好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

忙恣意=心は亡く次の心の音へ

忙しい=心が亡いと読み解いた時、しい=恣意は次のやりたい事へと心が意識をシフトしていると気づくきっかけの実体験を与えられたお話。やっぱり漢字と日本語の表現はつくづく精神エネルギーの流れを簡潔に説明している

忙しいと書いて心亡

朝イチに「通話出来る?」とメールで話を振られ、忙しいから要件まとめてと伝える

これは私が『内容を聞いて面倒だったら避けよう』という気持ちからの『行動と発言』だと客観的に自分を霊性に見ていた

案の定、「ムカつく奴がいてさ〜」とただ『愚痴』を聞いて欲しかったのだろう振りが来たからこう返した

「朝イチから、俺のよく知らない人に対してムカつくんだよねーと同意を求める愚痴を聞かされる人はムカつかないとでも?で、話したいのはそれ?違う話題?」と返したら

「別に話はないから、忙しいのにごめんね」と締め括られた

忙しい?(´-`)oO ←ココ

確かに私は、『愚痴に付き合う気はない』と最初から決め、心の広い狭いは関係なく、『面倒』と思った節もあるが、『話によっては親身に相談に乗る=面倒を見よう』というスタンスで応対したが…

願わくば、(寝起き閃で降りてきたキーワードを洞察して掘り下げたい(´-`)oO)という『ワクワク』が勝っていたから、その人に対して『心亡き対応』をしたのだろう

というか『前科=かつての業=迷惑をかける生き様がある人』だから、触らぬ神に祟りなしと、できるなら距離を取っておきたい関係性が『急激に近づいてきたから牽制』もあった

しかし、無下に扱い『気の毒な想い』をさせて、『怨恨』を持たれるのも嫌だから『心亡=辛抱』もした

つらさを(かなり長期間)じっと我慢する、また、つらい仕事をじっと耐えて勤めること

そんな『辛抱=心亡=忙しい』

いそが=急が・忙
しい=恣意

恣意

自分の思うまま。思いついたままの考え。気まかせな心

HAHAHA( ̄▽ ̄)

急が恣意=急ぎ次の心に意識が
business=busy(急がしい)+ness(役目)

忙恣意=そこに心は亡く次の心に意識が
heartless=heart(心)+less(少ない)

そうか(´・ω・`)私は「忙しい所をごめんね」と言われて、確かにその人の話に対して向けた『心は少なかった=心亡き対応』かもしれないと反省しつつ

でもだからこそ、『恣意=自分の思うまま。思いついたままの考え。気まかせな心』に意識が向いてて、オラそっちのが『ワクワク』スっぞ(๑•̀ㅂ•́)و✧

思い返せば…

通話出来る?→忙しいからメールで(様子見)
愚痴の話→知らん人の愚痴は興味無い(牽制)

結果、『最小の心=heart less』を切り離し
それ以外の心は全て『恣意』へと向かっていて
そこはもう『忙しい』として『心亡き』後

心、ここに在らず

それが『忙しいという状態』だが

『強いられてる』ならbusy ness
ただ『急がしい』という『役目』

無理やり、その状況に置かれる、そうせざるを得なくなる、余儀なくされる

私の場合は恣意=自分の思うまま。思いついたままの考え。気まかせな心

『次の心』に『意識』が向いている
もう『少ない心のheart less』は観測していない

次の次元に『意識はアセンション』
次の次元に『意識は量子テレポーテーション』

天(点)は二物を与えず=量子テレポーテーションの次元は創造しろ

いそが+しい

急がばまわれ=『遠回りしろ』と『強いられる』
忙ば間割れ=『心亡は次へ』行けと『間を割って』抜ける

なるほど

かたや『現実的な物理=周回』の道に沿って
かたや『精神的な心意=空間』の未知を抜けて

『通る道筋が違う』って事だ
精神では、『空間=口』を『割って』しまえば『人』は『口封じ』に『囚』われない

今回の私の体験は

『急に連絡』が来て、それをまともに『愚痴対応』してたら、相手の堂々巡りする内容のない『感情の吐露を受け止める事を強いられ』、私は『心を亡くした=忙しい』に追い込まれただろう

それを回避出来た( ー̀дー́)و『忙恣意』の牽制

私は『私のやりたい事』に『意識』が向いて、それ以外は『真我以外、色即是空』、心に従い、心のままにやりたい事をやる!!

そこに心を置かない(気をつける)
心置きなく、『心(真)は常に我と共』に

ほほう( ˙꒳​˙ )この学びもまた、神社で面白い説法に繋がるヒント欲しいと『request』した『Quest』だろうな

シンプル哲学 quest(探求)とrequest(要求)

なんで『急』に『疎遠な人』から連絡が来たのか
なんでいきなり『内容の無い愚痴』だったのか

『イベント』を求めると『イベント』が起きる

これを『小さな事で実感』するのは、普段特に『波風が立つようなイベント(人の業)』に関わらないからだろう

人は何でも慣れすぎて、『慣性』で『感性』を失って『感動』しなくなっていく

感性があれば『小さな変化でも有難い』と色々実感出来るからこそ、『恣意的』にもなる

恣意的という表現もあまり『良い意味』では使われないが、しかし、漢字の感じを観る限り

イケイケ(๑•̀ㅂ•́)و✧心はワクワク『意欲』が湧く限り、『諸行無常に心は変化』する

次の心を意識している=『シフトする』

確かに一蓮托生の組織においては、『恣意的=自分勝手』と楔を打たれ、『出る杭は打たれる』かも知れないけれど

元来、一人の人間は『恣意』にしたがって、『的』を『目』で探している=『目的』

『目的』を失ったなら『生き甲斐』は『死骸』になるが、〜しがいがある!と『心』が動けば『~しがいがある=伸びしろの探究=生き甲斐』になる

つまり『目的』がはっきりした時、『恣意的』に『意識がシフト』する

『はっきり嫌だと思う事』から『逃』げてもいい
『兆(きざし)』の方へ『進』むんだから

兆しとは『変化、きっかけ』
それは『心が変わる前触れ=コンタクト』

ここまで書き終えて、『さっきまでのやり取り(過去)』があってのこの記事の『独自体感論説法』なんだなと(´-`)oO

そしてそれは私が神社の祠で願った事

「(。-人-。)真理の探求のヒントが欲しい」

これが叶った『引き寄せのイベント』の『シンクロニシティ』でもあるとますます実感。ちなみに今回のお参りではっきり感じた違和感があった

龍は『腰』に宿る(文字通り)

お参りを終えて家に帰ろうとした時、腰の痛み、腰痛が…

(´-`)oO{あ、この体験話は別記事にまとめよう

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