寝起き閃ワード『信仰の侵攻』ロダンの地獄の門を見ての直感的に読み取った宗教破戒の思想について
ロダンから始まる物語
先日の記事のアイキャッチに何気なく利用した『考える人』という有名な像。私は暇な時間があると無意識にこのポーズをとって真理の探求の物思いにふけっているので
そうそう( ´-` )悩むときこのポーズやでホンマにと、軽い気持ちで掲載したのだが、コメントで教えて頂いて知ったのがロダンの地獄の門という正式名称
正直、え?え、え?(´◉ω◉` )地獄??
ただ石に座ってポーズ決めてる人という切り取られた部位しか知らなかったので、それがまさか、地獄の門を通り抜ける人を見下ろすように座ってる作品の一部という事を知り衝撃を受けました
そして、その衝動のままに、ロダンの地獄の門という作品について調べると
1880年、ロダンは新しく建設される予定のパリの装飾美術館のために入口の門扉の制作を政府から依頼された。 ダンテの熱烈な愛読者であり、既に1876年に『神曲』に取材した群像《ウゴリーノと息子たち》を制作していた彼は、ためらうことなくこの門扉を「『神曲』を表わした低浮彫」の連作によって作りあげようと決心をした。
ダンテの神曲世界を表現
一つ一つは分離した作品
地獄の門の構想は生涯をかけていた
完成は没後の作品として美術館に
なんかもう、見れば見るほど何かがパシン!パシン!と頭の中に火花というか、電気が流れて回路がショートするというか・・そして翌日の今朝の寝起き閃ワードを展開した内容がシンプル哲学だった
信仰の侵攻
信仰とは神を信じる心だと言う情報を伝える者が、それを信じる者を信者にして盲信させ儲にする侵攻
神などいようが、いまいがお構い無し
紙(パルプ)さえあれば神は捏造(フィクション)できる
1次元の情報という実態を持たない神は
2次元の紙に描かれた物語や絵によって伝わり
3次元の立体の偶像の神という実体を持ち
4次元の時を超え語り継がれる神(力の実態)となる
それらは全て5次元の創造であるが
5次元とは後次元=妄信の果ての因果の結果の収束でもあれば、誤次元=嘘・捏造・誤で意図的に情報(データ)で造形されたとも言える
その空間に神を信じる信者という亡者は居ても、真や新など状況を疑う者は決して存在しない
そんな心理の真理たる審理の選択をする門を通り抜け、自ら選んで地獄に至る、愚かな人間を思慮深く見下ろすロダン(考える人)
飾られたのは美術館
美術館にはレトリックな美辞麗句で薄汚れた近親そうかんや背徳的行為をさらけ出す裸体像など、宗教的価値観や貴族の自己顕示欲という傲慢さ、人の業がありありと描かれているのを彼らは芸術鑑賞として嗜む事を美徳とする
その扉の向こうは誤次元、人の間違った業が生み出した結果の後次元。救いのない5次元世界で唯一の救いは、地獄の底の最後(出口)までたどり着く事で、やっと道を間違った事に気づけ
二度と同じ門はくぐらない知恵を得る
一歩進めば後戻りはできない
這い上がる事はできない一方通行
堕ちるならとことん堕ちろ
それを表してるようなダンテの神曲の世界への門
というのはあくまでも私の直感なので、本当は違う意図かもしれません。ただ、違う意図なら、納得行く説明をできるものならやってくれよ?って思います
美術品(価格操作された)を見るための場所の入口に地獄の門というのは、洒落てるな~という話では無いです
その門を通り抜けるというのは、遊園地のゲートを潜るようなもので、園内には園内のルールがある事を意味している
行きはよいよい帰りは怖い
怖いながらも通りゃんせ通りゃんせ
この歌の本質は怖いという印象操作ではない。関所を通り抜ける時、いかに人を誤魔化して騙すか?という嘘を正当化した遊戯
という事は地獄の門は通り抜けるのに何を黙らせる必要があるのか?
それは自分の直感や感性からくる心の声
それを黙らせる事がその門の先には必要になる
私は前回、ビカソの絵は落書きだと表現した
それは芸術的価値ではなく、自分の生活に必要かどうか?という価値基準においては無価値な落書きという自分の感性で判断している
しかし、美術館の中に入ってピカソは落書きだ!なんて言ったらどうなるか?想像に容易い事だろう
そこにはピカソは高名な崇拝される画家という地位(死後に)を得たブランドであり、そのブランド価値がついた商品を貶す事は名誉毀損になる。価値を下げるな!相場を崩すな!というレトリック崇拝の同調圧力に潰され、門の外の価値観で物事に対する素直な心の声を語れなくなるだろう
5次元といった意味がおわかりだろうか?
その門の先に自由はない
そこには人の業という因果で作られた後次元という自由ではない誤次元が待っている
門の代償として自由な意志を貫く魂を支払う
業に入っては業に従え
その先には地獄のルールがある
それをわかって門を通り抜けるのだとしたら、私は理解出来ないな…
誘惑や欲望に弱すぎる愚かな人間 と冷静に見下ろすのがロダン
そう考えると宗教的レトリックな芸術の入口に地獄の門とは最高に皮肉なプレゼントであると同時に
知恵ある者には試される審理の門になる
ここから先は嘘を認めないと立場を守る事はできない嘘の空間である。そこを通り抜けて出てくるまで、正直者は騙される魑魅魍魎の狂った世界
だから急がば回れ
早くこの地獄から出たいなら、その出たい!と本音をあげる心に従って導かれる導線(真理)を辿るしかない
でもまぁ、出口なんてないんだけどね
なぜならロダンの考える思考世界を終わらせるには、ロダンが地獄について考える事を止めればいいだけ(*´罒`*)気づき
ダンテの地獄探訪を物語にした神曲をモチーフにした、レトリック芸術を完全否定した哲学的アンチ芸術と言えるだろう
卵が先か?鶏が先か?
考える人という地獄の門という作品において、存在しないと成り立たないメインが最初に出来上がったのか?
それとも、神曲ダンテの世界のモチーフにおいて、それを主観的かつ客観的に考えているのは誰?という事から「考える人」が生まれたのか
いずれにせよ、私が気になったのは、ロダン以外の存在は、はっきり人の体で造形されてないヒトモドキで、AIが描いた絵のように体の一部が欠損して融合して混ざりあったカオスを感じる事から
これはロダンが思い描く、自分と他人を切り離した思考世界=考える人のシミュレーション…
あ、(´・ω・`)46=simだ、なるほど・・これもカタカムナ46首のシミュレーション
という事はロダンはダンテの神曲という作品からインスピレーションで地獄の門という作品を描くのに…
地獄ってなんだ?(´◉ω◉` )
とシミュレーションに苦しんだ結果、偶像崇拝の天使や悪魔と言う宗教的レトリックは現実の苦しみに存在しないという、リアリスト的な哲学の板挟みになり、その造られた天国や地獄を表現するという概念に苦しむ自分の思考シミュレーションをそのまま作品にしたような
例えるなら幽霊を知らない人は幽霊を想像できないように、情報という先入観が造形に繋がっていくわけで、その宗教的妄信がないからこそ、無いモノは生み出せないという、創造主になる苦しみを感じます
あるいは。そうやって生み出したエネルギーが遺恨(アイコン)となって自分の名前が付いた偶像崇拝が始まる事を予見している表現が、神ではなく考える人なのかも?
逆に「ウゴリーノと息子たち」という作品を見るとその世界の捉え方が見えてくるのは
父親依存の息子たち=神頼みの神の子たちに対する父の苦悩の表情と言った表現のニュアンス。天の父を神格化して崇拝し、体中にまとわりついてくる親離れできない息子たち(宗教信者)の客観的見え方って感じですね
はい、これが最初のタイトル通り
信仰の侵攻による最終的には5次元を生み出す仕組みです
本来は間違った(存在空間が違う)事ならば、そのうち消えてしまうエネルギーなんだけど、それを信じる者=信者が与えられた情報(先入観)を盲信する事によって2次元=視界(紙や文字)に定着してしまう
それが人の手によって造形され立体の実体に存在してなかったものが存在を得る事になる。その偶像の神に信者が願う事(具体的な目的)がその偶像の神に宿る意識になる
それは時代を超えて神として存在は伝わり、本来は生まれるはずのない侵攻の神が存在するの世界が生まれる
生まれる役割を選択する素粒子
停滞するGODを循環させる働きが生まれる
嘘から出た真になって嘘が世界(5次元)を支配する
そんな嘘から出た真(誤次元からのシフト)にならなければいけない
コロナ信仰と言う侵攻
ワクチン信仰という侵攻
それが新たに生まれた因果の後次元
それが当たり前のwithという誤次元
その創造にまんまと利用されてるマスク信仰による侵攻宗教の5次元
全てはレトリック(醜いものを綺麗に見せる)なんだよ
大阪万博のキャラクターは形が不安定で気持ち悪いだろ?LGBは当事者同士の問題だから好きにすればいいけど、トランスジェンダーはエゴによる選択の自由を社会に対する押し付けに過ぎないから別問題(軽視する訳ではない)
混ぜちゃ行けない問題をごちゃごちゃにするのがカオス・混沌の5次元を望む存在のやり方
だから知恵ある者は考えなさい
ロダンのように考えなさい
そんな事になる門の向こうへ一歩進む前に、思慮深く立ち止まる必要があったわけで、ワクチンやマスク信仰を試される門の前で立ち止まった人はカオス溢れる誤次元には迷い込んでいない
その門をくぐった人は同意の上の書類にサインをしてしまっているのだから、仮にそれが法律上無効で賠償の対象として社会保障された所で、体をいじくられる人体実験に自ら許可した結果の因果=自分の体への裏切りを
自然免疫システムは許さないだろう(こいつは体に禍を招く)
進んだら門の外へ後戻りは出来ない
既に対価として自由な魂を支払った後は順路に従って進むだけ
考える人、地獄の門…深いな〜
ロダン をカタカムナの思念読みすると
空間が強く反対に分かれる
この人は人々の意識が偏った統一に向かった時に、その逆に行く、あるいは留まる選択を生み出す役割だったのかもね。ダンテの神曲に心酔しても、ダンテの世界を生涯表現はできなかった・・あるいは
考えるのをやめて、思考を手放した?
だってロダン自身はその門の向こうに行かない訳だから、そこに好き好んで入っていく、あるいは逃げ出そうとしてる人の気持ちを考えた所で答えはない
別にどーでもいっか(゚∀゚)アヒャ Σ(゚Д゚)
悟りの先に苦行をやめた釈迦のように、芸術家も何かを悟ったら創作をやめる・・そして目的を達成して満足したら生への執着が無くなる?と思って調べてみたら
1840年11月12日
1917年11月17日
77年か~・・てエピソードを調べていったらま~これが面白いのなんのって!
カミーユ・ビダン(美談)
ロダンの若き弟子にカミーユ?クローデル(女性)ってのがいて、病気の妻ローズと若き美貌と才能のカミーユとどっちを選ぼうか・・という時期に、結局妻ローズを選んだ事によって、カミーユは徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごすことになる
カミーユが精神病院に(´◉ω◉` )どこかで・・
ここから情報を掘り下げたら面白い所に着地した
庵野(インタビュアー)「カミーユ・クローデルって、その後映画にもなりましたけど、その頃は誰も名前知らない人ですよね。半生を精神病院で過ごした女性(ひと)で。カミーユも最終回で精神をやられちゃいましたが、それもクローデルに影響を受けて?」
富野「もちろんです。あの時は『エルガイム』の反動で本能的にクローデルみたいな人をモデルにしたんだけど、今ならうまく説明できる。カミーユ・クローデルにとっての師ロダンの位置づけが、カミーユ・ビダンにとってのΖガンダムだってっていう。
その構造が僕にとって一番シンプルにとらえられる。
クローデルとロダンの関係というのは、愛人関係でありながら、じつはロダンの半分くらいの作品を彼女が作ってたんじゃないかという。
でも世間的には、クローデルの作品もロダンが作ったんだと見なされて、失意の中で彼女は精神をやられる。反対にロダンという人はそのおかげで美術史に残っていったわけ。
でもひとりの人間として考えると、ロダンが自分ひとりで成立していったかといえば決してそうではない。
クローデルみたいな人もいたんじゃないか。
と同じように、ガンダムだけで『ガンダム』が出来るわけではない。要するに「表現される人と物の関係」を、クローデルとロダンの関係は象徴的に表しているサンプルだったんです。だからカミーユに惚れこんじゃった。」
なるほど・・生前完成しなかったロダンの地獄の門の構想を完成させたのは、もしかしからカミーユ・クローデルだったのかも。妻ローズか?自分か?を地位ある高みから、肉欲・愛欲の地獄の選択をできずに考える優柔不断男
というロダンに対する皮肉の愛憎作品の可能性もある訳ですね
うん、やっぱり多角的な捉え方で一つの作品の並行次元がいくらでも成り立つから哲学って可能性があって面白い!というか、やっぱり哲学を追えば庵野さんや富野さんが先行して未知を切り開いてる先駆者なんだと
改めて二人が関わって生まれた作品の深さを感じた(だからイデオンとかエヴァの本質が好き)
信仰の侵攻とは価値観の押し付け
価値観は価格操作の格付けで変わるけど
自分の中の価値基準は変わらない
ダンテの世界を表現したのか?
ロダンが思い描いた地獄なのか?
カミーユから見た優柔不断のロダンへの当てつけなのか?
いずれにせよ、若き才能と美貌を持つカミーユではなく、長年苦楽を共に過ごした病気のローズを選んだ理由というロダンの心は本人にしかわからない
常に思慮深く可能性を考える人であれ
それが死後のお仕事のひとつ、思考シミュレーションに繋がるのかな•́ω•̀)?っと思ったら・・私はロダンの彫刻の情報が入ってくる前に、ダンテの神曲のほうに誘導されていたという導きの伏線回収だったようで
ほんと無駄がないシンクロニシティ・・
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