(昔あった事柄)』があるのか?
何故『此処』に(物事が今おかれている状態)?
鳥居とは『鳥がいる場所』
『籠の中の鳥』はいついつでやる?
夜明けの晩=『日月の灯篭』
宵の明星、明けの明星
それがないなら見つからないが…今はもう『地名』しか残っていない『見つからない所=失われた地』へ行け!
…と、指示される訳でもないけど『自然とそこへと向かう流れ』がトントン拍子に揃って行く時は…
『神通力(シンクロニシティ)』を感じますね
『観光地となった神社』はもはや『人社』か『人邪』
『慣行』とはならわしとして『通常行われる』こと
つまりは『慣れる』ので『邪』が入りやすい
『落書き』されたり、『木を折られ』たり『ゴミで汚され』たり
『門番』が門番として『機能』していない
『門』とはそう簡単にはくぐれない
『水際』で止める大事な『境界線』
『用のない者は通しはしない』のが本来の門
門はくぐり抜ける為ではなく『許可されて通り抜ける』もの
だから最初は『門番と向き合う必要』がある
狛犬や阿吽の像の『目線』は『門の中心を通り抜ける人』に向けられている事に気づいてるだろうか?
二礼二拍手一礼の空間破壊の「パンパン!」という『無駄な破裂音』と『さび付いた鈴』をガランガラン鳴らす
本来ならば、『鈴』はもっと『リン(凛)』とした『張り詰めた高い音(邪気払い)』で『空間に調和』していた音を響かせていた
それを『錆び』させたら、がらんどう=何もない
様々な~堂(薬師堂)を『堂々巡り』したが何もなかった
そう言う時代で変わる『人の表現の法』はどうでも良くて
「何しに来たんだ?」という『意図』を『目を合わせて』伝える
止まった『一コマの静止空間』を『動の二コマ』に変える
門の向こうに『人が運んで動く』
門の向こうから『命を運んで』くる
『流れ』を生み出す『龍』になる
ちなみにもはや風化した自然の中の神社の場合、その『門番』は『自然の二本の大木』が多く
その『二本の木の間』に『祠や本殿』がある
『阿吽の像』のように『目線』は無いけど、私はそう言う所はまずは『両方の木』に触れて『呼吸瞑想』する
アチマリカムを三回
『気』を『分けて』、『気』を『巡らして調和』する
するともの凄く『空気』が上手くて心地よくなる
=その地の門番に受け入れられる
でも、特に『用事』があって来た感もないから「ならこれを持って行きなさい」と『お土産=命・明・銘』を受け取る
座右の銘
自分を励ましたり鼓舞したり戒めるため、日ごろから心に留めている言葉
新たな『認知』で『意識』が変わる
この繰り返し( ˙꒳˙ )
そして巡れば巡るほど『荷物』が増えて『波動が重く』疲れてきて、地元の神社にただいまと帰り
『神木』に触れて、『木から伝わった気』を分けて『親睦を深めてきた事』を告げる
祠に「こんな経験してきました」と命を運んだ仕事の後の帰る足取りは『達成感』でとても軽いが・・
それを解決するのは、お前の役目だと『無理難題の宿題』も有るので、『閃き』が起きるまで、ほかの事が何も手につかない事も(;´д`)トホホ
『波動を理解』するには『波動に触れる』のが『一番わかりやすい』かもしれない
それは『電磁波過敏症』の『症状を認知』しないと電磁波過敏症の『痛みや苦しみ』がわからないのも同じ事
薬師とは、まず『毒を自らに取り入れる事』で、その『対処法』を見つける
私はその対処法や予防を対策として処方する訳詞如来の妙見狸(。-人-。)
『気を操る』とかは出来ないけど『氣を揉む事』は誰でもできる。『自然の波動』が変わる『自然との調和をするタイミング』はそれに『氣を巡らせる必要』がある
そう言う意味で、最後にまとめると
『あん』 は『始まりと終わり』の『静止』
『あ、う、ん』 は『三位一体』の調和
『あ』と『ん』の『門』に『うの人』で『閃』
だから『鵜呑み』にすんなよ?
『う=人』 のみでは『どう(動)』にもならない
う=人のみでは『生きられない』
『あん』が無ければ『心』がない=安心
『両極の門』があっての中心の『人=閃』
『自然との調和』の『神通力』が必要だ
その為に『人は人である事』の『門』の『鬼と向き合う必要』がある
『鬼門』は『あの世とこの世』を繋ぐゲート
『虎穴』に入らずんば『虎子』を得ず
虎=トーラの穴=真実の抜けと向き合わなければ
故事=昔にあった事の戒めや解決法は得られない
『鬼』とは何か?『人が気嫌い』するレッテル
しかし『レッテル』は『人に都合がいい邪』
天邪鬼の『邪』とは何か?
それは『門を無視する人』である
『問題』を避けたがる
『問題』を誤魔化したがる
『問題』を遠ざける
『明確』にしたくない
『明るみ』に出したくない
だから『日月』という『明』を避ける
『夜明けの晩』に『門』と向き合う『人』
『時』=『日が土に寸(わずか)』に
『沈む(晩)?昇る(夜明け)?』か、『明』をはっきりさせよう
そしたら『明の日』が生まれ『閃光』が指す
『明日』の『閃き』の『光』
『門と向き合う人』になれ
そう考えた時、鳥居も2対の阿吽の門も
そこから先は『空間が変わる目印』
『神社』を探す時、多くの人は『鳥居を目印』にする
ここには『神威(神居)』があると気づく
座右の銘=右から
カムイ → 仏力
そこには釈迦の、『朱=自然の叡智』が眠る
その『誘導される方向』へと『歩』を進めていくと
その先に『2対の像を』通り抜け『参拝』する
…しかし、これが『人為的』な『破戒工作のミスリードの思い込み』でもある
希釈廃物
神仏分離
本当はそこに『神威は無い』にも関わらず、『鳥居でルート』を変え、『後からできた本殿』へ『人の意志』を『人為的に誘導』すると
本来の『祀られてきた神威』に力が届かなくなる
『神通力』が無くなって『気枯れ』『穢れて』『木枯れ』…
言うなればスネる(・ε ・ ` )ブー
そういう神社は狛犬も門も『劣化』が早い
でもそれは『人気を意図的に集めていた神社』の話であって、古来から『自然と一体化』して、『人の邪な気がない所』は…ただ穏やに『空間そのものに力』が満ちている
と感じた旅で受け取ってきた座右の銘はまだまだ、今も溜まってますので、お楽しみに
LEAVE A REPLY