幸せらなら手を叩こう(手打ち)、幸せなら態度で示そうよ(降伏)、ほらみんなで手を叩こう(賞賛)・・シアワセとは?死合わせ?示合わせ?幸せ?羊の上にいる土=サターンと、山の自然の自由な山羊の『正体』をどう捉えるかで変わる幸福で降伏な結末なお話
スピッツひみつスタジオの洞察の途中で
先日、新旧スピッツ曲を聴きまくった結果、デビュー当初から年は変われど、色が変わっていない、一貫した方向性にどっぷりと浸かった為かわからないが、神社や大自然に行って『高波動に触れた時』と同じように『抗えない眠り』で意識は一回途切れた・・
意識が途切れていく感覚の始まりは、愛のことばのMVの出だしのようなカタカムナの渦のように
誰にも理解されなくてもいい己の物語を始めよう
何度でもやり直せるから、暗示で刷り込まれた谷の向こうへ跳べ
常識という細いロープで傷つく手鞠から弾むように離れ
定められてストーリーの外側を心と繋がって偽り(虚)の向こうまで
君が大好きな物は明日には多分僕も好きと心が先に動いて
体感の後のシンクロニシティに導かれるまま
取り戻したリズムで新しいキャラ達と踊り
今までに気づかなかった事、心が好奇心でさらに新しい想像や創造を生み出す意欲のまま
頭頂の紫チャクラの夜を越えて=眠りの世界へ(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)溶けた愛
そんなひみつスタジオの曲の『音や歌詞が混ざり合っていく感覚』の中で
『渦』って『左右』の回転なのに、『中心』にいると『前後』の移動を感じる・・ここに留まっているはずなのに6と9の回転の方向で『進んでる』ような『遠ざかっている』ような、主観的で客観的な錯覚・・
そんな目覚めに新しい詩の創造が生まれた
幸服下世界
『福・服』いつからどこで身につけた?
それは引きよる『欲』の力
『欲の地』から『禁断のみ』を得た力
服で満たされる服従
神の下僕を受け入れ同意する降伏
今、金、食へとへり下る
傘下に参加の賛歌を唄う獣
土の下に羊がいて、羊の上に土があって
土は土星のサターンで、僕らはサターンの羊
サターンは農耕の神だって
唯一食べていいのは羊の肉だって
僕らは幸せな羊を養って食べる
僕らは示し合わせた死合わせを食べる
シアワセってなんだろう?
まぁ結局『共食い』という『禁断のみ』から始まって
それを1000年以上前から教義に従う時点で狂気の沙汰
従順な羊である限りは幸せという
従順でなければ羊ではないという
羊は従順な犬に追われ
羊飼いに飼われ養われ
羊として食べられる運命
まるで泳げたいやき君のように嫌になっちゃうよね
『幸福な夢』の『降伏な服従』から離れられない限り
『友食いの運命』から逃れられないのだろう
幸福は降伏の上に成り立つ
幸せな服をまとった獣
『福・服』いつからどこで身につけた?
それは与えられた限られた力
『禁断の地』から『養食』した力
食う為に養う共喰いの力
それが幸せ
土の下にある羊
サターンという神の下僕
…思ってたんと違うけど、面白き今にたどり着いた(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)締めた
こんな風に『スピッツに波長が合う人』は『紫の夜を越えて』意外と簡単に暗示の向こう側の谷に意識が『跳べ』て、殻の外から『未来未来』へと影響を与え、『虎の威を借るトイソルジャー達』にさよならして『古ぼけた常識の壁をぶっ壊す』きっかけを与えている
『思いもよらない所』から『フルスイング』でぶっ壊ーす(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)
いやまさか『幸』の文字が
『土=サターン』でその下に『羊』となれば
『羊飼いはサターン』やんけ!というミスリード
羊飼いは『キリスト』では無いのか?という
『1000年以上前から騙り継いだ嘘(宗教)の預言が人生の意味』と信じて生きてきた事への素朴な疑問の『小さな破門』の『溶けた愛』が広がる第3の選択の『未来未来』へと繋がる
あなたは『サターン=土星がキリスト=羊飼い』と聞いてどう感じますか?この考え方は『どこかの壁(常識)に大きなヒビ』が入りそうな予感がします
だって前に『サターンとキリストの繋がり』を『記号の法則』で見つけてたんでね?(。-∀-)ニヤリΣ(゚д゚;)そこに?!
幸は土の下に羊
㟄は山と共に羊
羊は人が囲んだ範囲の平地で監視されて飼われる
山羊は自然の山という環境で逞しく生きる
山羊を嫌うのが囲われた『狭義な教義の羊飼い(キリスト教=一神教)』だとしたら?
自然と共に環境に適応して生きる『自由な山羊はサタン(悪魔・異教徒)』とレッテルを張ったら?
私は『逆』だと感じたんですよね・・
一般的に悪魔崇拝のシンボルと揶揄されているバフォメット像
教義とかそんなものは、『時代を支配する為政者』たちが『都合よく植え付けた先入観』だから、そんなものは『新しい歌で洗い流す』事が必要
これは、父なる『山羊(自然)』が『母なる大地の母体の腸』にムドラー呼吸=圧力(熱と冷、苦・歓、光・闇)という『相反する二元性』をかけている呼吸瞑想の構図
腕に書かれた『熱で溶かして冷やして固めて』というのも、錬金術の為というより、『物事の捉え方』も『使い方』も一つでなく、それぞれが『役目のエネルギーで成り立つバランス』なのだと
俯瞰で見れば、私たちはその中心である玉の中で『自立した自然の法則』とそれを『緩和する母の胎内』で厳しくも暖かく『見守られている子供たち』
それは一神教とか多神教という相反する教義もまた『エネルギーの役割として学ぶ』ための真理のシンボル
そのためにキリスト意識、釈迦意識は『自然』へと向いていく
羊は飼われる羊でなく、羊でも『山の羊』への導き
土が土星ならそれは『サターン信仰の羊』という一神教
山は自然の環境、自然信仰の羊が山羊=『㟄』
『漢字』からこんな仮説を立てた後、ちょっと調べたら聖書にも『羊と山羊の違いと役割』に言及されている部分があったのを見つけた
聖書に登場するシンボル『動物』 山羊聖書に登場するシンボル
聖書には、たびたび山羊の話が出てきます。大抵の羊飼いは、羊と共に山羊を飼っていました。彼らにとって山羊は大切な動物でした。乳はとても栄養価が高くてチーズづくりに適していましたし、その毛は天幕の材料でした。雨が触降ると、テントの毛は防水の役をするそうです。
山羊は羊より性質が荒く、餌も違いました。羊は牧草が好きですが、山羊は木の葉や雑草などを好んで食べました。また、よく喧嘩をしましたし、逃げ出しもしました。このようなことがあるので、時には羊と山羊を分ける必要がありました。
マタイ福音書25・31~33の背景です。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。」
古代ユダヤには、贖罪(しょくざい)の日に一匹の山羊を荒れ野に連れ出す習慣がありました。レビ記16・8には祭司長アロンが贖罪の日に雄山羊の頭に手を置いて、象徴的にユダヤ人に罪をその山羊に負わせて、荒れ野を放しました。こうしてイスラエル人のすべての罪が、年一回消されたと考えてきました。山羊は英語で「scape goatスケープゴート」といます。この言葉は日本語になっていて、「他人の罪を負う身代わり」の意味に使われています。皆が悪いのに一人だけに罪を負わせれることを、「その人をスケープゴートにした」と言います。
M.クリスチャン 『聖書のシンボル50』オリエンス宗教研究所 参照。
象徴的にユダヤ人に罪をその山羊に負わせて、荒れ野を放しました
山羊は英語で「scape goatスケープゴート」
「他人の罪を負う身代わり」
キリストがなぜ『見せしめ』にされたのか?
なぜ甘んじて『その役目を受け入れた』のか?
『選ばれる生贄』として、『人類の罪を背負った救済』とは、人の愚かな『行動や発現』、『自己保身の醜さ』を露呈させて、徹底的に『人々に知らしめる事』で自ら『人類の精神性を成長させるための生贄の羊』となり
「他人の罪を負う身代わり」の山羊「scape goatスケープゴート」の役目を果たした・・は一つの綺麗な捉え方だけど、要は『醜い人間性の集合的無意識』が『自分たちの罪を着せて逃げ道にした』
都合の悪い事を排除するエスケープ・ゴート
だから、本当のキリスト意識は『山羊』のほうだと感じました
スピッツの曲に『ロンリーな荒野を行く』『もう迷わない』という誰にも理解は求めないで『役目を果たす』という意志を感じた結果
私は溶け合った言葉の先に『scape goat スケープゴート』を感じた訳で、それは『世界に嫌われようと頑張っていた』の部分にも、誰かの罪の『身代わりに選ばれるため』に云う事を聞かない『抵抗』をして反感を買う
それが山と共に生きる羊=未=未来
山と羊=ヤマト魂
キリストが『自然と共にあるヤマト』に関係がある、なぜか漢字と音の響きはそれを物語る。1000年以上前から語り継がれてきたのが『嘘』ではないなら、どこかで『解釈』が歪められている
私たちの常識の根幹に植え付けられた『シアワセ』とは何か?
幸せらなら手を叩こう(手打ち)
幸せなら態度で示そうよ(降伏)
ほらみんなで手を叩こう(賞賛)
・・シアワセとは
死を合わせる事?=寿命・延命のSDGs
示合わせる事?=常識・概念・世間体の同調圧力
それが『土の下の羊』の服従で得られる福充の幸せ?
そんな囲われている小さな範囲から外に出て「自然と共に生きよう!」と自由へと誘う山の羊
彼らからは『スケープゴート』として自由を与えるがそれは 『見せしめの生贄』「ああなりたくなかったら大人しく服従しろ」と『強制の共生』する事に利用する
その『習慣』こそが、『みんなで犯した罪を一人に着せる』という傲慢な『サタニックな権力支配』そして、その『生贄』を『人類の罪を被ってくれたと磔のシンボル』として『偶像崇拝の信仰』に利用する
ここまで気づけばわかる事は、『自由』を奪っているのは『信仰』がベースの『シアワセ』
自由とは『幸せである限り』叶わない
山の羊=心も体も『自然体でなければ達成』できない
だから、もしかしたらだけど・・キリストという『役目を担った人物』は『徳を積んで自由』になった
『肉体』にも『特定の何か』にも引き寄らず、『意識を縛られなくなった自由なエネルギー』だから
鳥のように、虫のように、風を受けて、時を紡ぐ
強い雨も、砂嵐も、汚れながら、進んでいきたい
君のそばにいられるなら、今は言える永遠だと
賛歌=賞賛するの対象が『キリスト意識(自由を示す)』と言っても過言ではなく、そんな、スピッツの『ひみつスタジオの言葉とメロディ』が溶けた『高波動な愛』となって私の変性意識にアクセスしてきて
(・ω・)/呼んだ? Σ(゚Д゚)軽!
無駄な・・でも『愛すべき昔の話』を聞かされたように
(・ω・)実は『スケープゴート=山羊』だったんだよ Σ(゚Д゚)マジすか!
『そういう認知』に変わって物凄く『納得』した私は『幸福で降伏な結末』は迎えないだろう。山という『自然の法則』の中で、『自然体で生きる羊』になる『未来を選択』するから
おまけ YMCA=jang=羊=ヤングマン
山羊(ヤギ)は羊(ひつじ)の朝鮮音「jang(ヤング)」がyagi(ヤギ)に変化し,その音を漢字で「野牛」をあてたという説がある
jang=ヤング
山羊=自由
さぁ立ち上がれよjangman(羊の人間)
この音楽は『トランプ大統領のテーマソング』でもある訳で、そんな偽りの幸福で支配してきた影の政府(DS)の羊から「アメリカが自由を取り戻して、立ち上がるのだ!」という『立ち上がれ羊たち』という捉え方によっては一神教からの脱却の音楽だった訳で
でも、トランプもまた、DSからすれば『スケープゴート(山羊)という役目』だから、キリストのように『崇拝する対象』ではない。ただ彼は「私に続いて、私を利用して一気に策から抜け出せ」という一時の導線
それはスピッツの歌詞の端々にあった、先導はするが、進むのは自力だよ!というのと同じ事
そんな俯瞰の世界的計画で捉えれば、彼はキリスト(という役目)の再来、創られた偽救世主でもあるが、それは宗教の妄信の壁をぶっ壊す事で、外の世界を羊たちに見せる山羊の役割でもある
だから、トランプを貶めようとしている人達は
元々はトランプもDSの中の存在であり、それ群れから切り離して、トカゲのしっぽ切のようにスケープゴートの生贄の山羊にしたつもりだったが・・
いかんせん、彼は強い山羊だったから、古巣のDSも囲い込まれたアメリカという概念の策も破壊するだろう
別に期待しているという事ではなく、すべてはそういう『止められない地ならし』みたいなものだろう。進撃の巨人のラストは、三者三様の生き様と役割
さしずめエレンは道を切り開くキリスト意識という役割を全うする役目だった
なんだか・・一気に『キリスト=みんなの罪を着せられる山羊という役目』に関するシンクロニシティが起きて繋がった
まさかYMCAのヤングマンが、若者って意味じゃなくて、jang=羊とは誰も思わないだろうな・・
西城秀樹は『気化した韓国人』だったと考えると、当時この歌は、日本人に虐げられていた『在日朝鮮人へのエール』だった、立ち上がれjangman=朝鮮羊
実際80~90年代の芸能界は在日朝鮮系の人達が芸能人としてピックアップされていた訳だから、まさにこの歌は帰化人の二世、三世に力を与える呪術的に利用されたという事だろう
元歌はアメリカのVillage People
YMCAの意味はYoung Mens Christian Associationの略称
日本語で言うと、キリスト教青年会
ほら、類は友を呼ぶ、同じ波動を放つキーワードが引き寄ってくるシンクロニシティ
詩も歴史も信仰も、時代時代の人が利用する形のないエネルギーだとわかる
だから『キリスト意識=誰も知らない孤高の荒野へ旅立つ者』というのは『目に見えない意識体』として『引き合う者に溶けて入ってくる』という事だろう
シアワセとは何か?
『人の悪意』無き、無垢な争いなき平和のよろこびを『観念』した時・・高波動の愛がとけて入ってきて・・
(・ω・)/呼んだ? Σ(゚Д゚)軽!
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