先人の知恵たることわざのベースを知ると、大自然のメカニズムを読みといた高度なロストテクノロジーだった。人類はテクノロジーを求める先を間違えているかもしれないお話
タデ食う虫も好きずき
蓼のような苦味のあるものでも好んで食べる虫がいるように、人の好みはさまざまであるということ。
好みって・・人それぞれやん?(゚∀゚)アヒャ Σ(゚Д゚)
この現代的な解釈が完全に間違って後世に伝わっていたという発見をしたのが、イタドリという多年草の存在
タデ科の多年草という事で、タデにも色々な種類があるが、そのタデとひとくくりにされた中のひとつのイタドリ(虎杖)は痛みを和らげたり、利尿や生理不順を治す効果がある薬草
イタドリは痛みを取り除くという効果からついた和名で、中国伝来の時点では生薬名として虎杖根(こじょうこん)と呼ばれる
昔の日本では八百屋で売っていたという意味では、八百屋は地域の漢方の材料を扱っていたという役目もあったんだという発見(大手外資系スーパーや西洋系医薬品のドラッグストアに潰された)
また、ここから想像に至ることわざがひとつ
転ばぬ先の杖
転んでから(ケガをしてから)杖を用意しても何の意味もないですよ=失敗しないように万が一に備えて十分な準備をしておきましょう。 という意味のことわざ
これも・・現代的な意味の分からない解釈だ
杖をそのまま物質的な支えの杖と解釈してる面がある・・持ち運ぶのか?杖を?(;・∀・)また十分な準備という、具体的に何を?というニュアンスが抜けているが
この杖というのが、虎杖根=イタドリ=痛みを和らげる薬草と考えれば、昔は長距離移動、旅は命がけであり、道中怪我や病気など何があっても痛みを取り除く事ができるという意味で、転ばぬ先の杖となる
つまりは、痛みを和らげる薬草を準備する事が、何があっても命を守るという意味で用心するという意味なのだろう・・と考えた時、冒頭のタデ食う虫とは、自然界に生息する昆虫の動作を観察している状態だが
人間が痛みを抑える必要性に駆られ、イタドリ=タデ科の薬草を食べる・煎じて塗ると考えた時、タデに集まる昆虫というのも、もしかしたら、苦しみを緩和するためにそれを食べに集まっている可能性もある
タデについて、苦みのあるもの と表現している事から、あまりおいしい草ではないのだろうけれど、そこもまた先人の知恵たることわざがある
良薬口に苦し
良い薬は苦くて飲みにくいが、病気のためにはすぐれたききめがある。忠言、諫言は聞きにくいが、その身のためになること
つまりは、人間も虫もタデ科の薬草=生薬という漢方は苦くて食べにくいが、痛みを和らげる=生きる薬という意味で共通の認識を持っている
人は虫の行動に学び、どれ・・とためしに食べてみたら苦っ!(;゚Д゚)と体感し・・でもそのおかげで体に変化が出た事で、それをきっかけに漢方という自然界の生薬は人を活かす効果があるという発見に至ったのかもしれない
ロストテクノロジーは自然界にあり
それはもともと人類は到達していた自然と人の調和の在り方なのかもしれない。現在のデジタル的な解釈からみれば泥臭いアナログに見えるかもしれないが
それぞれの草ひとつとっても、雑草と名もなき草として扱われるような無駄な物はなく、気づいてないだけで生き様と役割があり、それに気づかせてくれたのが、タデ食う虫であり、その虫を観察した先人が体験して、苦っ!(;゚Д゚)でもなんか効く!と
そのノウハウを体系化し、人々に広げたからこそ、虎杖根という漢方として認知されるようになり、転ばぬ先の「杖」として、旅での痛みを和らげる生薬として重宝されたのかもしれない
まぁ、タデ食う虫もすきずき=人の好みはそれぞれ という解釈というのも、必要な人と必要でない人という意味分けもあると思う
例えば、私は薬用養命酒を好んで飲んでいるが、家族や友人は、草っぽい味で飲めない(;´Д`)と嘆く
え?嘘だろ!?こんなにうまいのに!?(;゚Д゚)と私は驚く・・と考えた時に虫の気持ちと人の気持ちの違いを理解した
タデ食う虫は、タデが美味しいから食べてたのであってタデ食う虫を真似して食べた人間は苦っ!(;゚Д゚)となった って事だろう
逆に言えばこれは、味覚異常の可能性もある
そのケースを語るにおいて、ひとつわかりやすい例を
禁煙たばこの匂いに苦しむのは喫煙者だけの法則
むかーしむかし、その昔、私が若かった頃、車内に4人いて、3人は普通のたばこ、1人はネオシーダという禁煙するための薬用たばこを吸っていた
すると、どうした事か、薬用たばこからでる副流煙を吸い込むと、3人が吸っていた普通のたばこの味がみるみる変化し
(;´Д`)クソ、まずい・・と一人また一人と吸うのをとめるのだ。そして、その薬用たばこの副流煙を吸い込むたびに、喉や口の中に残ったヤニの匂いで気持ち悪くなった
しかし、薬用たばこを吸っていた一人は、そんな影響を一切感じずに、気持ちよさそうにその薬用たばこを吸い続けていた
私たちはそれを畏怖の意味をこめて廃人スモークと呼んだ・・あれから20年!( ̄▽ ̄) Σ(゚Д゚)きみまろ!?
そいつはいまだに禁煙車用の用たばこを吸い続けていたのだけど、今はその廃人スモークと思っていた匂いがまったく苦しく感じなかった
え?(;・∀・)吸ってる?煙匂いしなくね?と驚いたのだけど・・原因はすぐにわかった
私はたばこを完全に辞めて体の中にたばこという毒素がかけらもない状態のため、そもそもその薬用の煙が作用する要素がないのだ
つまり、体が完全にたばこの毒素を持っていない人には無害なたばこだったから、あんなに平気でスパスパ吸っていても喫煙者以外に文句を言われなかったという事がわかった
この応用的な発想でタデの苦み=良薬口に苦しを考えた時、体に悪い所があるから、苦みという苦しみが発生する
逆に言えば、その苦しみを感じないという事が毒素がない証拠なんだという逆説的な解釈だけど、これは自然の法則においても理に適っている
例えばホメオパシーの考え方
毒を持って毒を制す=症状に合わせた対症療法
逆に言えば、毒なき所にそれを行うと逆に毒の症状を出してしまう
私もそれはブルーピングという好転反応で実感した
マラリアにかかった人はマラリアの木の成分で治せるが、マラリア予防のためにマラリアの木の成分を入れると、マラリアに感染する
だから、毒のない所に毒を入れるという、予防接種という西洋医療のやり方は、はっきり言って人体の侵略行為と同義
過去の歴史上で大陸に渡ってきた医療行為を根付かせる時にずっと使ってきた実際の侵略のやり方の繰り返し
①ヨーロッパからの上陸者が来たから先住民のインディアンが疫病にかかった
②日本ではヨーロッパの宣教師が来てからコロリが大流行した
③豊臣で梅毒が流行した時、徳川側に朝鮮を経由したヨーロッパ勢力が手を貸していた
今回のコロナ騒動も同じで、ワクチン接種という予防接種から全てが始まった
何の問題も起きてない所に、無理矢理問題を起こされた事によって万延した人為的な病気
これが西洋医療の傲慢さであり、その西洋医療に従事する医者は、専門課程の大学で医学を学ぶが選考過程だけで、それ以外を知らない蒙昧な役職
それらが結託して、東洋医学を否定する社会情勢に加担した結果がこれだから、ほんと恥を知れって思う
ノーワクチンで健康体、その理由は自然の恩恵(自然免疫抗体+体内細菌)がある事。健康な体は大地と繋がり、大地と繋がった虫たちが造り上げた自然食のおかげ
有害な人工科学調味料や添加物まみれの加工食は極力避け、体に取り入れないようにして、食事も必要最低限のバランスを保つだけで十分に機能する事も理解した
つまり、学ぶべきロストテクノロジーは自然にある
かつて、無重力ホバーを開発した外国の技術者は、地中に巣を作る蜂の羽音の周波数がきっかけで発明したという話を聞いた事がある
またアリは地上100以上から落としても一定速度からスピードが変わらず無事に着地して生きるというメカニズムなど、実は重力制御する能力があるのではないか?等
昆虫世界、そして昆虫を呼び共存する植物の世界(周波数)は人間はまだ解明できていない・・というより、実は過去の先人達は分ってるからこそ
ことわざにして伝えているのかもしれないが、現在はそんなことわざの意味も捻じ曲げられた現代風の解釈にされて、本質から遠ざかっているのかもしれない
今回は
タデ食う虫も好きずきのタデが虎杖根という生薬である事から
道中旅先で何があるかわからない用心という意味での転ばぬ先の杖(薬草)と解釈し
でも、それ良く効くけど苦いんだよな=良薬口に苦し
という3つの生きたことわざが生まれたのではないか?という閃きでした
もともと人間は自然の一部=土・大地から創られし生き物。自然に還らない不自然なものを細胞から除去していけば、自然との調和をより強く感じ、太陽の光でエネルギーを吸収し、風が呼吸で全身を巡り、心地よく一体化できる
そんな感覚がするんですが、たぶん有害な成分が細胞にある限り、自然の恩恵は厳しく苦く感じるかもしれません
薬用養命酒のように・・ね( ̄ー ̄)本当は美味いのに残念 Σ(゚Д゚)
自然の素材の味を拒絶するのは、自然に還らない物によって細胞が汚染されているから味覚が狂ってるんでしょうねとしか思えない
なぜなら味覚が自然と一致すれば、大切にするべき物が一緒になるはずで、虫が育ててくれた作物を食べて、虫も殺さず共存できる
虫食いは安全でおいしい証拠、逆に、虫が寄り付かない、虫も好かない作物は・・自然界に拒絶された異物=人為的な薬などが撒かれた可能性あり
自然界を観察すればもっと色々な事がわかるかも?逆に自然の動物も人間を観察して模倣してるケースもあるからおもしろい
いつも楽しく記事を読んでます^ ^
ありがとうございます!
薬っていう字も本来は植物から出来たもので、これを摂取することにより楽になるってことから作られた漢字かな?って思った内容でした(^O^)
沢山の個性が存在するこの地球に生まれたことが喜びであり、冒険(体験)出来る楽しさを死ぬまで味わいたいと思います^ ^
まったりさん いらっしゃい
ほう!(≧▽≦)確かに草で楽しいで薬でハッピー!あるかもしれませんね!傷薬になる生薬の味や様々な効能もそれぞれの草の個性だし、日本人は昔大麻でハッピーだった訳で、インディアンなど民族もグレートスピリッツと繋がる儀式ではアワヤスカなどやはり自然の草で楽しいトリップだった訳で
用法容量、節度を守って使えば、人に楽しい体験だけじゃなく、第七感の領域で様々な知恵も降りてくるという意味では、ご先祖様と繋がる体験があるからこそ、ご先祖様を敬い大切にする伝統が根付いてるのかもしれませんね
なぜか盆だけは休みにしますからね(謎)
正月なんて日本は世界と休みがずれてますしね(世界は旧正月なのに日本だけ・・)
ビジネスにしようと姑息な欲に振り回され、合成麻薬という人造の紛い物を生み出すから人は狂っていく・・人間は精神性が低い(;´Д`)
麻(コットンとか)を見に纏うだけでも、夢見が変わったりするんですよね(意外と知らない人多いけど)
地球は本当に学びが多く、見つけてない発見はたくさんあると思います( ̄▽ ̄)近いうちにアマリリスの観察日記を公開しますが・・この花は、世にも奇妙な自然と繋がらない不自然な法則の外側にいる花でした(脅威)こうご期待w
返信ありがとうございます\(^o^)/
> ビジネスにしようと姑息な欲に振り回され、合成麻薬という人造の紛い物を生み出すから人は狂っていく・・人間は精神性が低い(;´Д`)
ここの部分も体験したくて人間になったんじゃないのかな?って思います^ ^
何の楽しさ(経験)を求めて来るのかは人それぞれですし。(ここが無意識の中にあったりしますよね)
すべてにおいてウエルカムな地球に居るからこそ地球に感謝しつつ死ぬ時は肉体を返してありがとう!と言いたいです^ ^
お盆って言えば、なんできゅうり、茄子、生米なのか?が謎ですw
まったりさん いらっしゃい
>ここの部分も体験したくて人間になったんじゃないのかな?って思います^ ^
おっしゃるとおりで、人それぞれ求める目的が違いますし、好奇心でドラッグに手を出して、体を蝕んで取り返しがつかなくなって人生狂う体験をするのは好きにしてくれっていう人間ドラマの選択を俯瞰で見た私の個人的な感想でした(;´∀`)
参照
https://curiosity-koukisin.com/self-control/life_is_a_stage.html
お盆の風習は確かにわからないですが、一般説はあの世からの生き返り(行き帰り)の乗り物ですよね
胡瓜はキリスト教と関係がある野菜です
生米は古神道で五穀(米・麦・あわ・きび・豆)に入ってます
という事は茄子は、あの世の概念が入ってるので仏教かもしれません
全てが同時期に始まったのか、それとものちに増えたのかによっても、宗教思想統一などの歴史も絡んでくるかも
そして、生米??(;´・ω・)と思ったので調べてみたら、関東圏だけらしいですね。胡瓜と茄子はわかるけど、地方は生米はないっぽいです
気になって調べたら、水の子という餓鬼道に落ちた子供の供養?(水子の霊?)
①針のように喉が小さく通らないため水にうるかした米を用意する説
②餓鬼は食べ物が口に運ぶと燃えてしまうため水につけている説
先祖じゃなくて、そんな霊をわざわざお迎えしてたんかい!って思うと、どうなんこの風習(;・∀・)クリスマスのモミの木が実はサタンを招き入れる儀式の一環っていうのと同じじゃね?という気持ちもわきますね
そうなると、行き帰りの乗り物という胡瓜と茄子も意味が変わってきそうな・・
地方によって違うって事は、結局しきたりや形式なんてたいした問題ではなく、仏教の教え(宗教の恐怖洗脳)に『檀家が従順に従うかどうかのストレステスト』されてるのでは?
たぶん、言われた通りやらないと仏罰が下る!とか呪われる!とか言ってきそう(宗教に懐疑的な者なのでw)
実際、お盆の時期にそれをやってないからどうという事もないですし、これもそういうのを信じる人がやればいいのであって、やらない人に価値感を押し付けなければ特に気にしなくてもいい事ですね
そもそもなぜ、その時だけ先祖の事を?っていう、普段から先祖の意志をDNAに宿して生きてる者としては???(;´・ω・)そもそもお盆ってなんだ?と謎がもっと大きくなってしまいました。たぶん、気になったのでそのうち直感で閃きが来たらまとめてみようと思います
コメントなのに色々と情報ありがとうございます!
それと生米は関東圏だけなんですね(汗)
とある本を読んで知ったんですが、縄文の時の死と現在の死の観点がマルっと違ってるそうで…。
それも宗教が絡んでるって感じですかねぇ…。
お盆も元は宗教だったり?w
先祖供養って本来は必要ないように感じます(死は肉体と意識が分かれるだけだし、意識は元の場所に戻るから)
ってことは、生存してる人の勝手な解釈…?
宗教といえば
宗教→依存→恐怖。。。
日本ではなかなかうまく行かなかったから明治維新(トロイの木馬)
今回の騒動は世界といいつつ、標的は…日本^ ^;
あ、もうこのカテゴリとは話が逸れちゃいますね!
ではでは!
アマリリスの続編、楽しみにしてまーす!
まったりさん いらっしゃい
死んだらどうなるかわからなくて怖い!と生きてる間に気にするような心が弱くて安心したい人が宗教に帰依してきて、そういう助けを求める人に安心する事をいうのが布教される死後極楽浄土ビジネス仏教との事
要は概念的な死後の世界は、怯えて眠れない子供を寝かしつける子守歌のようなもんですね
そういう人達は仏教の悟りなどの宇宙や内観世界の真理の説法など興味がなく、自分たちが安心したい事しか聞く耳持たないから、耳障りの良い宗教(宗派)の考えを受け入れるのだと思います
場所や時間に縛り付ける先祖供養も宗教でしょう
花屋・石屋・葬儀屋・お寺・国を挙げて休みにするという法律まで食い込ませる時点で、宗教が政治に入り込んでいるという政教分離ができてない証拠でもある訳ですね
特定の場所(お墓)に大量の人が集められる
前回のコメントで生米を水につけておくのは餓鬼のためという観点から、何かを呼び寄せて餌付けするとも言える訳で、そういう得体の知れないのがお墓に来た人に憑依して持って帰させる・・なんて呪術の線だってありますね
クリスマスのモミの木がケロイド信仰における生贄やサバトの儀式に用いられるもので、サタンを呼び寄せるための媒体である・・なんてのは一般の人は知る事もなく
そしてアメリカでは1984年のグレムリンの中でも「なぜかクリスマスには人が多く死ぬ」というセリフが盛り込まれていた通り、実はヨーロッパでも心筋梗塞で死ぬ率が最も高いのがクリスマスだとか・・
サタンではないけど、真っ赤に染まったサンタがやってくるというアナグラムや呪術の観点からすれば、すり替え置換でもろわかりのレベル
そう考えると、仏教のお盆の時期の海難事故が多いとか、その時期にそういった悪い霊が現れるのも風習が迎え火やら、茄子、胡瓜、生米だったりして?
わかりませんよね?その儀式の意味をわかってるお坊さんも少なく、昔からこうだと言われてる作法だけ真似て、それを継承しているという中身からっぽのパターンの場合、本人も知らずに得体の知れないモノを召喚してる可能性だってある訳で
・・と残されたモノに対する作為的かつ詐欺がみんな信じるもんだから常套手段化して、ビジネスモデルになってしまった上に、最悪な魔物を呼び寄せる繰り返しの負の連鎖をし続けてる?という可能性もありますね
移動民族の場合は形見という形で何か一部を持ち歩く事で、供養ではなく共に生きる、そしてそれを親から子へと生きた証を継承していく。だから、場所にも物質的な肉体にも固執しないで前に進んでいくのだと思うし、おそらくは日常での死生観の教育だと思います
狩猟民族にとって動物の死も人の死も同じだと思います
生きるための衣食住に必要最低限の命を狩り、その生き様の証である肉体を頂戴する
それは血となり肉となり一体化して生きるエネルギーの糧となるからそこに悲しみはなく感謝しかない。そう考えると、古代の死生観の中に親や子が亡くなったら食べた可能性だってあるかもしれません(縄文は平均寿命が28歳だったらしいので肉も新鮮)
人が人を食べる・・今でこそ道徳観や概念から気持ちが悪いと感じるかもしれません。しかし、動物も人も自然と繋がって生きている時代の人達にとって子食い、親食いというのは、肉体から意識が離れ旅だったら、腐る前に美味しく頂いた上で、その骨や歯の一部を御守りや形見にした可能性も十分にあります
全ては人間が動物に対して行っている自然の摂理の考え方を人間が人間に応用するパターンで、別に食人を推奨している訳ではありませんが、死生観という概念がなければそれが当たり前の時代だったかもしれない訳です
愛する人、家族、大切だった人の肉体を死後食べてひとつになるのも愛の形(骨まで愛して)という考え方だってどこかの世界線の死生観のひとつかもしれません(;´∀`)
でも、大事な事は主観=意識の在処ですから、死んだら死後残された者達が肉体をどう扱うか?なんて気にする必要はないですよね(未練がなければ)
前へ前へとその先へ向かってる人は、自分があるタイミングでもう肉体から意識が離れて死んでいたとしても気づかないかもしれません
最近思った事ですが、もしもここがサマーランド(現実を映したような死後の世界※上層アストラル)だとしたら、自分が死んだかどうかなんて、日常で生きてる人は実感できません
つまり、死を考えて生きる事ほど、馬鹿々々しい事はないと思います(゚∀゚)アヒャ
死をテーマにすると・・・一日語れるのでこの辺でw
アマリリス了解です( ̄▽ ̄)
「死んだらどうなるかなんてわからないよw」とあっけらかんという仏教の長老だから、私は信頼しました(笑)日本語が流暢でとても頭のいい長老の説法は例え話もおもしろいのでラジオ変わりに聞くといいですよ
https://www.youtube.com/channel/UCrqoH_sO3BQTBgU_u0pj-hA
これからは、与えられた情報が何か?という事をちゃんとよく考えて、自分で納得する軸を創っていかないとダメな気がします