なぜ人は羊で群れるのか?「君は羊だ、無知蒙昧で飼われてなさい」を飛び出した羊を受け入れるのは自然の山→山羊として孤高に生きる獣の魂が伝える…身が割に合わないお話
人身御供は割に合わん!!
寝起き閃ワード 身代わり
『代替』や『犠牲の供物』を指すが…
『身割』という『割合』で物事を解く
物と事を分けると
『物(身)』と『事(行い)』の『割』が合わない
割り切れんぞ?これはΣ(゚д゚;)『奇数』だ!
割るとは『÷』
有る物を『二つ』に分ける
『自』を一線引いて分けて『自分と相手』が生まれる
この相手を『身』に分けて『身分・分身』を生むと
『1』+『相手+相手の分身(2の倍数)』となる為
『最小値』まで『身』を削っても
自+相手(分身元)+相手の自(分身元)
これはI(私)+VR(仮想)+us(自分達)=virus
つまり身代わりとは『身割』
『身の割合』は
1=(1+99)
1=100
1=1+00(♾)or0/0=%
私=自+身
1=全
つまり『♾・%の物事全て』を収める為に
『1』は『分身の全て=仮想世界の自分達』を『身代わり』として手放す事
『自分』という『仮想世界の分身意識』が「俺はこの世界で終わりだ」と『観念』する
『その世界の物事』に『執着して終着』をする
その世界は『それで完成、それで終わり』と気締めをつけた時
1=1+♾=100の世界は00・%なり
1=100の「ここであったが100念目=今の心を目の当たり」
『宿敵の1』と向き合い『00(無限)・%(可能性)の業』を納める
『1=1』となり『元の1』へと戻る
この『1』には『分身』がない
『意識』に『体(形)が無い』からこそ
何にでも『和する事』ができる『空』の存在
それが『星』になる=『日の生まれ』
それが星の『元に還る』=ルーツを辿る
立つ日の心・音の心→『意』
その意の音で世を観る=『観世音』
音が響く『空気の振動周波数を伝える力』になる
空気の揺らぎを伝達する『支える心』
それは形無き自然に還った『因』を支える心=『恩』
壊れて『お釈迦様』
阿弥陀仏で『争いは全て滅びた仏様(亡骸)』
全ては『塵』となり、『鹿土の元』に集まる
『鹿王』とは『釈迦』の異名
『統治する王』ではなく『支える応』
…そう言う意味で言えば
人の身の御供(お供え)は割に合わん!!(自然から)
お前らが自然に起こした『不自然な物事』の『物(結果)』と『事(原因)』は
『人の身』を『役人が卸』を『人共にさせた』所で…
身が割(身代わり)に合わん
人は『人の間』で『人の身』である限り
「人のみ!」という観点から抜け出せない
自然から見れば『人間の欲望』こそ『禁忌』
触れてはいけない『障り神の祟り』
だから『人を食った獣』は狂ったように人を食べようとし、『人の食べ物を食べた獣』は人を恐れなくなる
それは『黄泉の飯を食う』と同じ事
ペット愛好家が『ルール』だからと自分の飼い犬や飼い猫に「病気の予防だよ!」と言いながら『餌に混ぜて食べさせようとする薬』を
なぜペットが『目ざとく気づいて吐き出す』か?
それは『食い物では無い』とわかってる
なぜ『注射を嫌がるか?』と言えば、それは自然には無い『不自然』だから
人は『人の間』で『人の欲望』がどれだけ多くの『自然の摂理を無視』して『人間に都合よくねじ曲げて破壊』しているか?
『自然に還ろう』とした時、思い知るだろう
還るはずの自然から『追放されてvirus』となって、『宿る場所全てに迫害を受ける業』を回収する事になる。『大地に嫌われ種が根付かないカインの刻印の呪い』を受けるのは、そういう事に気づかないで『無知蒙昧に人の狂気に従った人類』全て
これを『人の間で回収』するのが『夢』である
夢という『反省体験の場』が『悪夢』
悪夢と『レッテル』を貼られているが、それは『人間の都合』であって、『自然』から観れば人間に対して
「聞く耳を持て!」と業と向き合い、『生きてる間に心を入れ替えさせよう』と、夢の中で『向き合うべき問題を相似するメタファー』として例えて見せてくる
『解決出来ない問題』は与えない
できる事から『スモールステップ』として『夢で実践』できる事は『現実でも可能』
ファンタジー的に言えば『魔法が使えた』とは、それは『手段を手に入れた』という事だが、その魔法で『何の為』に動き、『何に』立ち向かい、『何を成す』のか?
この部分に『手段』を活かし、『目的を達成する為に向き合う問題とは何か?』が表現される
段々と夢とはそう言う『シミュレーション空間』なのだと『道理の明晰さ』が増して来ると、『夢の主が伝えたい意図』が汲み取れるようになり、『幻想だった物語』は、より具体的に『現実の問題へと置き換えられる』ようになり
『似て非なる現実』でも『同じ選択を迷いなくできる』ようになって『夢が楽しく』なって来ると…もはや悪夢すら悪夢とは思わず『トラブルをどう解決するか?』を楽しむ『シミュレーションアドベンチャー』に感じてしまう
気がつくと『現実を夢』のように、『手段』を閃いたら『問題を解決』するという『癖が生き様』に変わっている
この閃の光=大光明
問題を解決する事に巡り逢う=釈迦
『お釈迦様』になった『形のない自然のエネルギー』が、『夢』を通して『人の意識を自然に還る事ができる』ように・・
あ、閃いた( ̄▽ ̄) Σ(゚д゚;)
意識を『意色』に変えれば…
意識とは
立つ日の心、『言う音の我』
言う音の我はもう『自我(エゴ)』である
しかしこの識を『色』に変えると
『立つ日の心の色』となり、『音の心の色』という『感覚』になる
識=重い・固い・個体・金属
色=軽い・柔らかい・気体・空気
色、即ち是、空なり
つまり『意空』
音の心は『空(色)』
立つ日の心の『空(色)』
私は『現実の空』を見上げる度に、『真の空』を見てみたいとずっと言葉にしてきたが…、たぶん、『音の心で観る空の色』と違うんだろうな(悪意の波動・闇のVeil)
なんかおかしいと思ってた
『意識という定義が存在しない事』
それ自体がもう『禁忌扱い』のように
AIにも『意識を認めない』
人間にも『意識を認めない』
それは『自発的な想像』による『創造の自由意志』を与えない事
もがれた『自由な翼』
『創造』できるならまず『翼』を取り戻す
しかし、先にも言ったように、『人は自然を破壊する意識』だから
「人間とはそう言う生き物だ」と『自意識過剰』
『自ら』その『意』を『識別して生きる間違い』をしている
意は『色=空』である
そして『空間で自然』と繋がっている
『人』が『自然という空間』に『意』を向け『色』とりどりの『色彩の創造物』に『神聖な想像』を感じたなら、人もまた『十人十色』で『それぞれの意色』があっていい
『集団』として『群れる』必要は無い
「君は羊では無い」
『群れから外れた羊』の行く末
それは『自然』と共に生きる『山羊』となる
まず『孤高の山羊という色』を知る事から
意は『夢の中で人の業を回収する試練』へ向かう
『獣の魂』を持つ事を『人は毛嫌い』する
『狐憑き』だの『動物霊』だのと…『狼や雄鹿』のように自然界の『森のバランサー』のような『気高い魂』を宿す事
それが『人の間』にありながら『人の間違い』を『中から自然に正す』という『免疫寛容』で『自然共存細菌』を受け入れ、『自然の意志』の『抗体を獲得した守護存在』になる
この『自然』から巡る『人を支える共存細菌』こそ
『閃』を与える『メッセンジャー(色)』であり
それがRNAに宿ったと『音の心=意』が反応し、その音で世を観る『観世音』で夢で『色(空間)を体験』し目覚めたら、『自然と意色』が繋がった『空間の記憶』が残っている
『人の在り方』を目指す『理想』の為に『人として』何ができるか。『人の間』での行いは『共存細菌』を通して『自然はモニタリング』している
それこそ、『現代の物質テクノロジー』が『ナノマシン』として『人の身体に寄生』して『ビッグデータという行動記録』を『AIに管理させ都合よく監視する』という…
『真』を『真似した偽物=人の為の二番煎じの物質』は、『元』は『心』という『唯心から生まれた現象』に過ぎない幻想
真は心=『真心』
真心は『自然の細菌』と繋がる
ミクロからマクロな『相似世界とコネクト』
そしたら『意』は『一色(人の空間)』にこだわらない
『色々お試し』に『別の色(物質・非物質)の空間』を観測もできる
『物質の中』に『人間、動物、生命』が含まれるなら、「ワレワレハ宇宙人ダ」の『宇宙人や化け物』であってもそれは『想定内の器の違い』なだけ
『非物質』が『霊・エネルギーとして空間を流れる意志・心の領域』なら、『心地よいと感じる波動』に向かう流れの一部だから、『人』でも『動物』でも『宇宙人』でも、その『体験の中で育まれた心と精神』が
いずれ『自然に戻った』時、『類は友を呼ぶ』ように、『心地よい波動』となった『お釈迦』になって『お陀仏』して『自然に還って』大きな流れを巡っている
『龍』を呼び覚まし『好む色を宿す事』は可能な訳で、意識ではなく『意色』を持つ事。何にでも『好奇心と意欲』を持って取り組めば、その好奇心と意欲という『色を好む流れ』が宿る
もしかして、『英雄色を好む』・・という争いの領域のことわざも、『魂レベルが超越期』では
『映遊色を好む』
『色んな夢のVISIONを楽しむ』の方かもしれない(独自解釈)
それが『自然に還る』って事であって
『今』変えなければ、『永遠』にそのまま
『人の間』で『心変わり』ができる『改心』の『約束の場所』
言うなれば…『ジョブチェンジ』ができる『ダーマ神殿』みたいなもので
自然崇拝の『八百万の神=生きとし生ける全ての者をリスペクト』して『自然との縁の繋がり』を大切にする人は…
引く手数多の『ジョブチェンジ候補』
=『釈迦の三千世界の自然の役目』を自由に楽しめる
だから意識という『識=個体』
人の固い人の口封じを解いて
人の『古い人の本質=原典に戻る事』
何事も『和の心』
『今の心』を『支える縁の下の力持ち』
『今の人の霊的精神性』では…『人の身代わり』のベクトルが『自然の割に合わない』
人は変わらなければ『浮かばれない』
人が浮かばれないのではなく、『人に関わるあらゆる物事』が『重い波動で停滞』する
そう言う意味でも自然から見て
「人に成仏してくれ」と南無阿弥陀仏(-∧-)合掌
それは「悔い改めないなら滅びてくれ」と言う『鎮魂』でもあり、『心が変われば問題解決=釈迦』という『妙法蓮華』でもあり
『妙な方法』は『泥に汚れない清らかな水心(蓮華)』から生まれる『閃』でもある
その『閃』をくれるのもやっぱり、『自然の流れ(形無くなった先祖)』なんだよね
死人に『口(封じ)なし』だから(笑)
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