寝起き閃ワード モラルとモラトリアム…道徳的教訓とそれを学ぶ大人と子どもの間の空間…と読み解くと、地球人類(人種による文化形成の違い)がなぜ存在するのか?という可能性の実験と感じるお話
きっかけはNEWS
朝起きて通知を見るとこんな情報を目にして嫌な気分になった
AIのsora2が日本のあらゆる映像コンテンツを丸パクリして声優の声からアニメ、実写に至るまでほぼ全て日本風を再現出来るようになった事を問題視してるNEWSの中で
「こんなのも作れる!こんなのも簡単に作れるってやばくねえか?」と『再現して見せる行動』が『模倣犯を助長』している『日本人のモラルを破壊工作』してる
モラルがある人(魂年齢が老年期以上)は、そもそも『再現行動』をすれば『より学習を捗らせてしまう』のだから『自らそれを行う事は無い』と感じる現象
もうひとつのNEWSは『二つの側面』から『日本への文化侵略のアプローチ』を感じる『イスラム・ムスリム』の問題
共同墓地に重機を持ち込み土葬をした…というNEWSも『真偽不明』で、こういう事が可能
『死体遺棄したヤクザかマフィア』が『ムスリム風にして作ってネットニュースに上げて移民問題』にすり変えれば、『ヘイトは移民問題』に移り、尚且つ『遺棄した死体』も『モラル』があるから『掘り起こされて調べられる心配もない』という
何なら『闇バイトにそれを指示する』だけでも成り立つ、『国籍不明、日本人がやってる可能性』もある
それとは逆に『イスラムの礼拝ポーズ』である『五体投地の姿勢』が科学的には物凄い『リラックス出来るポーズ』という情報
…実はこれは『ガチ』で、正確には『腿と尻の筋肉』が伸ばされて起き上がった時に、『物凄いリラックス』を感じる
ただ五体投地ではなく、『胡座のまま頭を地面につける』でも全く同じ効果を得られる『整体テクニック』に過ぎない
私はこれを『寝る前』に行うと、『眠りにつくまでわずか数分』、何ならそのままの姿勢寝れるくらい( ˘ω˘ ) スヤァ…
『地べたに座る文化形式』や『立ち仕事が当たり前だった日本人』の多くの時間を『デスクワークで西洋式のイスに座る』ようになり、『この筋肉がガチガチ』に凝っている為
この部分の『懲りが取れる』と…めちゃくちゃ『血行』も良くなり『気持ちが緩む』
ただそれをわざわざ『イスラムの五体投地に絡める』当たりが『電通の広報』とかが広める元になってそうな『世論操作』に感じる
全ては『マイナスマーケティング』で『不安』を煽り、『プラスマーケティング』でなあなあの曖昧のグダグダに『一理はある』と思い込ませて、『日本人の優しさ(モラル)』に漬け込む
一人一人に『モラルがあるなし』ではなく、『モラルを語りモラルを広げる側』にそもそも『モラルが無いモラルハザード』が起きている
それを『信じている』時点で、人の言う事を『今の心が鵜呑みに洗脳』されてる
信念を『貫く』の意味が初志貫徹=『元になるもので押し通す』ならば…『元のモラル』が間違っていたら『無理を通して道理が引っ込む事』になる
やはりそれを諭す言葉として『モラル』というものが何なのか?
これが引っかかった時に閃がキタ━(゚∀゚)━!
moralの模倣・真似が生み出す間違いの空間
moral
道徳・道義的な」「教訓」
moratorium
心理学では大人と子どもの間にあり、大人の責任を負うことを猶予される期間
rium
一般的には「〜な場所、空間」を意味するラテン語由来の接尾辞「-arium」(例:aquarium – 水族館)
immoral
「不道徳な」「非倫理的な」という意味
immortal
「不死の」「不滅の」「不朽の」で、時間や変化に影響されず永遠に続く状態や存在
mortal
「死すべき運命の」「死ぬことができる」「命にかかわる」「致命的な」といった意味を持ちます。また、名詞として「人間」や「生物」、「凡人」を
なるほど(´・ω・`)わかった Σ(゚д゚;)早
なう(2025/10/02 09:36:58)
?+mora+?
日本語の音リズムを構成する単位で、ほぼ仮名一文字に相当する「拍(はく)」のことです。例えば「あ・め」は2モーラ、「た・ま・ね・ぎ」は4モーラと数えます。長音(例:「あー」)や促音(っ)、撥音(ん)もそれぞれ1モーラと数え、日本語の「等時間性」というリズムの基本となります
モーラなんて『日本人は習ってない』ので、これは外国から日本に入る人達が受けている『日本語の文法を理解する為の教育』なんでしょうね
そんな『mora』を知らずとも日本人は『網羅』してます
残らず取り入れること。余りなく尽くすこと
そう日本語で『表現豊か』に細かいニュアンスまで『日常の意思コミュニケーションが取れる能力』を『網羅』してるんですね
しかし、この『海外のモーラの定義』だと、『漢字』はどうなるのか?
『1文字で4モーラの音』や『4文字で8モーラ』だけど意味との結びつけの記憶解釈はもはや、知識を呼び出す『本のタイトルのラベル』のように
『格言・ことわざ』としての大事な教訓は『別の引き出し』にしまっているようなもので、それを『道徳的』な教訓、あるいは経訓として『日本人の多くが共有』しているとしたら
それはもう『道徳を学んだ日本人』しかアクセス出来ない『アカシックレコード』と言える
その最たるものが『日本昔話のお伽話』
伽は『人を加える』と書く=『移民・異民の逸話』
つまりはモラルがない『モラルハザード』を起こす者
それを『村に混ぜると起きる問題』を示している
それを『村の掟』にすると掟に反する村人(反村人法典=ハンムラビ)
古き良き先住民は『村八分』で追い出され『部落民』
それを『村の掟で追い払う』と村八分された『移民・異民』が『河原者』として、河原に居着いて『違う文化』を行う『変わり者』になり、『流れ者』を『水際で集めて同族(多種民族)』として増やして
その『混血子孫ファミリー』の『アイデンティティの流れ』を護る為に『マフィア』になる
『流れ者が全て悪い』という事ではなく、双方に『和の心』という『リスペクトと理解』の『共有する道徳というモラル』がなければ
『自己防衛の自己主張』で『縄張り争い』になり、縄張り争いになれば、その『漁夫の利を狙う輩』が囃し立て、『双方に武器や悪知恵』を与えて『大きな争い』に発展させるように『ロビー活動』して『放火して炎上』させ…
そして『誰も居なくなった所』に移り住む火事場泥棒
『熱く争っている者達』の後ろには、『冷酷かつ冷ややかな者達』がそれをさせている
『祭り』の『当事者』は『熱を帯びている』が
『政』の『当事者』はそれを『冷静に掌握』している
熱して形を変え、冷やして形を創の変える『錬金術』
その『争い呼ぶ者』を理解しなければ、『何度も同じ間違い』を繰り返す
例えば『猿蟹合戦』という日本昔話はどんな経訓かと言えば、猿と蟹の揉め事を臼や鉢、栗や蜂が『代理戦争』する話
猿は『山で柿』を食べていた(当たり前)
蟹がそれを頂戴!と『おむすびと交換の欲』を持った
陸に上がる『沢蟹』はそもそも完全な『陸上の生き物』でもなければ完全な『海の生き物』でもないどっちつかずの生き物
それが『猿(陸上)』に対して『臼・杵・栗・蜂(陸上)』を戦わせる方向に誘導したのは、『被害者』を装って『人を加害者』に仕立て上げる構図
猿からすれば、蟹が欲しいと言った柿を『渡さなかった』のではなく、『ぶつけた=やり方は酷いが与えた事』に変わりは無い
つまり蟹は『結果的に柿は手に入れた』上で『猿への逆恨みの仕返し』に、猿を『共通の悪者に仕立て上げ代理戦争』を持ちかけた
さて、この『蟹(cancer)』というキーワード
星座では69 英雄ヘラクレスの『足止めの邪魔』
医療用語で『cancer・CLUBは癌』です
癌は『病の品山』と書きます
癌は『正常な細胞』が『異常細胞』になった状態です
始まりは『浸潤癌』といい細胞をぐじゅぐじゅにするんですが
猿蟹合戦の『蟹がやってる事』が、既に『正常な細胞(住み分け環境)』に対して『関係ない異物(私怨の分断工作)が混ざり込む浸潤』ですよね
そもそも『生粋の陸上の生物』でもなく、『海底の生物』でもない『騒がしい蟹』から『心の病にかかった義勇軍』とでも言いましょうか
これが『移民・異民の逸話』のお伽話=『人を加える話の経訓』です
こういう『実話を隠語で伝える昔話』を聞いて『君達はどう生きるか?』
現在やられてるのは国連やwhoによる『弱い者虐めの嫌がらせ』
『蟹の浸潤』がだいぶ進んでもはや『国は末期癌』
だから『歴史の教科書に載ってない部分』は『鎖国の理由』だったんだろう
『外来の勢力の侵略・内部汚染』をまず正そうと『水際で完全に止める事』で『自己治癒』を促した
昔は『山々の恩恵の食料』や『周囲の水産環境』に『四季折々の食べ物』、質素倹約、質実剛健、おまけで「上手い物食うために農業やるのは当然だ!」と米や酒は自然環境への奉納という祭りの為の物だった
『自国生産とその開拓スピリットの熱血精神』があったから、『外国』に頼らずとも『食で困る事は無かった』し、むしろ『学びの為に積極的にスパイ』はしたかもしれん(忍)
しかし、そう言う『食』攻め、『経済』攻め、『政治の国内不信誘導』、民のテレビ離れからの『ネットメディアへの誘導』に来て『現実そっくりのAIフェイク捏造情報』の発展
全て『外来種』が『日本(タンパク質)を食い物』にして生み出した『癌悪疫質』であり、このやり方が『日本に通じる』なら…と『優しさを装って入り込む』という『戦略のひとつのパターンモデルとして学習』される
インモラル=モラルの中に入る『不道徳』
インモータルでブルータルなモータル
「残酷な」「厳しい」「容赦ない」「過酷な」
『そうならない為』…というのは『それをする側』になってはいけないよ?
という『モラルを与える場』
それが『モラトリアムなmuseum』
博物館、美術館、記念館
『優しい日本の精神性』ってもはや『過去の遺物のアカシックレコード』
『子供は火遊びが好き』だけど
その『火遊びを安全に見守る大人』が必要
冷静とは『穏やかな静寂』でもある
静寂とは『環境』である
環境とは『法則』である
法則とは『風土・風情』である
風土風情とは『先祖の生き様』である
先祖の生き様とは『言葉や格言』である
言葉や格言とは『伝統や文化』である
伝統とは『人に云う統一統合』
文化とは『剣の鍔迫り合い』に『蓋』をして『化』ける
『争い』を治めて『文で化ける』
その『文』はどこからか?
私の場合は蚊から『虫文』で『夢』からもたらされる
『痒』みが伴うのは『病に侵された羊(細胞)』の代償
しかし、そこで『再現』される『映像体験付きの生き様の追体験』は…
『モラル』を『身(RNA細胞の痛みの記憶)』をもって実感する
『モラルハザード』と正面から向き合う『モラトリアムなミュージアム』
モラルに侵入する『インモラル』
そこで生まれるイモータルなブルータルなモータル
それを見て、君はこの問題を・・
どう説く?(伝える)
どう解く?(解決)
今の心を観て『観念』した時、『モラル(道徳)』を問われる
そういう『道徳(モラル)』が日本人には『形象』こそ違う形で「気づけよ?」と『警鐘』されてきたから、『モラルハザード』が『起きないモラトリアム』だった
『モーラ』が『網羅』された『理有無』のリウム(環境)だった
これが『ひとつの現実→夢』にも通じる『法則』ならば、『スケールの違う相似』にも同じ事が言える
モラル(自然法則)とモラトリアム(学び場)
私達は『一部の人』が言う『概念の宇宙の中の地球』という『概念の中に居る』という『概念を信じて生きている』から
平然と『宇宙と地球』と言い分けるが、そもそもその大半の人が『実際の宇宙』を『映像以外で見た事』もなければ、『今居るここが地球だ』という『証明をする事』すら出来ない
これと『相似』する考え方は
『ハイエンドなリアルで高画質な現実そっくりのVR世界』をが登場し、『疑似体験出来る振動感触スーツ』を身につける事で、その『仮想空間』でも『なんちゃって体験(脳が誤認)も出来る』ようになり
その世界に『没頭』して好きな時に入り浸って『現実を忘れる人が出てくる』という事は…
それは『一部の人に与えられた設定の概念の中』で『定められたルール』を受け入れ『meta設定を読み込む事』で、『真の現実を忘れる』のと同じ事だから
実は今、『現実だと思っているこの世界』は、『既に仮想空間に意識が没入』し、『五感も再現』されているから『外部に体がある事を忘れているだけ』とも言いきれない
加えてその『仮想空間における肉体の死』は『この世界(meta設定)からログアウト』で『一定期間(子孫が存命の場合)は戻れない誓約』があれば
『輪廻転生=名と体を変えて再びログイン』しても『世界に影響を与える事は無い』という『システム設定のひとつでも表現可能』になる
さらに言えば『死=ログアウト』しなくても、『夢という外部の現実』と繋がる、『その世界にはない景色を観れる』というのは
言うなれば『拡張現実・複合現実』として『仮想空間』に『真の現実の情報を反映させる』という、『逆アクセス経路』
『現実』…と思ってる『仮想現実』に、さらに『仮想デバイス(眼鏡・コンタクトクト)を重ねて複合現実を創る』のではなく
『仮想現実』に『真の現実の映像や情報を映し出す』という技術があるように、言うなれば『拡張Visonを見ているのが夢』とするなら
これら『仮想の中の現実(概念)』は『ひとつの設定世界』に過ぎず、その『設定世界が在る』というのは
『そう言う設定』における『モラルやモラルハザードを体験出来るモラトリアム』という『ミュージアム』
『法則の博物館で体験しているだけ(何も始まりも終わりもない)』という可能性もある
この『法則の博物館=アカシックレコード』は好き勝手アクセスはできず、おそらくここに『魂の経験値にあった閲覧の許可(ライセンス)』が有るのだろう
観点、目線、視野、『誰に意識』が入って『観測』するか?
これにより全く『モラル』や『モラルハザード』の『meta設定(認知)』が変わってくる
『今起きてる物事』を『どの観点』で見ているか?
例えば、『人や思想をカラー(色や光)』として観てれば、こんな見え方になったりする
物事を照らし合わせて見る・・の観測次元がそもそも違ってしまうと、画面の中のキャラクターと画面の外のプレイヤーくらい、見ている世界の捉え方が変わる
つまり、こういうまとめになる
モラル(meta認知・道徳・法則)が違えば、モラトリアム(環境)による共存は不可能
故に、選民思想=優越コンプレックスではなく、単純に住み分けは必要になる
『水と油は混ざらない』・・からといって『中性洗剤』ぶち込んで『混沌』にする必要はない
澄んだ水は元々住んでいる状態に戻るだけ
モラルとはその人に備わった『霊的な人格』であり、『道徳』とはその人格の生き様の結果現れる現象に過ぎない
『徳』を持たない者を『道』諭した所で、『モラルの出所』は理解できない
そういう場は『相いれない』から、『モラトリアムは人の数』だけあるとも言える
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