好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

達観すれば世の中が変わるのでは無く余の中が変わる余生

『余生』とは、『夢の中=理想の生』の事だと感覚と言葉が一致した事に気づいた。そう考えれば、釈迦にとっての涅槃寂静の時間はこの上ない極楽だっただろうという人の変容は『世の中』ではなく『余の中』で起きると達観したお話

達観すれば世の中が変わるのでは無く余の中が変わる余生

『生命』を自然の中で向き合えば潜在的に恐れているのは『生への執着』
しかし終わってみれば『取り越し苦労』

設けた『草臥』はなんだったのか?
苦の旅の疲れで『苦旅れ』か?(笑)

だけどそれは『人事を尽くしてやり切った』からこそ綺麗さっぱり『緊張から解放』された足るを知る『余韻の余生(天命)』

「有事は何事も無かった」と『無事』を楽しむ
『何も無いを楽しめる』のは『有事を想定』したから

その想定した『仮想を生き切った達観』ゆえの…世の中の見え方が変わった『生きるに余る世』の姿

自然はそんな『複雑』なもんじゃ無い
不自然に複雑にしてるのは『人』なのだと
『人として生きるという執着』における『人の為』という『偽』

人格と品格の檻──縁起を演じる人類という道理の舞台

この世の『生』はそれを『心と吾』が素直に向き合い
悟りを覚える=『覚悟を創る事』なのだ

そうすれば『生まれ変わろう』が同じ事
『生まれ変わらなくても』同じ事

転ばぬ先の杖ならぬ
転ばぬ先世の『意志杖=礎=三和土』にする

三和土直された『安定した地』がなければ
人また『不安定に輪廻を転がり生きる』だけ

自=自ら
意=立った日の心、音の心
色・識=思想、認識、受けた想いと行いが認識になる=受想行識

つまりは『次元』とは『今の自分が積み重ねた結果』から生まれる次の『元』となる空間
そうなると、今この空間も『元』があっての『次』に進んだ『結果』だから

『間違い』とは、元から進む『次の間が違った』という事であり、間違いを素直に認めたら『元に戻るだけ』でいいのに

間違いを『失敗として認めたくない』から、進めば何とかなると『間違いに間違い』を重ね、その度に、「間違いではない!これでいいのだ!」と『嘘に嘘』を重ねて

『元がなんだか』わからなくなった流れに

「こっちだよ?ついてくるよね?」と『忖度』に付き合う馬鹿は『損託』の奴隷。『付き合う度』に『損を託』され、『嘘と間違い』を繰り返す『孫(三代目)を託』され

面倒みきれなくなって、いよいよ『馬鹿な忖度の損托』に「そんな馬鹿に付き合いきれるか!」と権力から離れ『世捨て人』
これでやっとひとつ『間違いの元から前の元』に戻れた時に

(今までの人生はなんだったんだ?・・)と思うほどに『嘘から出た真』が見る『景色』は変わる。景気の良い色は、景気によって色も悪くなる、それが人の世の『景教の色=宗教思想』

景気という風説から解き明かす、末法の世を生き抜く自己解釈の言霊』

その『人の世の景気』を利用して間違いに間違いを重ね、嘘に嘘を重ね、『旗振り扇動、ハーメルンの笛吹』をしているものが『道化(わざと)』に見えてくる

それは、立ち止まり『自己を探求する者の邪魔にならないよう』に『人の気』を引いて遠ざける『陽動』
自己を探求し始めた時、『誘惑の価値観の押し付け』は自由意志を邪魔する求めていない『迷惑行為』
また自己を探求した時、『違う間へ移行とするものを引き留めるの』も『迷惑行為』

一旦、『止まる』だけで遠ざかる景色
『自己は動いていない』のに『空間だけ』動いていく

色即是空・空即是色、万物流転、諸行無常、栄枯盛衰、森羅万象
その『流れが自然の道理』という法則の中で『座して観る』というのは

人生とは『流れ』であるが、その流れは『選択で道筋』が変わる
これを『阿弥陀久慈の観点』からみれば、必ずどこかに辿り着く

この理想の姿を成りたい仏、『成仏して虚空蔵菩薩になる』という達観であり、『ゴール(目指す目的)』が見えてからの『逆算で流れ』が起きる

未来から今、そして過去へと流れる『逆行人生』が始まり、『間違いの間』から元へ元へと次々戻り、『選択を間違った所』を見つけ

『体は現象(過ぎ去った)』だが、『心は潜象(潜む)』として、『想像して創造』をやり直す
ここで、『世の中にはタイムリミット』があるから、気づいた時にはもう『余生』

『余りの生』をどう生きる事が、『次の元を安定させる事』ができるか?
この人生は『気づく』ため、そして『次の元の三和土を築く為』に有った

『無駄』に見えて『多くの問題と向き合い失敗を経験』したからこそ、いい『三和土』になった
この『三和土あげた魂』を『根性=根付く性質』にして繁栄させていく

繁栄とは『繋いで栄える=和を足していく』

そういう『次の元=次元のステージが出来上がった』という、『体感無くして理解無し』の実感と達成感
これが涅槃寂静、静かに寝半で変性意識に色んな虚空蔵菩薩=『未来の可能性を生み出す釈迦の智慧=明晰な夢』

だから、『余の中=必要ないもの=夢の中』が変わる
余生とは夢で『理想の現実』を思い描いて『涅槃寂静し入滅する(意識が離れる)まで』の時間

綺麗にまとまった所で、さらに『解釈を昇華』させるのがカタカムナの言霊

よせい
新しい/陽を引き受ける現象/伝わる

新しい人生の責任が伝わる でもあり
陽気を引きうけた現象=理想 でもあり

面白い事に『理想の極楽』と『責任の地獄』でもある
変性意識はその両方を『明晰な夢』として向き合っている

ある意味で、人生の最後に『業の回収を一気にまとめて行う』を仮想空間でもしかして・・!?という『模試を可視した掌の上で躍らされるボーナスタイム』ともいえるかもしれない

模試可視手(もしかして)?釈迦の掌で巡る仮想空間の旅

・・と、同時に『明晰夢』は『終わりが近い』のかもしれない

なぜなら、明晰夢という別の現実の探求に夢中になるという時点で
今のこの現実は眼中に無い=存在していない、むしろ存在が煩わしいと邪魔にもなる

先にも言ったように、人の世の流れは道化が陽動して空間事動かしていく
煩わしいとお互いに感じる問題は、止まって様子見してれば自然に遠ざかる

縁(円)が繋がってれば、歯車、車輪の如く回転の影響を受けるが
その縁の間と繋がっていければ、ただ通り過ぎていく吹けば飛ぶ、荒野の草と同じの軽い現実

『現実が重い』と感じるのは、どっか『連結した縁の車輪』が『自力で動かないで他力本願で楽しよう』としているから
一人が楽しだすと、皆も楽しだし、最終的には連結を切り離されて前にも後ろにも進めなくなるAI社会の未来

・・というトロッコ問題の先に起きる問題も仮想で体験済みだから、遠くの汽笛の音と間に合わないブレーキ音の響きを聞いて

「まーそうなるだろう」と『忖度、損托、孫托の他力本願の世の中』では『そん』なもんだ(因果応報)

その列車に乗らない、繋がらない、ただそれだけ見極めればいい
・・それがかつては自意識を自覚する覚悟が無かったから『できなかった』のだ

それが『できなかった=間違い』だと、気づきを築いた今だからこそ
余生で「次の元はそうはならないな!」と想定、想像に定め=法則を戒める

こういう作業が『余生=夢中』で起きている『理想世界の創造シミュレーション』
で、その想像世界のデバッガーとして、分身の何も知らないが心は今の自分が味わう

意識して創造された世界を、味わう事で、世界を意識する事に『意味』が生まれる
「なぜ私はこの世界に生まれるという興味を実行したのか?」

フォーカスされた世界だけが描画される ― 夢で体感した意識の演算処理

と、『言っている現実』が、それに『気づく前の元』が何だったのかもわからない
・・わからないけど、わかっている事は・・

忖度=付き合う度
損托=損を託される
孫托=孫(縁もゆかりねない負の遺産)の面倒を託される

これらは他力本願の価値観を受け入れると言う事だから
それに関わったらもう先の見えたトロッコ問題だと戒めの鬼門に封印

この『理想の世界で封印された3つの事』が、今の現実で『当たり前に既得権益として蔓延』している
それは釈迦が『入滅後』に生まれた世界、『付き合いきれない=一切皆苦』と

『可能性』を見限った『不思議』になってしまった世界
だから、不思議になった世界で、不可思議=無理を何故?と思い議論する

それが『消えた可能性』を追う『好奇心』という気づき
好奇心が反応するという事は、そに何かがあるとここ掘れワンワン(一の位置)

一が見つかれば、一事は万事、一は全、全は一
一の原子の中に無限のニュートリノが内包されているように

その位置に夢中になる

取るに足らない小さな世界と見限る者達には決して見えない
小さな世界に夢現=夢=余りが現れる兆しを見つけたら次の元=『次元』はその『瞬間』に生まれる

だからね、余生とは、夢の中を生きる事であり、それは次元を生み出すための理想の想像と創造の中で、自分自身をテストてして、失敗体感を含めて戒めを想定するという・・

ま、『人生創造のトライアンドエラーを短期間で繰り返しているプログラム構築』のようなものだけど

物事の捉え方を世の中(顔色の思想を伺う現実)で観てるか
余の中(夢の中の理想構築シミュレーション)で観てるかで違うのは

『目先の問題(欲)』を見ているか?
『その欲の果て=問題解決』を見ているか?

問題(欲)と向き合い→仮想の想像世界を創造
自分だったら?→その仮想世界へ意識のデータコビー
この時に、その仮想世界をVR体験させるのが、夢

故に、夢でクリア至った問題は、同じではなくてもスケールが違う相似ならば、解けない問題ではないとなり、それは現実に解く解かないではなく

『解き方(法則)を知って満足した』という事 ←ここ重要

明晰夢という空間は
想像できるものが世界に現れる
想像できないものは世界に反映されない

つまり、『解き方を理解』したものは『問題』としては現れない
私の明晰夢には化け物=得体の知れないメタファーはあまり現れない

ほとんどが、現実と変わりがない人間世界だが、
それは『人の形をした戒めの鬼』であり『先人の智慧の伝承』として映る

「・・じゃ、別に鬼とか化け物と言い換えなくてもいいじゃん!」と思うだろう
そのとおり、「祟りがあるから鬼門の禁忌の封印に近づくな!」と言われてきた存在は

ちゃんと向き合えば、『問題無い』と嘘と間違いを広げる世の中に対し
「それは問題だ!因果関係不明にするな!ちゃんと不可思議しろ!」と異論を訴えたが為に

ただ『口封じ』されて、『死人に口なし』と『伝えたい事も伝えられない世の中に嘆いていた存在』であり
『余生の中=夢で自己変異』しようと、『自己探求を始めた者』は『聞く耳を持つ』として宿る

キリストにサタン(誘惑)が付きまとったように
仏陀にマーラ(煩悩)がつきまとったように

『余生』とは、『夢の中=理想の生』の事だと気づいた
そう考えれば、釈迦にとっての涅槃寂静の時間はこの上ない極楽だっただろう

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

Return Top