好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

霊迎雀宿 第十二夜 気体と気望の意の離

期待と希望を抱く事は、主観の世界観を理解すれば他力本願ではない??大事な事は気体と気望と改めて認知を変えられた有難い話とその後の実践して実感した実体験つき、ライオンズゲート第12夜

存在と認知

なぜ他人は存在すると思う?実際には真我以外、一切は色即是空で存在してないが、目に見えて気になるのは何故だ?

それは、そう言う『存在を認知』するからだ

『存在感』があるから『目につく』のではなく『存在を認知』しているから『目の前』に現れる

『近縁の近しい人』というくくりでもなく『画面の向こうに映る』いけ好かないコメンテーターや期待されているが力及ばない政治家

憎まれっ子世に憚るようにどうして『皆が悪党だと認知』しているのに『表舞台』から消えないのか?

それは『そう言う存在の役割』が主観で構築している『意識が観測している世界観』の『外枠の骨組み』のバランスを保つ事で

『今の自分』という『内側の役目』に分かれた『自我が成すべき事』に気を向けられる『陽動』になっている

これは『四角』の『視覚』の『死角』のデッドゾーン
そこは『丸くなれない意識』が集まる『皆苦』の『人が口封じになった皆の囚』

78:22

魂年齢改訂版2023 成人期こそが『22を超えて』

あえて『そう言う設定の世界観の存在』を『認知』して『受け入れ』、『夢中で没入』しているのはお前の『意識の観測』だ

その『夢中で没入』しているお前は、『夢の中』なら『何が出来るか』知ってるだろ?

それを思い出せばいい( ´-ω-)σ(´∀`)

…という感覚が残って目が覚めた時

『期待と希望の祈り』ではなく
『気体と気望の意の理』の使い方を思い出した

期待と希望と気体と気望

期待とは

ある人がそれをするのを(他の人が)あてにし、心待ちに待つこと。将来それが実現するように待ち構えること。

希望とは

未来に望むこと。こうなればよい、なってほしいと願うこと。また、その事柄の内容。

この言葉に『気を向けた経験』がある人ならわかると思うが『裏切られた時』や『叶わなかった時』

その『落胆』が激しい_:(´ω`」 ∠):_

落胆とは

気力をおとしてがっかりすること

期待しなければ…『良かった』
希望を抱かなければ…『良かった』

何故か、『希望や期待を抱く時』は『軽い』はずなのに、それが『叶わない願い』と知った時『重く』なるのか?

実は『期待と希望』に『願い』を『かける』と
『気怠』と『気忘』になってしまう

怠=心がたるむ。進んで仕事をしない。おこたる
忘=思い出せなくなる。記憶がなくなる

何故願いを『願掛け』というのか?

それは『願賭け』という先がどうなるか分からない『ギャンブル』をしているから

ギャンブルは『賭けの対象』が既にある
そこに別途=bet、『賭ける』だけの『念=今の心』

丁(叶う)か半(叶わない)か?
さぁ張った張った…勝率50%ならいいけど

そんな訳ないだろう?

つまり願掛けとは『勝率の悪いギャンブル』であり、行きは良い良い帰りは怖い・・負けたら『怠慢』かつ『忘却』で『気力』が抜ける

わかりやすいのが競馬場やボートレース等の馬券を握りしめ『賭けた馬を全力で応援』するが負けたら…

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い…という同じように、ただの『紙の馬券』を『ビリビリに破いて憂さ晴らし』してその辺に捨てる

これが『他力本願』という『期待と希望を抱き願う』と言う『一攫千金』の愚かさと醜さ

一攫千金(損得)ではなく一覚潜錦(尊徳)

その『目に見える人の欲望の具現化』に至る過程で掴み所なく流れているのが

気体と気望

人は良く『目に見えない』が『感覚』でこういう

「なんか気力失ったわ…」
「なんか気が抜けた」

普段はテレビ番組やら『気功等はオカルトとして嫌煙する人』でも、『言葉』では無意識に『気の存在』を認めている

『気力を失われた』というように『思い描く願望』もまた『気でできた体』であり、その『体』が崩れて『何を描いていた』か『望んだ気を忘れる』

結果、『放出していた気』が『空間に消失』してしまい、そしてその『気を放った願掛けした本人』は『気力が無く』なり『怠慢と忘却』

いつから神社は『願掛け=ご利益ギャンブル』に変えられたのだろう?

ここで重要なのは『存在と認知』の変化

願いは今人=imagine=im negai
『今人』が『想像』する事で生まれる『輪郭の波動』

ふわっと『軽く浮かび上がる気体』
しかしそこに『期待』という『想いを込める』と『重く』なる

願いは『願掛け』というが想いは『想い掛け』とは言わない
願いは『願掛けない』とは言わないが想いは『想い掛けない』という

意外である。思ってもみない。予期しない

つまり願掛けとは『重い賭けの中身』に『気力をこめる』のに使い
想い掛けないとは『軽い想像』の『輪郭の気体』だけ手放す

だから、その想いを掛けない『中身のない気体』に『色んな気を取り込んで巡って来る』から『予想』もできない『意外な形のシンクロニシティ』が起きる

モチベーションとシンクロニシティ

そこで最後は『祈り』である

祈りと意の理

祈りとは、宗教によって意味が異なるが、世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。利他の精神。自分の中の神と繋がる

神仏に請い願うこと。 また、そのことば。 ② 怨霊(おんりょう)、悪魔の降伏(ごうぶく)、延命息災などを山伏や僧侶によって神仏に祈ってもらうこと。

うーんやっぱり『他力本願』( ´-ω-)σΣ(゚д゚;)

宗教の問題は『今に始まった事ではない』が、『神仏を一体化』ではなく『役割として分離』させたがる

皆という様に隠された白と比べての罠

意地でも『切り離して偶像の崇拝対象』を作りたい

理由は簡単で、現在のどの宗教のトップでもいいけど、「私が神だ!(๑•̀ㅂ•́)و✧」…と言ったら

『信者』はどれだけ『離れる』だろう?
『信者=儲』は『どれだけ減る』だろう?

信者の中で「神仏は心の中にいる!!」と気づいて教義にない事を『声を明らか』にするとどうなると思う?「血迷ったか?考え直せ!お前の中に悪魔がいる!」とボコボコの袋叩きに合うだろう

『一体化』すれば終わりで、それは『宗教ビジネスの終焉』でもある

だから『違う終わり方』として『統一思想』があり、『優れた者が神に使える神の代弁者』になり、『神を信じる者達を正しく導くのだ〜(儲)』となる

そこに『神はいない』のに『いる』と『隠す』
『隠す』から『いるかいないか』確かめたくて『門の中』へ…入ってしまえば『出られない死角=口封じの人=虜囚』となる

仏教のベールに包まれたバアル信仰習慣病

祈りを捧げよ=『犠牲』になる

カタカムナで いのり の言霊は
伝わり・現象が時間をかけて離れる

これこそが私は『祈り』ではなく『意の離』だと思った

意とは『立つ日の心』
旅立ちの『初心』

意識は『今を観測』した時に始まる
今人が軽く描いた想像の気体の輪郭

「こうなればいいな〜(やり方は知らんけど)」

この『始まりの意識』という『現象』が『時間』をかけて『離れる』

『想い掛けない』、『重い賭け(願望)』もない
ただ『漠然』とした『大きな空間の輪郭』は『軽く』浮かび上がる

そして気がつけば『その空間』に『ぎっしり想い』が込められて、『意外な所』から帰ってくる

『意』はそこから『離さない』といけない
意識は『静止した今』を『連続』して動くコマ

映画で例えるなら、『1コマ目』と『24コマ目』では何か『展開が変わっている』ように、『軽く流れの結果を想像』した時点でもう『意の離』は起きている

だから『漠然』としていても『不安の気体の輪郭=中身のない空間の意の離』してしまうと、詰め込まれた『不安の穴埋め=絶望』が帰ってくる

やれ、経済の不安だ
やれ、地震の不安だ
やれ、台風の不安だ

どうせ『意乗る』なら、『漠然』とした明るく楽しい『気持ちが上がる幸せの輪郭』←ココ重要(・ω・)_/ Σ(゚д゚;)

『特定の誰か』を想像
『特定の現象』を再現
『特定のタイミング』を狙う

特定の…

『特定』にすると、当然、『具体性』というものになるから何もかも『物理や科学の観測の目』がある中で『条件を満たす』のは難しい

現実的に考えて・・無理
物理的に・・無理
科学的に・・無理
世間一般的に・・無理

それはひとそれぞれ『思い想い』に違うが、共通で『息苦しい・域苦しい・生き詰りの詰み』で『重い』( ´-ω-)σ(´∀`)

そうなると、『掛けた気力』の分だけ『エネルギーは消失』するから、『期待』して『希望』を抱いた分だけ『怠慢と忘却』が起きる( ゚ ρ ゚ )ボー

だから祈りとは『意の離』あるいは『意の理』
立つ日の心、『旅立ちの理由』

今人の漠然とした想像=imagine=im negai

カタカムナ69首 無垢な根外

願掛けという願賭けのギャンブルも重い賭けという想いも掛けない、ただ『漠然とした集めたいエネルギー』の『方向性』

「こう言う方向性になったらいいなぁ(´∀`)」風向き

『風の中』には『流』がある
目に見えない『龍のエネルギー』がある

…という『漠然としたイメージ』でいいんだよ、その『輪郭』で『中身空っぽ』の方が『夢=想像力を詰め込める』(´∀`)へのへのかっぱ

それが今人=imagine=想像=im negai=私の願いを解き放つ『意の理』なんだよ

いのりもねがいも元々ひとつ

祈願は気願

『中身』はない『空の輪郭』とそこに『集まって欲しいエネルギー』を『漠然と想像』して、『方向性』を決めて願う(。-人-。)

『特定の誰か(神)に願う』のでは無い、それを願う『個々の気が空でひとつ』になり、『大きな氣の巡りの願い』になれば、それはまさに『空を掛ける龍』となって、願った者達に『命運の魂(あなたの役目)』を握って巡ってくる

それを『成すのが自力』であり
それに『力を貸す』のが『釈迦力』であり
その頃には『他力本願は間違いだ』と『認知』が変わる

『やりたい事をやる』とは『好き勝手にやる』ではなく、『心がやりたいと思う事(役目の感覚)』に素直に従う事

それは『大きな流れの中』で、一つ一つは『小さい』けど『重要な役目』、それが『引き寄せ』

『失う事』を恐れる『物質的な金銭を引き寄せる』事ではなく、『失われる所』か『増えて』いく『精神を向上させるレベルアップの試練』を呼ぶ

カタカムナの『567首』を言霊読みすれば『願いは手放して忘れてしまえ』と読み解ける

567

振動と周波数 氣とカタカムナが繋がるお話

今回は『祈り』が『意の理・離』という捉え方
立つ日の心の理由=『理由がある』から『離れる旅立ち』

『祈る』のでは『意乗る』
賛同・その『方向性・流れに乗る=龍』に乗る(๑•̀ㅂ•́)و✧

空の間に解き放たれた『気願(有限)のエネルギー』を集めて『氣願(無限・夢現)』になって、必要な人に届くように『氣を巡らせる龍の視点』

そりゃ『俯瞰』で見て『物事』がトントン拍子で進むわな(笑)

…という『言霊が先行』して私にそんな『景勝の景色を想像』させる

『今人』でそんな『漠然とした想像』=『imagineが出来る』という事は、『どうやってそうなるか=ロジック』は『空の間=有無』で分からないが・・

無常明滅の自由示現

そこに『想い掛けない』から『意外な所(夢)』から『潜在意識=心』を通して『命運の魂のメッセージ』を届ける

「今日は、アレを調べてみな…飛ぶぞ( ´-ω-)σΣ(゚д゚;)飛ぶの?!」

そんな『思いがけない先祖供養=やってみないとわからん』のしあわせな日々

霊迎雀宿 第十一夜 詩会わせと詠み合わせ

PS:『思いがけない形』で『意の離』が通じた

『東北に台風直撃コース』でしたが、ちょうどそのタイミングで、久しぶりにみんなと再会する予定だったので、私は『楽しく笑って飲んでいるという景勝の景色を想像』しながら地元の神社で(。-人-。)気願

その過程の会話

とてもノー天気でバカな奴ですよねwでもみんな仕事柄、『ニュースや予報』という『現実的な観測』に『意識が囚われていた』わけで、『99%台風の想定』で『その先の現実の景色』を見てましたが・・

私だけは『99%影響』なく『1%=私の気持ちが皆に同意=皆が見ている景色』にならない限りは『大丈夫という感覚』でした

結果的に『偶然たまたま台風がそれた』けど、雨は多少パラパラと小雨が降ったので、キャンプではなくガレージBBQになったけれど

もともと私の『重い賭け』ない『漠然とした気体=意の離』は『みんなと楽しく笑って飲んでいるという景勝の景色』だったので、それは叶いました

どういう『ロジック』でそうなったか?そんなものは知りませんが、結果、『来てほしくないタイミングで台風は来なかった』それで充分満足でした

真名と真偽 Magicのlogic

偶然たまたまという言葉の『偶々』というのも、私は違う『感覚』

『魂と魂』、その『間』には魂を運ぶ=『命運を運ぶ龍・流れ』があり、漠然とした気体=『重い想い』をこめない『中身のない輪郭』の意の離

私はその『空気』をひとつ『想い浮かべ』ました

その『空の中』に『同じような氣』が巡って『大きな空氣の流=高気圧=高波動』となって思いがけない=予想できない結果になったから、『私一人の空気』ではなく『空氣』が集まったんでしょう・・

という意味では、『アチマリカムの効果』かも?

アチマリカムの言霊の力=元氣玉

誰だってせっかく『地元に帰省』して墓参りや『先祖供養=家族と会いにくる』のに、突然『人工的に造られたような不自然な台風』は来てほしくない訳で

しかも、5号、6号、7号って「またコロナかよ!ほんと莫迦のひと覚えだな!」と『鬼と月の加護がある地の先祖達の魂』が『力を貸してくれた』のかも

なんてな?(゚∀゚)アヒャ Σ(゚Д゚)楽観的

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