無駄なものは何も無い・・と気づく理由は無駄にされたのは仏陀(真理)だった気づいた事で、心のクズカゴを持ってゴミを拾うscrap集めが、実は失われたparck(手入れされた公園・楽園)を思い出す。そこに至る構図が宗→完←教の示しの足る(法則)を知るに繋がったお話
宗→完 教→示
宗とはウ冠の中に『示す』
宀はひとつの物事に『二元性』がある形
始まりとは『1・位置が分裂する』と示す
それがいずれ『完』となる
ひとつの物事が二元性になる『元』
終わりとは『1の位置が分裂』する前の『元の位置』
宗→完に成る=『完成』
宗→完に結ばれる=『完結』
『足りない』を知って足掻き
『足る(法則)』を知って、完結・完成した物事を語る『仏陀物語』
それを「教えとして示して」←ここ
これが『教=他力本願』の始まり(示)
『示』が『元』になる『開祖』と
『元の位置を分裂』させて『示す教え』は
そりゃどんどん『宗派が分裂』していくから
『教えを乞う』時点で以後、全部『他力本願』
ここでもう一度、『原点回帰』する
宀→ 人・物事という『対象の位置』から二元性が生まれる流れ
それを『示→中で見ている状態(第三)』
これは「アレはダメ!これはダメ!」という『対立・分裂・反対』が生まれるのに関わる事無く
ただ、「そういうものだ」と『法則』を見ている不動の位置
そういう意味ではわかりやすい構造に気づいた事例が前回のこちら
そしてそれはいずれ「そういうパターンは繰り返しなのだ」と結ばれ
『元(雛形)』に成った事で『完結』して『完成』した
これはその位置の『主観の体感・体験』で
『示した先』が『元』になった『自己完結した解釈』
『問題解決=釈迦』になったお話
「さぁ!それではそこまで至った釈迦さんにインタビューです!内容を物語にして教えを示して下さい!!」
釈迦「………。(どうせ言ってもわからんて)」
そもそも『全てを持っていた地位(宗)』に生まれ、全ての『地位も名誉の未来』も手放して『足るを知る(完)に至った過程』に何があったか?
『体感無くして理解なし』
「どうせ言っても伝わらんて〜」
これは仮に、最も釈迦と共に行動をしていたという『アナン』ですらも『正しく伝わってない』のでは?と思うのは
釈迦は「女性に真理はダメ」といい
アナンは「女性にも真理を聞かせるべきだ」といい
いや、この時点でもう…
『釈迦の真理』と『アナンの真理』は違う分裂
つまり宀→二元性の示し=『宗が違う物』になった
完成・完結していた『元』が『アナンの教えの示し』にすり変わった
つまり、これは『同じ時代』に『同じ物事』を見ていた『身近な人間』ですらも
『示しの元』が違うと『分裂』してしまう
完成・完結はまた、『新たな示しの宗の分裂』を生み出し
その『教えを求める者=信者』がいる限り…
宗→教→示→教→『教示』
これは『教えをパターン化した教典・教科書』
『免許皆伝構造』になったから
『本質』を問う『本来』という『本当』になった
『本に当てる』、『本の質(それ何教?)』を問う
しかし元来=『元から来る』のはこう
宗→完→完結・完成した『結果・成果』
それを『宗=ひとつの示の位置』として
関わらない物事の『二元性』を見る
これが『教え』と明らかに違うのは
『元(成果・結果)の位置で示しを見ている』から
これは、「じゃ最後はどうなった?」
そこから始まってる
なぜ仏陀は『シッダールタ』なのか?
なぜ『お釈迦』なのか?
なぜ『お陀仏』なのか?
なぜ『涅槃寂静』なのか?
なぜ『虚空蔵菩薩』なのか?
この成果・結果を『自己解釈』すること
自ら己で解く釈迦をする所が後に『元(完成)に至る始まりの示し』
『問題解決』した所から『問題を遡る』
自己解釈って結局、『自己矛盾』した時、『自己判断』と『自己反省』すれば『自己解決』する
息(自らの心)を引き取り、息を吹き返す=更生→甦る
そこに『他の入る領域』は無い全て『自力』
他人からすれば『妄想』のようなものだが、『瞑想』だって『睡眠』だって変わらない(笑)
他人は『理解出来ない物事』を『物にする=理解しよう』とするが
そもそも理解できるのは『自己』しかない
というのも、周りの環境に「素晴らしい!これ以上ない!!」…と『絶賛や評価』して認められていたとしても
『自分の心』が「それじゃない…」と『納悳』出来なければそれは『空虚』で『満たされない』
これを『後に皇帝の地位』に就く事を約束された『皇子の気持ち』に置き換えれば
そのまま『ゴーダマ・シッダールタの仏陀物語』になるけども…
私はそれすら『教えの為』に創られた『説法』なんだろうとすら思う理由は
最終的に『足るを知った=シッダールタ』
『満足した・満たされた』という『自己完結・自己完成』がある
その為には→『叱咤激励=自力で頑張れ』
『自力』である必要は『自己の内面の問題』は、周りの環境や他人がどれだけ『恩恵』を与えてくれても『満たされる事』では無い
そして『暖かい恩恵を受けている』のにも関わらず、「放って置いて欲しい」という『わがまま』は周りに『悲しみの業』を産んでしまう
周りから『人気が集まる』のに、『自己探求』には人気にまつわる『期待や責任』が邪魔
この時の『宗の示し』は周りの二元性に『関わらない位置』を求める『自分の心探し』
いざ、離れ『心が求める示し』に従い『満たされる事(他者から見れば苦行)』を行い
「こういう事か!」と『満足』するまでそれを繰り返し『密度』を高め熟練する
それがいずれ『完成し完結』した『結果・成果』として振り返る時
最初に求めた『示しが完成』だった
宀の示しの『元に成った』と…という事は
次はこれが『元になって宗』が生まれる
元は『お釈迦』に壊れて、『お陀仏』に崩れ去って
形無き『釈迦を解く=分裂の自己解釈の元の沙』になり
でも結果、『示しの元が完成だ』と気づいて
『足る』を知って『満足して元』に戻して手放して次へ
釈迦が『自己満足』の為に生んだのは『無駄』
…無駄と言えば現代解釈だと
『必要の無い事』と認識してしまうだろう
それこそ『無駄な足掻き』だ(笑)
『無駄(だ)→仏陀』と置き換えれば
『無き者は仏』であり、『駄目なのは陀』
見事に『消した上にレッテル』を張っている
これが『臭いもの(亡きもの)に蓋』だろうか
なぜ『臭』いは『自ら大きい』と書くのか?
社会からすれば『思い上がりの自意識過剰』
それを埋めて『腐敗』させる事で
『漂う雰囲気』でも『教えとして示した』のだろうか
『無駄』と言われていることが実は『仏陀』を示すならば
これが『元=完成・完結』した『結果・成果』
『自ら大きくなった真理を説いた者』が
『無駄』にされている世の中
そんな世の中の『教えを無視』して
無駄と示されている物事を『葛籠』持って『五味』拾いして集め
言葉の『レッテルの裏』には全てお釈迦に壊されお陀仏に崩された
ゴミと呼ばれた『醍醐味』
クズと吐き捨てられた『葛(知恵)の加護』
『廃仏毀釈』で概念を塗り替えられた『先住民の生き様』が見えてくる
わからない→『和唐』無い
しらない→『新羅』無い
くだらない→『百済』無い
無駄→『仏陀』 ←new
これは非常に面白いパターンで
私のように『無駄』と『忌み嫌われるクズやゴミ』を『忌=己の心』の示しに従い、拾い集めてパズルを繋いだら
『仏陀の醍醐味』と『葛籠の恩恵』
『完成・完結』は『元はこうだった』と至った事で
なぜ誰もやらない忌み嫌われた『禁忌の門』に向かい
『鬼と対峙』して『閃=門と向き合う人』を持って『言葉の封印』を解いてきたのか
『周りの二元性』を『俯瞰』で見て
「それでは私の心は満たされない!」と離れ
『心の示し(宗)』に従った時から
『心の元(完)』がそれだったんだと
『教え』は『一切必要なかった』と気づいた
『宗教の門下生』にはならない『習わぬ経を読む門前の小僧』
いや、『教え』にずっと『違和感』を感じながら
自分の『心を騙し騙し生きてきた』からこそ
『本来(社会的な教本から来る)の自分』ではなく
『元来(元の心から来る)の自分』を取り戻す方へと
『自己解釈の宗(おおもと)』が始まった
これが『釈迦=問題解決の物語』の始まり
釈迦とは『全てを救う者』…では無いが、『結果全てを救う』理由は
今、肉体をコントロールor支配している『一人』という
『自意識の心の自由』を取り戻す事によって
その『囚われた意識』を『体から解放』すると同時に
その『意識に囚われた体』を構成する『全ての細菌達の世界』も自由に開放される
ある意味で『人間』としては『お釈迦』になって『お陀仏』になるから
『概念』的には『死を迎える事』になるが
それは1人の人間の『体に執着する自我』を手放すだけで
『意識として観測』できる『空間』も『器』も『自由自在』になる
しかし、『そこ』だけ聞くと「好き勝手できる!」
という『欲望』が生まれる時点でまだ『未熟』(笑)
自我とは体を支配している『支配者』である
自我が『欲を望め』ば代償は『肉体』に起きる
例えば、「モテたい!」と『筋トレ』すれば、『細胞をズタズタに引き裂いて筋肉がつく』…というのを現実に例えれば
『平穏に過ごしていた街』がいきなり『天変地異で崩壊』した後
『復興』と称して『プロテイン軍団』という『軍事勢力』に乗っ取られて『軍国化』が進む
筋肉は『カロリー消費』が多い為、『維持の為にエネルギーを奪う』が
これは軍国化して『隣国などから略奪』しているようなもの
…しかし、自我が『筋トレ』に興味が無くなって止めてしまえば
『軍の維持費』が底を付き『自然消滅』して『元の軍が無い穏やかな環境に戻る』
こういう『自己を労わる=元に戻る構造』がある
『自我』というものが肉体に『共存』している『あらゆる細菌環境』の『生殺与奪の権利』を持った支配者
転じて、これを『皇帝の力(絶対的権力)』と置き換えると
その『責務』から離れ、『衆生の苦しみと向き合う苦行』へと進んだ『仏陀』は
『自ら(意識)己(エゴ=細胞を傷つける苦行)を知る探求』をしたと言える
転じて、『内観』で言えば『ミクロな細胞世界の役目・役割』と向き合う事になる
私は内観を始めた時、『夢(虚空)の世界』という形で、『自分の体の細胞の民』にも
『痛み、苦しみ、喜び』があり、それを『変える事』ができるのは『自意識しかない』
という事を『体感で経験』してきた
今思えば、これが『虚空蔵菩薩』
虚空=『夢』
蔵=くら=『臓』
菩薩=『修験者』
虚空とは
『口』にすれば虚ろな『嘘』になる
『有るし無いし』の『有無の空間』
そんな『夢で修行してる菩薩』はまさに『夢の旅人』
でも、最近はそれこそが『示→元』になってると実感する
私の『夢日記』や『不思議体験』は誰かに『教えて貰った』ものでは無い
全て『自発的』にやりだした事
つまり『教示』からは始まっていない上に
『世間の教え』は「夢の記憶は無駄な事」だという
『無駄な足掻き』と『廃仏毀釈』でお釈迦に壊され、お陀仏に崩され滅び去り
『臭いものに蓋』と漢字や言葉の意味を『歪まされた』
ならば、『レッテル=教示』に『都合が悪いその逆』がある
『無駄→仏陀』で『真理の探求者』で『自ら大きく成った成果・結果』の『宗→完』
その成果・結果の段階で『弟子』に伝えた『虚空蔵菩薩(後の釈迦の姿)』の存在
虚空=虚ろな空間
蔵(中・倉庫)→臓(体の細胞)
菩薩=修験者→体験を修める者
私はこれを『夢で体験』しているからこそ
夢を見る度に、『釈迦の智恵の断片に触れる』ように
この現実で『封印されてる失われた漢字』を
誰に『教えられる事もなく気づく』理由は…
夢で得た『感覚』を『自己表現』する為の
しっくりくる『ことわざや漢字の組み合わせ』を探す事から始まる
『考える』のではなく『感じる』
そしたら…だいたい『一級漢字(封印文字)』
これをさ…ひとつパターンとして
完成・完結で「もういいや感」はある
だから思う(´-`).。oO
「さぁ!それではそこまで至った妙見狸さんにインタビューです!内容を物語にして教えて下さい!!」
妙見狸「………。(どうせ言ってもわからんて)」
そもそも子供の頃から耳元で掃除機かけられても
一度寝たら起きないほど『眠りの特性』が強く
若い頃から『金縛り』や『不思議な夢を見る体質(宗)』に生まれ
そこから自発的に『夢日記』をつけ始め、後に『幽体離脱』や『ブレインストーミング』と
『脳力開発を自己探求』して、『明晰夢』で出逢った『先祖達の導き』の元に
『意識の観測範囲』が広がり『認知』が『この現実ひとつ』には収まらなくなった(完)
に『至った過程』に『虚空の蔵・像・臓』で『どんな修行体験をした体感』があったか?
…(´-`).。oOどこから何を話していいのかわからん
『時空間では無い』から、長い時は『一眠りで数年』、短ければ『数日の世界を生きて帰ってくる意識』は
現実では長ければ『数時間』、短いと『数十分の体感記憶』なのに
それが夢日記に『記録』しておいて『後で整合性』を取ると
『時系列が逆』だったりするから
…(´-`).。oOどこから何を話していいのかわからん
体感無くして理解なし
「どうせ言っても伝わらんて〜」
だから結局の所は『現実では無駄』なんだよ
でもその『無駄だった』と『納悳できる体感』を『心』に得たら
実はそんな『全ては水の泡』になる事も
水の泡=『循環』している=『水の浄化』として
満足できる=足るを知る=シッダールタ=『仏陀』
無駄=仏陀
臭い者=自ら大きくなる者
曲者=癖者=癖が強い者=完璧主義
転じて、『曲がった事(歪)が大嫌い』な『真理の探求』という方向へ進む者
でも真理って『自己の中』にしかない
真理を『真理として納悳』できるかどうか?
それは『心が決める事』だからね?
全ては『心』次第
心が満足出来ない・満たされない限り『欲望は続く』のだから…
手っ取り早い合理的な方法は?
心亡・忙しさで殺す=『忙殺』
亡心・忘れさせる=『忘却』
これが『心の示しに素直な宗』と
『心の示しを黙らせて支配しようとした教』と
成果・結果の『方向性の違い』が生まれ
『宗の示』より『教の示を優先』してしまったのが
『優生思想』という『力を誇示する』という『支配構造』
だから簡単な事
その教示の結果・成果が『この様』って事は
その教示の社会が『切り捨て』たもの
『ゴミクズ=SCRAP』がなんだったのか?
parcs=手の行き届いた公園
『五味』と『葛』が手の行き届いた
公園という『皆にとっての楽園』
『失われた楽園』だったのに・・
つわものどもが夢の跡
強い者・兵と書いて『つわもの』と読む…
私は違うと思う
『津和者共』が夢の跡
津は『港』
和は『穏やか・バランス』
『栄えた港の楽園』があった
こうやって読み解けば『三位一体』だったはずだ
『軍事(鬼・訓戒)』+『教育(仏・悳)』+『バランス=問題解決の和の智恵(釈迦)』
これが『parcs(楽園)』が『SCRAP(ゴミクズ)』に成った果の『完成・完結』
津和者共が夢の跡
今の日本は
軍事も抑えられ
教育も黒塗りされ
釈迦・政治=問題解決も先送り
国家的に『廃仏毀釈』になっている
その中では
鬼は『鬼門封じ・正論』とされ『恐怖』として耳が痛いと聞く耳持たず『切り捨て』
仏は『ビジネス=busy(忙しい)ness(役目)』と『堂々巡りのお忘・忙さん』
問題は解決しないように『責任を細分化』して『全体像を把握させない』ように
『活かさず殺さず』
これでは『釈(問題解決)』に『迦(巡り会う)事』が無い
政治家の裏に『官僚・完了』がいる
こいつらが『何をゴミ』として、『何をクズ』という『SCRAPの対象』を決めたり
『国の予算の使い道』を決めたりして政治家よりも長く居座っていられる理由は
自分達の『生殺与奪の権利』を持っているから
はっきり言えば『自己消滅機能のない癌細胞』
でも『癌の核』はそこじゃない
官僚もまた『癌核』に従い『国民というタンパク質を分解』する
ただの『癌悪疫質』になってるだけ
だから簡単なんだよ
その『癌細胞達の教示』から離れ
『自己』が求める『心が満たされる事を探求』する
それが『宗=始まり』の示し
そこに『教え』は必要ない
私には最初から『夢を見る力』が備わっていた
現実にはなんの役にも立たない『無駄』かもしれない
でも、その『現実で教示される物事』が
『欲欲』考えて『夢夢』忘れなかった結果・・
『欲』考えて見たら『欲しく無かった』と後悔する
「それでは今の心=念は満たされないんだよな〜残念」という時に
『心穏やかに満たされる』ためには
その『無駄な夢=仏陀の虚空の修験者になる』のが面白くてね(笑)
そっちの方向は『夢現を繋ぐ架け橋』で
多次元世界の旅に『好奇心』が生まれ『意欲』が湧く
『夢』は『旅先で出逢った存在』との『一期一会』
『良い思い出を持ち帰る』為には『良い思いを与えなければ』いけない
しかし、面白いのが『現実的な情報(言葉)を伝えればいい』という事ではなく
その『解ってる事』を『体現して示す事』が求められる
ここが『明晰夢=自意識で行動する』の非常に面白い所だよね
現実では『理解』してるが『出来ない発想や智慧』
夢ではその理屈だけ『口』で言っても虚ろ=『嘘』で伝わらない
だから『体現』して見せて『問題解決できる証明』を遺す
あるいはその逆で『体現された事』を後で『現実で真言』で見つける
これってもし、『夢の世界が過去』ならば『過去を変えた事』になり
『未来』ならば『過去から未来への干渉』にもなる
『夢での行動』が『どう影響』するか?
その因果は『今』はわからない
だが『確実に影響する』と解るとしたら…
釈迦が『2500年後に現れる』というのも
『虚空蔵菩薩=夢の旅人』を示した事も全て繋がってくる
もしも思想が『空間の波動・周波数・振動数の共鳴』なら
『ビームフォーミング』のように『特定の人達に接続して届く』ように・・
レター(手紙)もメール(通信)もテル(電話)も繋がっているんだよ、きっとw











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