越し=超えて行く、寝起きに今までカタカムナで気づいて来た導きがひとつに集まって、やはり体感無くして理解なしという集大成
全て必要な気づきと学びだった
先日、カタカムナ54首に変えて眠った(枕の下ホツマ文字+額に54首)
すると優しく触れる金縛りの状態からまたどこかへ連れて行かれる感覚の後…の映像付きの夢はなかったのだけど、寝起き閃は今までに私が『カタカムナによって気づきに導かれてきた事』がひとつひとつ『繋がる感覚』だった
次元を超える為の『例』の置換解釈の力
カタカムナ35首の時に気づきとして学んだ例えを用いる解釈
私は他者との共通次元(仮想空間)を利用すると言う『人の為』として捉えていたが、そうではなく、くだらない思い込み=重いコミットの二元論の議論からもっと軽く考えられる第三の選択肢を生み出し
それを『選びやすく』する為に、違う物事に置き換えて『自分を納得させる為の真言=進言』(上を納得させる意見)をするのが例え
つまり、『自らの選択』における『責任』をより『簡単に理解』できるように
「要はこういう事だろ?」と『解釈』して『納得』する力
それが『例え』という『次元を超える力』
次元へと意欲と意識を継承する授記
法華経の授記とは、私は『本』の知識はないが、それをしっかりと『読み込んで語る人の話』を聞いて「要はこういう事だろ?」と『体感』して自分が『納得する例え』に置き換えて解釈すると
高次元から低次元に弟子を送り、弟子に悟らせて師匠も一緒に次の次元に上昇していく
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越えられない問題にであった『意識』が、その問題を『解決する方法』を探すために『その瞬間』に『分離』して、『永遠』とも言える途方もない『それぞれの役割に分かれたシミュレーション世界』を体験し、最後はそれぞれが『目的』を果たし『ひとつに融合』して問題を乗り越える
『要=かなめ』
揺るがない『要の意志(石)』はそこにある
そんな途方もないシミュレーションの中のひとつが『自分』であるならば、自分という『分離の役割』が果たす『目的=宿命』を思い出し、その『流れ』という『運命』に乗る事こそが『前の次元』から超えて来た『授記(意識と意欲)を継承』する事
武士道と永遠に問題に取り組む覚悟
その『授記』という『意識と意欲を受け継ぐ継承』は、『始まりの問題』に取り組むという『一念発起』した『瞬間』への『道標』
だから『夢』は『戻るべき場所』を指し示す
デジャブ=『何度』も見ている・知っている『感覚』
既に『経験済みの感覚』が、まだ『経験してないはずの事』を知っているというのは、最初は『違和感』でしかないが、『解釈』して『理解』して『納得』していけば、それは『偶然』と思う事が『必然』に感じられるようになっていく
そうなってくると素直に繋がる『シンクロニシティ』が起きてくる
時空を超えて意識と意欲の授記の継承は『思い出す』ように『初志貫徹』へと向かっていく
頑張るのでは無い、『解決の糸口』を見つけて『封印を解く』ように『枷を外す』ように『導かれた問題』と向き合って鍵を開けていく
どんなに大きな『扉』だろうと『鍵穴』があり、自動開閉システム扉なら開くための『スイッチ』がある。それが『あるはずだ』と『探す』が、無いなら『創ればいい』と『対処法』を変える
そうやって始まりの一念発起の場所に『向かう作業』というのは『いつ終わる』という『時期も分からない』し『どのくらいの量?』という『数も』分からない
『一瞬で終わる』とも『永遠に終わらない』とも言える
『やってみないと分からない』という『量子的な可能性の世界』を生きている上で『最も重要な事』は、その一念発起を初志貫徹したとしても、『その先もまた終わらない始まりがある』という事に気づいた時に
『途方』にくれて『億劫』になって『前に進むこと』をやめてしまうのが『自殺』。肉体的な死ではなく『精神と魂の死』・・と言っても『自分』という『分離のひとつ』が『役目を放棄』するだけ
「私が死んでも変わりはいるもの(レイ)」
そういう意識が現れても『仕方ない』が、そうやって『諦める意識』がいるからこそ「その選択は間違いだ」と可能性の意識が『授記として共有』されて継承される
だから『終わり』に近づくほど『半端な弱い意識』は残らない
そして『強い意志と行動』を貫いて『役割』をこなして来た『それぞれの自分』がひとつへと『融合』していく過程で『才能の継承』が起き始める
それはつまり『目に見えてゴールが近い』と体感し始めて「そうだった…忘れていたんだ」という自分の目的と役割に『実感』が伴い始める
ここまでの『意識の変化の過程』が
カタカムナ34首
カタカムナ 授記
カタカムナ 武士道
そしてそれらは独自に気づいた感覚的量子論における0→1の今への飛躍的量子テレポーテーション
『あの日』から『今』に繋がって「そうだったんだ!」となるまで、『今日の担当の私の意識』は寝起き閃の『一瞬の出来事』なのであり、その『一瞬の寝起き閃』に至るバックグラウンドの『導線=過去から継承された授記』がまさにこの『納得して解釈』している『今の内容』である
つまり、今まで私が寝起き閃キーワード…でも『夢の映像はない』と思っていたパターンは、脳科学的には『記憶の整理』とも言えるが、そんなこっちゃないほどピンポイントで『カタカムナでの学びに必要な次の気づきに繋がるヒント』だけが『次の章の目次』のように伝えられる感覚
まさに『集大成』
多くのものを広く集めて、一つのものにまとめ上げること、まとめ上げたもの
それって『ワンピース』やないかいʅ(´⊙ω⊙`)ʃΣ(゚д゚;)
そしてこの『解釈に至る朝』がまさかのカタカムナ『54首に変えた翌日』というのが、もはや私にとっての『カタカムナ睡眠』は全く効果がないという事はないと、周りに証明ではなく、私自身の『体感を持って実感』をした『瞬間』でもある
そんな実感を持って、寝る前に読み込んだカタカムナ54首(意味は分からんかった)を言霊で読み取って見よう
カタカムナ54首 言霊読み
タマルツチ
分かれた受容留まり集まって凝縮
イカツツラナギ
伝わった力が次々と集まった場の核の内なるエネルギー(もしくは死)
セカツキハクミ
引き受けた力が集まりエネルギーが引き合い引きよった実態
アシハラヤクサ
命の示し引き合った場が飽和して引きよって遮り
アヲヒト
命の奥の奥の根源に統合
うーん(´・ω・`)これは深すぎる
というかこれは『解釈がとても分かれる』(後述)
というか、私の体験に起きたカタカムナの『今までの経験』がまさに、『分かれた受容(分離した役割の意識)』が、集まって凝縮して『溜まる土』のように『表』になくとも『地層』として『揺らがない土台』にある
地層とは『伝わった力が次々と場の核のエネルギー』になっている。そして『引き受けた力(授記)』が引き合い『引きよった状態』(受け止めている)
そして、受け止めている『今の意識』が『命(宿命)』の奥の奥の『根源(一念発起の瞬間・分離前)』へと統合していく
つまりは溜まる土(体感と経験)
『土台』がなければ『理解』はできない
…というまさにやっぱりカタカムナ54首も『語呂読み』できる事に気づいてしっくり来た
ごし=越し・腰・超し
越しとはいろんな物事を『またぐ』(経験)
腰とは物事の軸・上と下を繋ぐ『体幹の中心』
超しとは現状を『超えて行く』
色々『越して』来てできた『飛び超えて』行くための『土台』
『コントロール』にゃ『腰』が肝
『腰入れて取り組め』という事ですね( ◜ω◝ )Σ(゚д゚;)
と、私の『寝起き閃キーワードメカニズム』の話はここで終わりなのですが…『解釈が別れるぞ?』という点について、『直感(右脳)』も『左脳(現実)の知識』もひとつにピーンと来たのはこれなんですよ(枕の下も龍体文字ではなくホツマ文字だったから?)
和国誕生秘話?
移民と現地民との融和(和国)
カノンとソドムとゴモラ
タマルツチはそのままでも『溜まる土』。土が溜まるって『フォッサマグナ?(噴火で堆積)』とも取れるけど、だけど言霊的には『何か』と『何か』が分かれる
これが『葦原国(高地)にカノン(観音)』を築いたアブラハム一行
その叔父であるアブラハムと別れて葦原中津国(低地)のソドムとゴモラに行ったは誰だっけ?って調べたら『ロト』だったの話として捉えた時
ソドムとゴモラは『何』で滅んだか?
天からの『硫黄と火』によって滅ぼされたと考えた時
『富士隆起のフォッサマグナ』なんじゃないのかな・・と
そしてソドムとゴモラが『乱れた性の無法地帯』というのは、これは『地域柄の風土(部族の閉鎖空間)』に対する『既にある概念との比較』からとも『想定』できるが『地に落ちる』という表現が使われるように『下の者はあまり扱いが良くない表現が定着』している
葦原国(高地)と中津国(低地)とは『元々精神文明レベル』が違っていて『倫理や道徳』がない『自然と一体化した獣のような部族』だったのかもしれない
そしてそこに馴染めない『移民の一族』が『良くない風習(他人種と交わらない為の近親相姦=生まれる子は天才かキチガイか)』を続けたという『相関図』もまた『背徳的』かつ『某宗教的』ですな(笑)
ま、あくまでもこれは私は『ソドムとゴモラは日本の話』(富士の噴火と海底隆起)じゃないのか?という『観点からの捉え方』ですけどね
あ、そうか『空く間』の仕業か
ぽっかり記憶(歴史)が抜けてるもんね(日本人から)
…まさか、この気づきの為に『先にあの体験』を?!Σ(゚д゚;)恐るべし導き…急がば『遠回れ』すぎるだろ!メンドクセーコイツ(`Д´)ノ)罒`)ククク
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