心は変わる、コロコロ変わる、それが本来の人間の成長に必要な事であり自由に最も必要で束縛の真逆にあるものという気づき
寝起き閃ワード 改心
先日、寝る前にとある言葉になるほど!と思って眠りに着いたのだけど、その後の目覚めのワードが「改心」だった
空は晴れ、心も晴れ、気持ち良い目覚めで、体を蝕んでいたような蟠りがなくなり、いい感じにポカポカ血行も良く、違う高次元のボディに意識が移ったかな?
サウナで整ったような感覚の目覚めと言えば伝わる人もいるかも(笑)
改心とは心を改めると書くのだけど、己の右にある攵はのぶんと言うらしく
意味は
撃つ、叩く、鞭打つ
つまり、こういう事になる
①己を打つ心
②己の心を打つ
③心を己で打つ
④蛇を打つ心
さて、あなたのマルチバース(多次元解釈)はどれがお好みですか?(笑)読んで字のごとく素直に受け止める右脳の直感的には己を律する自制
論理的に概念や哲学に置き換えたがる左脳は己の中に潜む蛇を打つ戒めも加えてきた
両方とも私の中で生まれた學、分岐したマルチバース(多次元解釈)、ここから掘り下げれば、いつも違う方向に広がるから面白い
という訳で直感ベースの右脳と論理的に分析する左脳の解説付きで
改心とは心変わり
寝る前にたまたまみた動画で
スピリチュアルな能力を見返りを求める方向に使っていないだろうか?
という言葉が刺さった
私は自分の夢世界の記憶を体感として持ち帰るのは何となく直感的にできてる特殊能力であると感覚的な右脳で無意識に思っていたのが、左脳で自覚して意識した結果
そして能力を自覚後、ある程度コントロールして使えるようになった
そのため、その能力を使って良い結果、望む結果に向かうべき!と左脳(論理・分析)が舵取りをしはじめたのだけど、それは無意識ではなく、自覚=自我による力の暴走のきっかけであり、根本のワクワクする事への導きとは違う方向へ向かい
潜在意識との分離の方向に進みかけていた
本当は直感的な寝起き閃がいっぱい来ているのに、伝えたい事がいっぱいあるのに、目に付いたくだらない目先のニュースの観測をして分析し
気づいてない人に危機を伝え、世の変化に別の流れ(多次元解釈)を生み出そうとする行為が既に…自分のための直感の導きではなく、自我による軌道修正であり、それは決まったドラマへの介入になってしまう
自由意志の選択だから別にいいけどさ( *¯ ³¯*)と潜在意識はストップかけないだけで…ワクワクすることじゃない(見たくない映画見てるようで正直気分が重くなる)
案の定、現実の危機を伝えると、嬉々としてその負のオーラを待っていた!と言わんばかりに、書いた瞬間に記事がコピペされて、私の言霊が部分読みされ、ねじ曲げられどこかで広がっていく
ページをコピーしていってどこかでリライトなり転載で利用してる人は、記事をコピーしていってるのがばれてないと思ってるかもしれないけど、ちゃんとIP付きで通知飛んできて確認してるからね?
コピーしていく事はぜんぜん構わないけれど、他人のふんどしで相撲を取るような真似をしても、そこから生まれる問題は自己責任なので、言霊の扱いにはご注意ください
その結果を見て、右脳はこう表現する
楽しいか?鯉に餌あげて?
このフィーリングで出てきた方便のような言葉を左脳で論理的に表現すると
人間は喜びや楽しみの明るい情報には寄ってこないけど、訃報、悲報、悲しみや苦しみ、怖い、痛い、ネガティブエネルギーに嬉々として寄ってくる。正確に言うなら、そのネガティブエネルギーに取り憑かれた人達が
人の幸せなど心地悪い
正論の説法など耳が痛い
善人ぶって感じ悪いと
負のオーラに動かされ、負のオーラに寄ってくる
私が特定のジャンル(5Gや酸化グラフェン)で世論を斜め切り捨てする気づきの記事を書けば、そういう情報を求める人が寄ってくるという餌をばら撒く事でもあり
正直な所、反応がいい(アクセス)のは承認欲求としては楽しいけど…本当にやりたいのはそれじゃねーんだよな?( ¯꒳¯ )と
特定ジャンル(世の中を憂う)の池に、それが好きな餌(5Gや陰謀ネタばらし)ばら撒き餌して、ワラワラ寄ってくる鯉のリアクション見て
本当にそれがしたいか?
お前はいつまでその池の鯉と戯れるん?
これが直感的な正直で素直な右脳を通したメッセージ…と左脳がやっと自覚した事で
心変わり=改心が起きた
凝り固まった概念の蛇を打つ
蛇とは何か?本質的な意味は先人がことわざにしている
それが「己」という自我そのものであり、自我とは世論や環境によって影響を受けて形成され、潜在意識と自由意志の障壁となる
つまりは忌むとは、己自身の自我(エゴ)を理解し、改心とは自らを鞭打つ行為
そして、目から鱗
何かがきっかけとなって、急に物事の事態がよく見え、理解できるようになるというような場合のたとえ
鱗といえば、魚をイメージするが、蛇にも鱗がある
どうして目から蛇の鱗が飛び出すのか?それは、己自身が蛇(エゴ)の目(色眼鏡)を通して歪んだ世界を見ていたという事に気づき、蛇を鞭打つから
目蓋はVR(意識が見せる仮想現実)だよ?
その湾曲したレンズ、くすんだ色眼鏡の誤魔化しの対極にあるのが、素直で正直。これは「正」しいと言う漢字の意味が重要
上と下の力を繋ぎ止めると書く
潜在意識と自我の行動を直で繋ぎとめる
これは八卦における天地の自然の氣の巡りをつなげる人=天地人にも通じるものがある
素直とは、主の糸と分解できる
主とは自由意志、糸は繋がり・絆
素直とは自由意志を直観で繋ぐ
つまり、素直で正直とは
自由意志の直感に従った行動をする事
ここに善悪と言う概念が入ると素直ではなくなってしまう
だから己=蛇を鞭打って目から鱗を落とせ → 改
己の心は変わる、誰でもコロコロ変わる
心変わりは善悪では無い
それを言葉として表面に出す
それを行動として表現する
その時に、今の立ち位置と言う概念の中では、それは間違いな事もある。だが間違いとは誰にもで起きる、間=空間が違うと言う事
この現実は嘘と言うルールで生み出された空間だから、その嘘の世界にいる限り本当の事を言えば間違いになる。嘘の世界では嘘が本当というあべこべな真っ暗森の世界
息苦しいし、生き苦しい(>_<)…と感じるのは、己がそんな世界が存在する事を認め、無理やり拒絶しようとするから、それは目の前に引き寄せられる
今世界は、不安を煽られ、恐怖を伝えられ、嫌がらせを嫌煙するという引き寄せの法則に巻き込まれている
憎まれっ子世に憚る
意味:人から憎まれるような人間のほうが、かえって世間では威勢をふるうもの
これは人間に限った事じゃない、出来事もそうで、嫌な気分になる事ほど心に影響するといういくつかの例え話
女子は小学生の時に男子にスカート捲りをされたと思う
大人の視点になると、男はエロイから、ませガキ、本能的な衝動だろうと講釈を垂れるが、素直な子供の気持ちになれば、気になる子の気を引きたいだけ
不器用だから気にして欲しい行動が嫌がらせになるだけの話。クラスでも嫌いな奴ほど記憶に残り、人畜無害な良い人的な存在だったほど記憶に残らない
これを神や神話の概念に当てはめればわかる
有名な神の名前は何故か現在も至る所で使われ続ける。それは有名だからでは無く、有名にする事で信仰の力、人に忘れられる事なく存在を望まれる力によって状態を維持している
こういう観点から捉えると
名を奪われた神は力を失っていく
逆に言えば伝承が語り継がれる限り、持続可能なSDGSだと思わないか?
嫌がらせをしてでも気を引きたい
嫌われてでも存在を気にして欲しい
恨まれてもいい、憎まれてもいい、歪んだ愛が産み落とした遺恨(icon)
そういうまとわりつく存在に対して最も有効な方法は、気にしない=存在を認めない
間違いに迷い込んだのは自分か?それとも自分の中に間違いが紛れたのか?
私は後者だと思います
だから改心
心に潜んだ蛇を鞭打って目から鱗を洗い流す
そのために明鏡止水です
そういえば、3神(天照・月詠・素戔嗚)は、黄泉から戻ったイザナギが目を洗ったら、ぽろっと目から生まれ落ちたというのが古事記の話でしたね?もしそれが目から落ちた鱗だとしたら?
3神(天照・月詠・素戔嗚)そのものが鱗(真実を歪ませる要因)=目蓋を覆う湾曲した色付き・コンタクトレンズ?半円?フラットアース?
イザナギとイザナミの両方が蛇だったら?あの世とこの世、精神と現実、次元をまたいだ二匹の蛇でウロボロス?で8の字∞のメビウスの輪?
OZの魔法使いでは、OZに会う条件はみんな緑の鍵付き色眼鏡(ブルーバックスクリーン用)をつけさせられたんですよ?(いろいろと繋がってきますね)
つまり、目から鱗が落ちるとは、素直で正直な意識が見る世界を自我(己という蛇)によって歪んで見せていたのを、自らを鞭打ち
鱗を飛ばすほどの改心の一撃!を食らう事
目から鱗が落ちるほどの恐怖なのか、見たものを忘れようと顔を洗って出直そうとした結果落ちた3匹の蛇の鱗、それが古事記の三神だったらおもしろいですね?
我々はイザナギの目から落ちた鱗が被さった世界(そういう設定)にいるんでしょうかね?
そんな感じで、神話の正体がただの偶像崇拝や方便に置き換わっていくと心は変わるんですよね
軽くなります
暖かくなります
明るくなります
穏やかになります
これを明軽穏暖(めいけいおんだん)と言います
…( ¯꒳¯ )私が今作りました Σ(゚д゚;)創作?!
穏やかに暖かくなる穏暖化は無害でいいと思います
そして水は記憶であり、そして写し鏡でもある
心の向こうにいる本当の自分の姿が見える
潜在意識と自我が再び手を取り合える
間違いの場違いの気違いの穢れ=気枯れを祓うか(気づいてから気にしない)
間違いの空間から離れるか(次元を超える)
いずれにせよ、きっかけは改心
改心=懺悔と言う罪の意識に結びつけるのも、一神教の教義と言う蛇の概念です。改心は悔いを改めるのでは無く、自分の中にいる蛇(概念)を打つ事なので、宗教を盲信する事自体が既に間違いの始まりなんだよね(笑)
蛇(自我)は脱皮を繰り返し形をかえて常に自分の中にいる
しかし、それは拒絶すればただの自己否定
向き合い、理解し、歩幅を合わせて共存していく。だから、自分の意志や行動が、蛇が時折みせてくる欲に目がくらんで見える歪んだ世界になじまないように、曇りなき眼でいるために改心して
顔を洗って出直せ
意味:過去の嫌なことやつまらぬことなどを、全てなかったこととして忘れ、現在に残さないという意味だそうです。この語源は「みそぎ」
おもしろいですね、禊とは身削ぎ、蛇にとって身とは鱗、その鱗の一部を顔を洗う事で流しだすと、目から鱗が飛び出して、曇ったレンズの色眼鏡が外れたように、物事の真理に気づくようになり、素直で正直でいられる!やっぱり先人の言霊はすげぇや(((uдu*)ゥンゥン
そうやって常に正気を保つ事が必要
キリスト?釈迦?よくできた設定で、存在してたかどうかなんてどうでもいい。ただ自分が哲学として観念すればするほど、目の前に不思議と道筋が繋がって行くのだから追えば追うほどワクワクする対象
ただそれだけのビーコン
意味:もともとは灯台やのろし、水路・航空・交通標識といった意味があり、何かを誘導したり、信号を送ったりするものや、その行為を指す言葉
今回の平沢進さんの歌も響きますね!
静寂に耳を澄ませ無形の地図の上、無い事に道の灯を見てた清い日へ
何故と問えば晒しては打つ人の目を死がふさぐ、あれがわが日々と消し去る波は清廉雑踏で君死せり量産の狂気の元、大声は闇を見せ揶揄で滅びる愛
誰か遥かで朽ちた日には静寂に身を寄せて嘘で人が殺められたと知る
弾道に君は立ちけして撃たれぬまま無い事に道の灯を見つめて動かず
そうなんですよ、あるはずなのに無い、隠される、隠蔽されているからこそ、静寂の闇に隠された無形の地図を灯す火を見て動かず
撃たれた人たちは、今、やっと目から鱗のワクチン騒動の闇に騙された事に気づき始め、それによって誰かその嘘で人しれず殺められた事を知る。呼びかける愛(冷静になれ)は揶揄=陰謀とからかうこと・デマだと侮辱する声にかき消されてきた
最初から、どんな状況になろうと最後まで薬依存の世の中になるくらいなら、徹底的に自然免疫を強化して未知のウイルス(生物兵器)すらも克服してやる!(# ゚Д゚)ノ
という強い意志を持ち続け、弾道にたった人はそれが無い事に道の灯を見つめて動かず(噂や不安に揺らがない)
それが未接種者の今の現状であり、それはこれからも自由意志で行動を決めた人たちが進んでいく無形の地図(創造する新しい未来)の灯し火(ビーコン・鬼火)
いつの時代に誰がどう建てたかわからないけれど、今の私にとっては先人が残した知恵とシンボルに新たな時代の解釈と想いの力を与える事に夢中である
ただそれだけ
カタカムナ41首のワクミハラ・ナルマカヒ・カタカムナです
そう、こういう事に時間をひたすら使いたい、没頭したい!…という、素直で正直な想念を妨害していたのが、最近の夢の特殊能力を自覚して、それを世のため人の為にとか、それがすでに蛇の鱗を通してみている世界
これからデストピアになっていく道筋の水先案内人みたいな
ホラーメインの遊園地を盛り上げるキャストみたいな
そうなってほしくない!と気づいてる人が先だしでいえばいうほど、多くの人をそっちに向かわせてしまうのだから、都市伝説系ユーチューバーや陰謀を扱う人はそろそろ方向性を変えたほうがいいと思う
そもそも人の為ってダメなんですよ
人+為=偽
真偽、真逆ですやん(*゚∀゚)アヒャヒャ Σ(゚д゚;)
私の改心のきっかけになった一言
スピリチュアルな能力を見返りを求める方向に使っていないだろうか?
見返り=お金と言う意味では、全く持って興味が無いので、それは無いな〜と思ってたけど、人を導くって言う事を意識してもそれに当てはまってしまうのかもしれない
自分は1人2人を連れて歩く気分でも、それで道を切り開けば、その足跡を辿って一体どれほどの潜在的な人々を先導する事になるのか、これってある意味、新たなカルマ(業)を生み出してしまう
教祖になるつもりがなくても教祖になってしまう
死後キリストが弟子に利用されたように
死後空海が弘法大使に神格化されたように
これはわかりやすく例えるなら、本家アーティストが曲を産み出せば、歌ってみたが量産されるようなもので、本家が歌を出さなければ、歌ってみたは永遠に産まれない
どこに行っても特殊能力が人目を引いてしまい、良かれや人の為と教えを施した弟子とかが後に大罪を犯してしまう
だから仙人と呼ばれる人は人から離れる事で、人(概念)を気にする事がなくなり、本当にやりたい事をやりたいだけ好きにやれる環境(別次元)へ行くのかも?
ドラゴンクエストには会心の一撃と言うラッキーパンチのような運頼みの表現があった
意味:思いがけず上手く行く事
これは肉体的に強烈なダメージを当てると言う表現だが、精神的にダメージを受けるのが改心の一撃だと思う
もしかしたら、モンスターが仲間になるきっかけになるのが改心かも?・・そういえば、ドラクエでモンスターが仲間になるシステムが搭載されたのって…
ドラクエ「V」だね?
そのドラクエVが映画化された時の裏設定(ネタばれ)はドラクエ「VR」だね?
当時は原作と違いすぎる!とか叩かれたけど、これはドラクエを踏み台にした将来的なVR空間であなたたち一人ひとりが勇者になるんだよ?という未来予告
今までV(vaccine virus)を盲信していた魔王の命令を聞いていたモンスター達も、改心の一撃(ワクチン効果の捏造の真実)で仲間になりたそうにこっち(自然免疫を強める派)を見てる状況になってきましたね
改心、心を改める
心に入った蛇(寄生概念・常識・己)を討つ
心は変わる、コロコロ変わる
そこに善悪はない
間違いを認め、素直に正直になる。嘘を嘘として認め、嘘から出て真になる
そうすれば重さや苦しさから解放されて終着なき執着を手放し、個室と言う固執から離れ、確執も角質も取れて、心も体も綺麗になって、全力で新たな創造を楽しめる
そんな、私が今、好奇心が夢中になってるのに保留してるのが…
①アインシュタインの相対性理論E=mc2の多次元解釈
②古流の日本人の歩き方
③日本人体系の構造力学に乗っ取った剣術
④漢字のバラシ解読
…でも目先の凄く(*´д`*)ハァハァしてるのが買ったけど全然プレイしてないVRゲーム( ¯꒳¯ )Σ(゚д゚;)
やっぱり自分の心には素直で正直であるべきなので
(゚Д゚≡゚Д゚)ε≡≡ヘ( ´Д`)ノ遊ぶぜ!
今日の話は
改心=己を打つ心→己とは蛇・自我。自らを鞭で打って改心するときに、目から鱗が飛び出して、今まで見えなかった世界の真理が見えるようになっていく
目に鱗・色眼鏡・湾曲したレンズ=半円・ドーム・球体VR=目蓋
曇りなき眼、嘘から出た真(俯瞰・次元上昇)で見ると、二次元フラットアース
なんてな(゚∀゚)アヒャ Σ(゚Д゚)
コメント連投し過ぎで恐縮しつつ…どうも気になって仕方ないのです!昔の日本人の歩き方と剣術…と言う物が。
これは、ナンバ歩き?だったりしませんか?運動会の行進で同じ方の手足が出るやつです。運動会の帰りに父親に無駄のない良い歩き方だと慰められた数年後、合気道の手刀打ちの練習中に「アレだ。アノ無駄のない動きだ」を実感した興味深いモノなのですが。
昔の日本人の歩き方と剣術について…なんば歩きの話ならもちろん、別の話でも凄く興味があります。
気になって仕方ないです。是非そのお話キボンヌ!
…と言いたい程にとても楽しみにしております(笑
ナカジーさん いらっしゃい
そう最初はナンバ歩き(両手両足)同時に竹馬感覚から取り組み始めて、次は魂合気(カタカムナ)のマノスベの歩き方(かかとのほうに重心)と、山や段差のある丘など、いろいろと偶然にも歩き方テスト環境(キャンプ)にも恵まれ、どれが・・と試していった結果
大事なのは腰を据えると、どちらを意識する事もなく容易にできる「自然体ムーブに近い」と感じた事です。重い荷物を手に持って運んでいても、腰が入ってるとぜんぜん苦になりませんでした。そもそも腰が入った状態は収まりがいいので、姿勢が悪くならないです
むしろそれに慣れると、西洋的な椅子に座るのがきつく、胡坐や正座のほうが楽に感じます(笑)
おそらく古武術や武を体系化して練度を高めてきたのが、ナンバ歩きや相手の氣にあわせる合気なのかもしれませんが、私が求めるのは日常的にその歩きや立ち方をしても、疲れないという昔の平均的な日本人の動作なので、たぶん、そのきっかけが腰です
腰が入って、なおかつ重心がかかとよりで、骨の一番硬い部分に体重のすべてが乗る事で、足の指へ負荷もなく、文字通り握る・押し返す力も使え、全身が自由に動くように緊張が抜けます。緊張=テンションがかかってないので、どこからでもどの動作でも即座に力が伝達されます
土ふまずを土につけろ!って感じですね。そうすれば
前に進む力はかかとで地面を蹴る→足指で地面をつかむ
後ろに下がる力は足指で地面を押す→かかとで地面を蹴る
これマジで瞬間ダッシュできるんで、1~2m程度の間合いならいっき詰める動作に理に叶ってます。その代わり、どん!みたいな地面をかかとが打つ爆発音が先になってしまいますが(笑)
それこそ、足の小指一本動かした影響が、それを伝達して、反射的に手を動かすなど、力の発生源の起点が見えないという域にまで達すれば、初期動作を小さく感づかれないようにすれば、合気道の達人のような事ができるのかもしれませんが
私はもともと武術や武道に縁がないため、そこまで突き詰める氣はなくて、私は文字通り、昔の日本人の疲れない姿勢とは?という研究に本腰を入れて気づけた結果、腰を据えた所で満足してしまったんですよね(笑)
でも、その腰を起点にすると、相撲にしても剣道にしても、空手にしても、合気道にしても、ボクシングにしても、腰という上下の力をつなぎとめる=正・静・制であり、正気=中心は己で決める=重心=どこに重きを置くか?で動の回転や遠心力が変わってくるような
それが攻守でもあり、攻に転ずれば守がおろそかに、守に転ずれば攻が甘くなる、先手か後手か、その力の流れを陰陽でも表現できそうです
内に溜めたエネルギーを打つ
陰極まれば陽となる
外から入り込むエネルギーを利用するか
陽極まれば陰となる
私は基本的に争いは嫌いですが、これもまた武術という人が体から生み出す陰陽エネルギーの引用の哲学的な問答の方法なのかもしれませんね
でも、今は長時間立ってても疲れないでむしろ寝てしまう事すらできる自然体で立つを模索すると、自然と自分の体の中心を微調整する事に全意識が持っていかれて、半瞑想状態になれる幸せに気付いてしまいました(笑)
剣術や武道の気づきにおいて一番のポイントは漢字に隠されていた!・・という話は近いうちにお伝えします( ̄ー ̄)ニヤリ