受想行識という言葉が今の自分の意識に経験値として感覚で理解したお話
受想行識の識とは知ること
『痛みという感覚』は『認識の事後』に来る
例えば怪我しているのに
『見る』までは『違和感』という『不確定要素』
しかし、『現象の状態』を『確認』すると
認識が確定して、『痛み』という『感覚』が起きる
感覚の『違和感』が明確な『認知感』となって現れる
受想行識の『識』とは『知る』こと
漢字をそのまま素直に読めば
受ける想いを行い知る
→知った行いを想い受ける
先人の知恵を行動で体感する
体感した経験で先人の知恵を宿す
なう(2025/02/19 09:36:52)
ミクロのコツ出ました(笑)
今朝は夢の中で母が起こしに来た
目覚ましがならなければ、私はその世界を選んだだろう
現実の母は自力で立てない状態だから
そういう『世界線』を『意識が観測』して
そこに意識が移るのを止めたのは『現実の目覚ましの音』だった
目覚めた感覚は、ここは『必要な体験』として『選んだ世界=意識の観測』
寝たきりの母の気持ちになって、今の自分が母に行っている介護は
物心つかない赤ん坊の頃に子供が親に面倒をかけているのと同じ事
『介護』を通して『自分が受けた恩』を感じている
そして、その『現状の中』で知らなかった『体験を知識』として得る『問題』が現れている
問題があるから『改心』して『新しい事を取り入れよう』と行動する
それは『学び多き空間』であり、『ここ(個々)』でしかできない成長
問題を見つける=釈
巡り合う=迦
難が有るから有難い(一人一)釈迦
と、この気づきの『きっかけ』が起きたこの動画を、最後までみて行くと
どうやら、知るは『後』ではなく『先』に知っている
『感覚』と『知っている』は『同義』と解釈されている
・・確かにそうだ
『知っている』と感じる事は『感覚が先行』している
ただ、それを『認識・覚えてないだけ』とも言える
覚えていないが既に知っている=忘れている=ルーツ(元)を辿る
先祖供養=先の祖を人と共に養う『先人の知恵』を思い出す
だから、覚悟=覚えて悟
『覚悟』を決めたら忘れない
修行とは『行いを修める事』であり
最後は『卒論』のように『気づきを経典』にまとめる
それが受け継がれる『地・血・値・知』となる
私の意識が求めているのはカタチにならない『魂の経験値』
値=人の直、『素直な人』としての『間』の体験
そこに支える『心』を巡らせれば『悳=めぐむ』となる
カタカムナでめぐむは
思考・指向・志向・試行が内に引き寄り広がる
『行い』が『心に反柄』される
『悳をつむ』とは『魂の経験値』を積み重ね『まとめる事』なんだろう
因果の間に『心』を巡らせて『恩』
それを『恵』として伝える事で『恩恵』
悳・恩・恵=全て『めぐむ』と読む
縁の下の心=HEART→H(叡智)を最後に回してEARTH(地球)
地球は『H・叡智』が巡っている『心』そのものなんだ
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