好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

神苦仏陀 経訓詠みと神恩詠み

寝起き閃ワード 経訓…訓読みと音読み、私の漢字解釈が観世音の感覚と素直に形分解読みをしてたが、神仏一体(漢字)を分離して捉えていた経訓読みと神音読みと気づいたら、え?これ…法華経訓読だった!という気づき

教訓とは

おしえさとすこと。またその言葉。

ま、これが一般的で、主に『失敗して物事を身に染みて理解』した時に、『戒めの言葉』として「いい教訓になったな」と気を引き締め、「その過ちを繰り返すなよ!」と『後世に伝え残す項目』

なのだけど…

それは『未経験』の奴が、『教科書通りにただ言葉を教える』のでは

…違くね?

『体験』ありきの『しくじり先生』だからこそ、その『過程にある詳細を伝承』できる訳で…

『教』の部分に『違和感』を感じたので、今日は経典の方から『経訓』という言葉を思いついた

『訓読み』のいい所は、『ひとつで理解』できる事
あるいは『送り仮名』を持って理解に至る事

とりあえず、適当に 『山』 で言えば

訓読みは やま
音読みは さん

さて、ここにも実は面白い発見をした

ヤマ・ニヤマ→『戒律・法則』
さん → 『三千世界 SUN 太陽』

やはり『経典』から来ている…と感じた時

そもそも…『経訓』って言葉はあるのか?造語なのか?を調べたら…驚きのシンクロニシティ!Σ(゚д゚;)

法華経訓読?!

経訓

経書の訓詁(くんこ)。経書の解釈。〔後漢書‐鄭康成伝論〕

訓詁

《「訓」は解釈、「詁」は古語の意》古い言葉の字句の意義を解釈すること。「訓詁注釈」

中国古代の聖賢の教えを述べた書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。経籍。

法華経訓読…という言葉が出てきた事

かつての夢を通して、私は『古代律令制の三省』に関わる過去世の縁があったのか、難しい言葉が妙に引っかかった

三省はスクナ(皇帝)の目という夢

『妙法蓮華経』はこうやって『縁ある者』が出逢うのだね(´-`)oO

『訓詁』が特に私の中で刺さる表現
『古語を解釈する』という『温故知新』
『故事成語』は事故と成った語りの『経訓』

ほら、つまり

『体感(実践)が先』『理解(知識)は後から』着いてくると、日々の自分が『口』に出していた『真言』

『訓詁を知らず』とも『古語を解釈する』という『門前の小僧は習わぬ経を読んでいた』のだ

そんな『門外漢』『経訓』『独自解釈の妙法蓮華経』で読み解くとこうなる

糸又土言川
(主の)糸は又土に
言うは川の流れに

これは『自然の摂理』『人の愚かさ』を端的に捉え達観した景色が見える

まるで「この世は思い通りにはならない」という涅槃寂静の『生病老死』にも通じる事で

一切皆苦と生病老死の認識で分岐するパラレル

『砂に書いたラブレター』と表現しよか

『伝えたい想い』があるから『主』は『意図』を遺す
しかし、それは『実践無くして理解できるもの』ではなく、理解する頃には

糸は又土に、言うは川の流れに…

砂に書いたラブレターは『消える前しか読めない』ように

「なんか…あそこに文字書いてたで?」
知らんけど┓(^ワ^)┏ ← ただ教える訓

『中身が無い言葉だけ教える教育』では
『古語』は知っても『故事成語』はわからない

なぜそのラブレターを『砂に書いた』のか?
その『行動の意図』までは伝わらない

『妙な方法』を『泥のつかない清い水(蓮華)』のような『素直な心で正直にやった奴』しか理解出来ない

「アーナンダ!僧言う事か!」
『阿難』という釈迦の話を最も多く聞いた弟子

『多聞第一』…でもこれ解釈を

『たもん』と詠むか、『たぶん』と読むかで『重さも解釈』も『存在意義』すら変わって来る

たぶんと呼べば『曖昧な多分』になる
『真言の教えを護る』となると『多聞天』(密教の守護鬼)

阿難無き世界
アヌンナキの世界は『二つ』産まれる訳だ

続 阿南無き心の主命入る民へ 傾向と対策の傾国と警告

『真言(自分)』を護るか
『偽=人の為』とするか=多分

これもまた『一切』を捨て『孤高の上』を目指す『初期仏教』と
それ以外の全ての者=『釈迦の邪魔をしそうな思想の陽動』と考えれば…

『孤高、真言、蓮華の心』を持つ者は、『釈迦の教え』なき『廃仏毀釈の世の中』に『違和感』を感じ・・『妙な光』…『妙な音』…に勘づいて、それを『探求する事が全て』になっていく

気がつけば『妙』は『明』へと変わり『明光、明音』と感じている感覚が『明らか』になっていく

『教えられている事』に共鳴せず、『禁忌や禁止』と呼ばれてレッテルで隠されている所に『妙な気配』を感じるからこそ

『門下生』ではなく、『門前の小僧(漢字)』でしか『習わぬ経訓は詠めない』のである

ここが『南無阿弥陀仏』と『南無妙法蓮華経』の違いを独自感覚で

お釈迦様=物が『おしゃか(壊れる)の様』になる
阿弥陀仏は、『紛争が全て崩れた仏』→『自然に還る』

『廃仏毀釈』で一旦、『正法は無』に還る

南無妙法蓮華は
『妙な方法』の『正直な清い水の心』

自然に還った仏の『糸は又土』に『言う川の流れ』に『妙な見方をする水の心』は見つけてしまう

「川…淀でね?汚くね?」(´・ω・`)Σ(゚д゚;)

『言葉の流れ』がおかしい、正しくない・・『源流』の『上から流れてくる教えの言葉』の解釈が『変な混ぜ物』が入ってるぞ?と

『教』という文字の組み合わせは
『土の子』『仏陀切り(袈裟斬り)』『鞭で叩く』

という組み合わせなんだよね

これ…また面白いのが
仏陀切る→袈裟斬り→衣(けさ)の上に加沙→シャカ(サカ)が出てくる

『サカ(釈迦)族を根絶やし』にする『廃仏毀釈』を一言で書いてる

『経訓』が『教訓』になるだけで、『経典を貶める言葉の呪術』の完成

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い!」
当然、その『訓詁』まで『書き換えられる』だろう

「お前らの教えなど、こーして、あーして、敵を増やしてやろう」

多分、どっかの時代で『こうやつ』がいたら、『その後の教訓』は『全て間違い』の方向に行くから、『ペンは剣よりも強し』

その『紙様』を『神様』として『偶像して崇拝する力』が生まれる

『教科書(聖書)』は絶対!ってか?

『言う川の流れ』が汚れ、淀み、そのうち『停滞して腐る』から、『腐った言葉』が生まれ、それを『流行り』で意図的に停滞を流そうとして『死語』が増え、いよいよ『流れが止まる』と

「もう言葉いらなくね?」と『言語を放棄』する
問答無用の言語道断が起きる=言論弾圧、世論操作

こうして文化は消えていく 行政で使う文字、70万→7万字

「この言葉は使ってはいけません、禁忌です」

さて、『現代故事成語』のお勉強です

『コロナ禍』に『専門家と名乗る者達』が『教訓』として『何も理解してないのに教えた方法』は『全て間違って』いて

その「全てが間違っている!!」と『魂の声』を上げていた『心に正直に正しい声を上げていた人達』から『先に世を去りました』

また地上の星がひとつ消えた

これが『経訓』であり『訓詁』です
言川言古

言うのは『かつての流れ』
言うのは『古い話』

『今は昔』の話だが
『今も昔』と同じ今昔物語

それが『経典の訓詁』の訓読み
『門外』に伝わりし『漢字の生活(実践)の知恵』から生まれる『先世見の読解力』

大和の心 先世見の言伝は左記(左寄り思想)読み

またこの『読む』という漢字も
『詠む』を貶める構成

言うを『売る』
言うを『永く』

まさに『目先の欲の号外』
『語り継ぐ』を『切り取る』

…こうやって…『妙な見方』をするのは『心に正直』に『与えられた意味や解釈』を聞いた時、『音の響き』と『心の振動』が『共鳴』してないんですよね

『納悳』出来ない
『鵜呑み』に出来ない

噛み砕いて『神』砕いて
咀嚼して『祖借』しなければ

呑み込めない!…

神=『示申』
砕=意志の『九十(事・苦渋)』
祖借=祖を借りる、『祖の人の昔』

本当に『神』か?と『心が示し申す』
偽=『人の為』の『真偽を問う』ために
『祖の人昔の知恵』を借りる

『判断』に困ったら『分解』する
分解して『訓詁を元』に『今昔』を問う

「昔から『この味』だったか?」
これを覚えているのは『祖先』である

『血』となり『肉』となり、『自然の共存細菌』として、『免疫力』として、『生きる生活の知恵そのものの経典』になった

『かつての形』が『壊れたお釈迦様』、阿弥陀仏で『崩れて仏』となり、糸は又土に還り言う川の水となって、『経訓を継承』した『自己解釈をする助け』になる

そうか、だから『明鏡止水の観世音』なのか!
『水のように清い心』に落ち着く

これが『蓮華』
その『水』が形が無くなった『宿した先祖が生きてる』という事か

あ、言葉が閃いた

神苦仏陀

神は『苦しみ』を与え
仏は『崩壊』する

…って良い意味ないじゃん!

と思うでしょ?(ヾノ・∀・` )Σ(゚д゚;)

神=示し申す→『心』
苦しい…というのは感情では無く『体感』

喜怒哀楽ではなく、それに『伴う全て』

喜びで『胸がはち切れそう』で…苦しい
怒りで『頭が割れそう』で…苦しい
哀しみで『胸が締め付けられ』…苦しい
楽しくて『腹がよじれて』…苦しい

この苦しいという『感覚』は『心が身体』に与えている
それによって『生を活きている生活の実感』を得る

一方で『仏→忌→己の心』

『自己』という関係性に置いて
『自』が『大いなる親の心』ならば
『己』はそこから産まれた『子の心』

子は色んな事に『意欲と好奇心』を抱き「なんでも体験してみたい!」と『感動』を求める

ここでさっきの『喜怒哀楽体験』を『忌=エゴ』として『満たされ過ぎて苦しさを伴う』から、「もう必要ない」と思ったら『禁忌=とどめる己の心』にする

これは例えるなら

子供の頃は『痛み』の度に『泣いていた』
泣けば『周りが反応』してくれるから

大人になれば『痛み』で泣いた所で、周りは『さらに弱みに漬け込んで来る』から泣く事は無くなると『泣くを禁忌』にするように

体験をさせる『自=示申→神』
体験を持って『禁忌とする自分→仏』

『体感』無くして『理解』なし
『理解』したら『禁忌の経訓』として『古語』になり
それは『訓詁』として…

書いた所で『伝わらない』(思い通りにならない)
砂に書いたラブレター(笑)

この『崩壊、形』が無くなる
そこに『こだわり=執着』が無くなる

すると、ここだけに書いた『経訓』は、『自然』を巡って『それを求める者に寄生』する。「ただいま!」と『居心地がいい息=自心が苦しくない理想』へと帰省する

唯今(居間)にいるだけで執着が去る陽動

『神』砕いて=『示し申す心』の意志の『苦渋』
苦渋を舐める=『辛い体験』をする

この苦渋もまた『妙な捉え方』をすれば『前向きな形』に見えてくる

草古氵止めて中心へ/から
自然の古い山水止め中へ

『水の湧き出る穴』は『水の流れ』が止まらないと、その『出処を辿る事』は出来ない

水から止める意志=『根源・ルーツ』
自ら止める意志=『禁忌と向き合う』

poolしてLOOPしてる夢と現実の心の水の浄化

苦渋を舐める?

「苦渋をなめる」は誤用であり、正しい表現は「苦汁をなめる」です。これは、つらい経験や悔しさ、屈辱などを繰り返し味わうことを意味し、新人時代の失敗や不遇な状況など、非常に苦しい経験をした際によく使われる表現です

ははは(≧∇≦)莫迦が引っかかとる

舐める=『舌』に引っ張られて『味』に寄せて『汁』にしてどうする、それが『教訓』の間違いなんだよ

舐めるなよwww?
なめんじゃねーよ!

『苦渋』はあえて『嘗(な)める』のだよ!

嘗とは味わう、試す、こころみる、経験する

ね?これが法華経なんよ
(方法の教科書では無く生活の知恵)

見切り発車で、取り合えず『訓詁』として伝わってる言葉の『漢字のままに分解』して読んで見ると

『苦渋の意味』がちゃんと『詠める』

正しく読めない者が「舐める…だし、舌なんだから味関連で、きっと汁の方がいいだろう!」と置き換えると

『止めるという意志』が無くなる
山水十=山の水が全て→垂れ流し

流れの元の穴を辿る為の『嘗める』も消える
『試みて経験する(失敗も含めて)』が無くなる

ちゃんと詠め(´・ω・`)言う永く
『舐めてる』から『目先の号外』ばかり『読む』→言って売る

『売る為』なら『何でもするのが商売』だから『事件の捏造』?そんなものは『人の為=偽のお家芸』

法華経の実践者、門外漢を詠む
門前の小僧=『心に素直に神仏宿す者』は、『経訓詁』としてこれを覚えとけば、『目先の欲』に流されず『禁忌』できる

神苦仏陀
神(示し申す)は苦しみ=『自然の古き』を与え
仏は形ある者が滅び去り『循環する』自然へ導く

『今は昔』へ還り、『今が昔』となって繰り返す
先祖は『子孫の過去』となり、子孫は『先祖の未来』となる

『人の形』は『後』から着いてくる

それが体感無くして理解なし

砂に書いたラブレター
思い通りには伝わらないもんさ

音読みの説明忘れてたなw

音読みは神の恩詠み

山→さん→太陽
海→かい→ Χ(かい)、キリストを象徴

さてさて、これは『宗教の匂い』がする…けど、教=土の子を『仏陀切って鞭で叩くがある』という事は…

元は『経典(実践)』だったはずなので
太陽神の子=統治者・導く者→『キリスト』

という意味では、山(太陽)から湧き出た水(海)

『山から湧き出た山水』ならば、それは『自然の生命の恩恵』として不思議な景色が見えるけど『恩』で繋がっている

『太陽の熱』が『氷』を溶かして『海が産まれた』としたら?地球という環境においては、『かつては凍らされていた』という『地球氷河期仮説(誰も見てない)』がある

そうなると、キリストは『母なる海からやってきた』という、『母親の謎がひとつ巡る経路』に見えてくる

仮に、聖母の呼ばれる『処女懐妊』も、目に見えない『細菌感染』という形で『寄生して宿った』とするなら…『スピーシーズ(スターシード)』とも言えるが

それは『恩』じゃなくて・・『因を支える心=寄生されちゃった後』の祭り・・あまりにも『エイリアン宗教寄り』になるので、なんか(´-`)oOつまんね Σ(゚д゚;)

だから私は『山(やま)と海(うみ)』
この『訓詁詠み』の方が波動的に落ち着きます

ヤマは『戒律』、つまりは「かつてそんな事があったから戒めよ」という『訓戒』

海は生みの親、生む、『無から有を生み出す』と同時に、『経訓』として、『土に還り、川の流れ』で至った『先祖達が還った場所』でもある

その『かつての生き様を持った水の流れ』が、『太陽熱で気化』して『自然の様々な細菌』と共に、『陸で生きる人に風として吹き抜け浸透』して

「気に入った奴には寄生しよう」として『風邪』になり、『免疫』として正体は『先祖が旅の宿を求めて来てた』ようなもので

「一宿一飯の恩義として、免疫になる知恵を授ける(ヾノ・∀・` )(≧∇≦)勉強」

こんな感じだから

ある時、突然、どこ吹く風のように『気の向くままに現れた先祖』がこんな小ネタを投下していく

訓読みと音読みは

『神』恩読みと
『仏』経訓詠みと
『妙法蓮華』で詠んでみな?

その心は?(´・ω・`)

Come on(」゚Д゚)」oh my God
観音(」゚Д゚)」お前神

シンプル哲学 oh my Godの自業自得とお前ゴッド

シンプル哲学 come on に隠れた神仏

神は『生き様』を与え
仏は『死に様』を観る
それは内に宿した『一体の経訓』

どうせ『仏の真理』を伝えた所で生きる間は『神の領域』

『死に際』に遺した『置き手紙の言伝』は
『風化』していく砂に書いたラブレター

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