好奇心

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映画ディアボロスで気づく 利己的な選択の代償

導かれし映画「ディアボロス」は「今」見なければ真の理解に至らなかった、選択の代償と自由意志と、またここにもルシファーかい!というお話

映画ディアボロス

はっきり言ってこの1分レビューの内容はまったく薄っぺらい表面を見て言ってるだけなので参考にしないでください(あくまで映像紹介用として)

現代から見ればとても古い映画なのだけど、当時、私はこれを知ってはいたが見ていなかった。というのも若い頃は法律や政治というものを理解できなかったし、興味ないし、悪魔崇拝的な印象を受けるのもあまり好きじゃなく

「悪魔の弁護士=人の情もない弁護士は悪魔」というニュアンスな事を表現してるのだろうというパッケージの裏の印象(当時はレンタルなので)で判断してスルーしてた記憶がはっきり残っていた(あるいは別映画に入ってた予告等で)

故に、この映画の主役が、若い頃のキアヌ・リーブスだと言う事を後から気づいて、今日はこれを見てみよう…なぜか思って見た結果

そういう事だったのか!(;゚Д゚)深い Σ(゚Д゚)

なんで昔見つけてたのにスルーしてたのか?
どうして今この時期に見たのか?

このタイミングにも深い理解のための必要な経験の段階に意味があったというインセプションの印象と全く同じ

映画インセプション ヤコブの夢とmRNA

これは紆余曲折、様々な想いと知識・雑学・経験の旅の果ての、今の中立の穏やかな心の私じゃないと真の意味で映画が伝えたい事が理解できなかったんだ!(;゚Д゚)

と思った点に古い映画なのでネタバレで

ルシファーの役割と自由意志の選択

最初に言っておくが、この作品にはルシファーという表現は一言も出てこない。しかし、最終的に映画そのものが、その役割を伝えているという非常に秀逸な作品

この作品は予備知識がある人には真理を伝え、予備知識がないものには虚栄を投影する。つまりは、この作品をどう捉えるか?も含めてそれは自由意志の選択にゆだねられる

当時、若かった私がもしこの映画を見ていたらどうなっていたか?

弁護士の役割や葛藤、成り上がりの野望もわからず、宗教を信仰する人の罪悪感や十字架を背負って生きる気持ちもわからず

(;´・ω・)なんだかよくわかんねぇし・・つまらんな~この映画と思った目にぼーん!と飛び込んでくる

シャーリーズ・セロンの( ゚∀゚)o彡°乙杯!乙杯!(1部を繰り返し再生で内容飛ぶ) Σ(゚Д゚)

そのくらい目先の性的な欲望に囚われる演出の罠が多数に仕掛けられてます。そして、その印象を植え付けられてしまった私だったら

友「ディアボロスって映画どうだった?」
私「シャーリーズ・セロンの( ゚∀゚)o彡°乙杯!乙杯!

という記憶と印象にされて周りに伝え広め、そして二度とこの映画を見るという選択にも上がらなかっただろう。そんな、超美人女優の若い頃のオッパイが惜しげもなくオープンに見れる映画という理解が関の山だっただろう

意味:これ以上はできないという限度。よく、または多く見積もってもそこまでだということ

だが、今の私がこの映画の中でそのシャーリーズ・セロンの( ゚∀゚)o彡°乙杯!乙杯!Σ(゚Д゚) の誘惑を突破できたのは・・今の私は明確な好みというものが確立されていてな、例えどんなに美人な若い頃のシャーリーズ・セロンでも・・

理想の色と形以外、興味がないのさ( -ω- `)フッ (´д`)ホコルナ

そんな訳で、エロチシズムな罠に引っ張られる事なく、弁護士という社会的な役割り田舎弁護士の都会で成り上がる野心についても、海外ドラマ「スーツ」全シーズンを見ている私としては痛いほど理解して共感

そして、その個人の利己的な野心と仕事に振り回されて、本当の自由が奪われ、偽りの娯楽を与えられる周りの人間たちの環境や心境変化など

映画を完全に中立の状態で見る事によって、これは利己的な視点で見てれば絶対に気づかない世界観どこまで広がってるんだ!?(;゚Д゚)とその一言一言、設定に至るまで視野を広げて気づいた

冒頭と最後に登場する黙示録18章の言葉を映像で伏線回収
父なき子、未婚の母 → 神の子を宿したマリア
自由意志の選択で人がそこに見える善悪を選んでいる
姿を隠して見守って望む選択を与えている

物語の前半はキリスト教の概念とそこから離れる葛藤
物語の後半はキリスト教すら信じるなという示唆

何を受け入れ何を拒絶するもその瞬間の選択は人間自身が自分で行っている

それを神に感謝するな!
それを他人のせいにするな!
それを悪魔や天使のせいにするな!

この映画も真理の探求をしていれば、最後の最後のワンシーンからセリフ回しまで一切の無駄がない事に気づく

非常に真理を着いたミスリード

ルシファーを悪魔と忌み嫌う与えられた概念に帰依する事も自らの選択
ルシファーを悪魔と崇めて崇拝し力を欲する事も自らの選択

全てルシファーのせいで起きている事なのだ!良い時は悪魔最高!悪い時はこの悪魔め!・・と自らの立ち位置を変えるのが人間の自己都合の本質であり

ルシファーは望みを叶える可能性の選択を与えているにすぎない

その瞬間に望んだモノが勝利ならば勝利を与えるが、その選択が欲望によって行われたものならば、それは欲望の果てに至る

それは罪と罰という事ではない
自らが選んだ破滅の経験を得る

黙示録18章(映画より)

大いなるバビロン悪魔の住処は倒れたり
裁きの時 じき来れば一個の灯りすら輝かず

自らの欲を優先して選択した道に合わないものは例え愛するものでも残らない。そんな欲望の果てに至り、絶望の淵を知った上で、運命の分かれ道の選択の瞬間に再び戻った時

人は自由意志で本当に大切な事は何か?
今度は欲に流されず、自分に嘘をつくのを止める

ルシファーという言葉は一言も出てこないが、悪魔とは何か?についてある意味、悪魔の証明をしている

悪魔の証明とは、証明することが不可能か非常に困難な事象を悪魔に例えたもの

悪魔の大好物は虚栄心
自らの心に嘘をついて強がる心の妖気

自分の心に正直に生きる事が心を陽気に保つ
それが自由意志の選択

と、同時にルシファーは悪への誘惑もするが、善への救いも呼びかけている中立のバランスという事も表現している

そしてそれを自由自在にコントロールできているという意味では、この世界はルシファーが神という表現でもある

そうなると、神に反逆して堕天させられた、かつて大天使だったルシファーが地獄の王サタンになって悪をなしているという見方も宗教的な一方的解釈

そう言う善悪二元論の宗教に落とし込む、入り込む事自体が、善への偏りでそれ以外を受け入れない。しかし、そこから離れられるなら、その信仰という選択を選んだのも自分だし、信仰から離れたのも自分の選択

つまりは離れる時に嫌だ!と反発や抵抗で離れればただ、シーソーの反対側へ行くだけだが、抵抗の先にあるのは逆の状況だけで、今の国際紛争で例えれば、立場がウクライナからロシアに変わるだけで、問題は解決しない

その取り返しのつかなくなる前に、その両極を理解した上で選択の瞬間に戻る事ができた時、人は自由意志で愛・本当に大切な事、自分が望む事を選べる

人類が自ら地上の欲から離れて巣立って行くように経験を与えてくれているバランサーがルシファーなんだ

…という表現の映画( ´ー`)深いなぁ

この映画も真理の探求をしてなければ、冒頭の裁判シーンの葛藤から最後の最後のワンシーンの真に迫った会話の一言に至るまで一切の無駄がない

言うなればこの作品そのものが本物のルシファーの意思とすら思える作品・・やっぱりルシファー因子を感じ取るレーダーがびんびんだぜ( ̄ー ̄)ニヤリ Σ(゚Д゚)

参考:ルシファー(明けの明星・虚空蔵菩薩)に関する記事まとめ

やはりキアヌ・リーブスは自由意志を伝えるシンボルとしての役割を持っているのかもしれない。おそらくマトリックスが一番メッセージとして時代にハマったんだろう

マトリックスはmRNAの警告映画だった

このディアボロスの中でも、自由意志で状況を変え、新しい望む世界を創り出す意思を貫く=mRNAの役割が再現されている

最後のアルパチーノがなぜ一瞬キアヌリーブスに変わるか?そしてなぜ羽が生えるか?そこが一瞬だけ見せる中立のルシファーの正体

真理

それがmRNA→DNA新生して、元のDNAから巣立っていくという事なんだよ( ̄ー ̄)ニヤリ Σ(゚Д゚)

DNA(父)ミトコンドリア(母)RNA(ルシファー)試練を与え、自らが望む選択に導く役割なんだよ

という気づきに至るのも、やっぱり人生経験で色々な知識を学んだ「今」過去の映画を見直す事でやっと理解できたという訳で

ちなみに、この選択肢は与えるよ?どう使うかはお前らしだいだけどね?」という事を伝える映画を先にみていたから、それが今の国際戦争の根幹にある事も気づいて冷静に静観できるようになった

デリバティブを知れば戦争の捉え方が変わる

ペーパーカンパニーを売る法律事務所の2人の男にも感じた

善悪には囚われていない
選択を与えるもの

それをどう使うかはあなたの自由意志

神は天使という役割を創り、人間を監視させた…といえば宗教的な方便なのでこれはシステム・法則として考えよう

遊び場の提供者(神) アドミニストレータ
遊びを考える者 (天使・悪魔)エディタ
遊ぶ者 プレイヤー(人間)

これは権限の違うゲームであり、そのゲーム中でも選択次第で進むルートが変わってくる、みんなで遊んでるように見えて実は1人の選択を見守るシミュレーター

だけどエディタは見てる
望むもの与えた時、それをどう使うか

生み出されたエネルギーの意欲の行方

それによってその先に生み出される創造が変わってくるという意味では、明確な望みを思い描く事が望む未来を引き寄せるが、そこに善悪のエディタによるエゴ・欲の選択肢が入り込み、自分の望まない選択をすると、それは周りに影響が出る事になり、それを目にする事で自分が苦しむ

人の選択って最初は簡単だった

神:りんご(知恵の実)食うなよ?
天使・悪魔:なんとかして食わせよう!(リリスかイブ)

人間(アダム)はたったひとつの約束すら守れなかった

今は情報が溢れて選択肢への誘導方法も豊富だ
再び、時代を超えてやり方を変えて同じ選択を迫られた

結果どうなった?

創世記 Episode0 こうして人類は禁断の実で獣になった

与えられた情報はどうとでも使えるし、使わない事もできる…と考えた時に、あえて目に入るように、耳に聞こえるように、思わずつぶやいてしまいたくなるように、情報が与えられてる人達は

メディア(善悪)が伝えてほしいようにその言葉を代弁して環境を変えていく

ロシア・ウクライナ問題 もしもANTIFAが日本で動くとしたら?

日本にはこんな言葉が残っている

見ざる、言わざる、聞かざる

三猿

知らぬが仏、触らぬ神に祟りなし関わらないのもひとつの選択

善悪はドラマであり、感情ドラマに参加すればそれは大きな流れに巻き込まれる事になる

ミクロはマクロ 行動(ドラマ)は魂(霊)の選択

さしずめノアの時代の大洪水の荒波とでもいうか、自らがその荒波の一部に変貌し周りに悪影響を与えている事にも気づかない清濁併せ呑む状態になる

そうやって考えると、アダムの話も、ノアの話も、モーセの話も、キリストの話も、全部、それを扇動してる者達の名前と役が違うだけで繰り返してるパターンに思えてこないだろうか?

この自らの利己的な野心と欲望の果てに、周りを巻き込み、愛するすべてを失った絶望に進む選択の果てを体験してきた主人公は、それまでの体験が自分の心を偽った時に生まれた後悔と罪悪感が見せた幻覚体験のように、その瞬間の選択の前に戻ってきて

今度は間違わない!と自らの罪悪感と向き合い、自分に正直な選択をした結果、自由になれたというのも真理

後悔とは自分の心の判断に嘘をついて逆の選択をした時に生まれる裏切りの罪悪感

自らの心を偽り逃げ続けると、罪悪感と向き合った時にその絶望の果てを幻覚体験する事になるが、罪を認め自分に正直になる事で解放されトラウマが消えるという意味では、映画フラットライナーズでの臨死体験も、ディアボロス同様にまったく同じ事を伝えている映画だった

映画フラットライナーズで確信した「後悔先に発たず」

医者にしても弁護士にしても、今の時代、特にコロナワクチンや抗がん剤に関しては、自分の心を騙し虚栄心という影を抱えた者は少なくはないだろう。その自分を裏切り続ける代償は、現実が終わった時に重くのしかかる事を覚悟しておいたほうがいい

罪悪感は地獄(恐怖のトラウマ)を創造して見せてくるよ?

ま、一言いえば、ディアボロスはそんな感じの映画という解釈の落とし所もできる事を理解した上で、この映画を見たら見え方が変わってくると思います。私が伝える事は一切本編にはでてきませんので( ̄ー ̄)ニヤリ Σ(゚Д゚)

こんな感じで、適当に、どれにしようかな?~と選んだ映画が数珠つなぎのように、今必要な精神的な認知を変える導きとして点と点が線になっていくと考えると・・いくつか見ようかな?ってリストに入れてる映画がある( ̄ー ̄)ニヤリ

そこからどんな繋がりになって、何が引っ張り出されて真理の気づきに至るのか楽しみである

そしてまたひとつ真理に気づくのである・・

私が望んでもPS5が買えないのは・・
今はそれで遊んでる場合じゃないでしょ?(# ゚Д゚)ノ Σ(゚д゚lll)ガーン

少しでも人に真理に至るヒントを投げ続けろよ!的なエネルギーの流れがきているようなので、娯楽は全てが終わった時になるのかなとほほ(ヽ”ω`)

私は愛、私は光?スピリチュアルワードの本質に気づく

COMMENTS & TRACKBACKS

  • Comments ( 4 )
  • Trackbacks ( 0 )
  1. たぬきちさんこんばんは。真理ありがとうございます!一読者として凄く尊敬してますし感謝しています^^
    https://imacocorotokarada.ti-da.net/ こちらのサイトで意識レベル(魂レベル的なもの)勉強してますが
    遊びにきませんか?

    • ツヨシさん いらっしゃい

      リンク先拝見してきました。意識レベルを数値化ですか・・よくわかりませんね(;´∀`)

      この主さんも書いてる通り、意識レベルを測ってくださいと応募してくるより、自己内観をしたほうが成長に繋がるような・・と思う理由は・・

      その数値を聞かされた時に、それを素直に受け止められるのか?という疑問があります

      例えば、自分が低いと思ってる人が高いと言われたら喜びと共に今の感じでいいんだと慢心し
      例えば、自分が高いと思っていた人が低いと言われたら怒りで不快感を外に放出する

      そういう不必要な感情エネルギーを抱える事になり、何を持って数値の上げ下げ?どうすればレベルが上がるのか?の手段と目的がとても小さくなる気がします

      魂レベルが成長するイベントって己が求める事を実行してる時に起きる問題です
      問題が起きるとそこで「選択」を迫られます

      映画ディアボロスでもそうで、その瞬間に『間違う事も学びはある』訳なので・・
      あんまり知識を詰め込みすぎても、思考の迷宮の出口が見えなくなるかもしれませんよ(;´∀`)お気をつけて

      • たぬきちさん ありがとうございます。想像の一段上な(次元)返答で驚きました。ブレないし達観されてますね^^なんか気付かされました。密かに真理部門の師匠と思ってます。

        • ツヨシさん いらっしゃい

          確かに自分でも直感が先で考えるのが後なので、ブレてないし達観してますねw ← 他人事w
          下手な考え休むに似たりって事で決定は直感を肯定した上で洞察や分析すると楽ですよ(/・ω・)/

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