家族を大切にし、伝統行事を大事に幸せにする世界を体験した夢、祝詞を唱えられる巫女な家事手伝い娘と出逢い、幸せな空間の中で学んだ無意=還る場所の意味
寝起き閃キーワード いぶき
先日、寝る前にカタカムナ61首に突入しようと思ったけど、あまりに眠いので…
読まずに貼った( ¯꒳¯ )ᐝ Σ(゚д゚;)どこぞのヤギかよ!
そしたら案の定、寝る前に変化はあった
まずは頭に響く『ノイズのような声(悪い邪念)』
いわゆる金縛り時の『幻聴』のようなもので、普通の人は『怖い』と思うかもしれないが(´-`)oO{慣れてしまえば、本当に幻聴だから『耳を貸さない』で置けば次の段階へと進む
次の段階は私を『抱き抱えようとする手』が脇の下に入ってくる感覚、これが苦手なんだよね・・なぜなら凄い『こそばゆい』から
( >﹏< *)脇はやめて〜Σ(゚д゚;)
ピクンピクンとしばらく耐えていると私も感じ疲れたのか意識がふわっと飛んで離れて夢を見た
完全に『見せられる夢』だが『別の世界(可能性)の私だと自覚』して見る夢。その世界では、姉が親孝行して両親にマッサージチェアを買っていた
そして私も母に同行して家の外の建造物の修繕の為か、老舗の石屋のような店に行くのだが
そこで、店の親父さんから『役小角』の話を聞いた時に、私は「最近立て続けに鬼に関する話を聞いてる気がするんだよね」と『いぶき』という伝統の『祝詞』の話をしていた
この(最近立て続けに鬼に関する話を聞いてる気がするんだよね)という『なんとなくの感覚』部分が『今の私の人生で得ている体験』
しかし『いぶき』に関しての情報はない
つまり、その夢の世界では『私の方が夢の断片的な記憶』になっていたと『自覚』した。記憶の方に『意識(私)』はなく、意識にもまた『記憶(この示現での体験)』はないから
『なんとなく〜』な気がした(*´ω`*)という繋がりだが『私の意識は確かにそこにあった』から、その『体験を記憶』として持ち帰った
衝撃的に印象に残る事があった
その理由は、その店の『看板娘』が親父さんと私の間に入ってきて「私、その祝詞言えるよ〜!」とスラスラと『祝詞の全文を暗唱』してしまった
そしてo(`・ω´・+o) ドヤァ…!Σ(゚д゚;)
またその看板娘が書いたであろう店の商品のカタログが、人柄溢れる見ててクスッと笑ってしまうほど『家の事が好きなんだなぁ』と感じさせる温かみのある注釈等の絵図で構成されている
天真爛漫でいて、人付き合いもよく、何処にでも引く手数多なのに「高給取りの仕事はいらないで遊ぶ金ちょっとあればいい(´∀`)」と
『能力』があるのにそれを自分の為に使わない、そんな彼女が唱った『いぶき』という祝詞が気になって、『記憶として定着』した訳で
颯が通り息吹を感じた
息を吹くこと。 呼吸。(神が息を吹く意で) 風。(比喩的に用いて) 活動をもよおす気分。生きものすべてにあるもの、誰かのそばにいるとき、まさに感じられるもの、感じていたいもの、そこにいて、まさに元気に生きていること
颯の意味は 『風が吹く様子』
彼女が軽く詠い出した様は、颯=立つ風
一筋の風が通り抜けて草木が反応してサワサワと息吹くように木霊して身体を通り抜けた
『祝詞を受ける』とはこんな感じなのかと(´・ω・`)
基本的に祝詞は『神に捧げられる事』が多く、『人へと詠う事』は無いと思うし、そもそも祝詞を知っている神主も『必要な行事』でしか人前で唱えない
しかし、彼女が行った行為は…
おはよう(*^o^*)のノリで『出逢った私に祝福を与えた』ように生きとし生けるもの全てのものへ伝わる『息吹を唱えた』
サラッと早口で私の中を『颯』が通り抜け、私の体の中の『細胞(体感)が息吹』を感じた
こんな自然に『祝詞(いぶき)』を使えたら…
そんな祝詞を受ける『余韻』を感じながら目覚めた時に、最初に調べようと思ったキーワードがこれ
『無意』(61)とはなんだ?!
自然のままで、作為的でないこと。「―にして化す」(おのずから教化される)生滅・変化しないもの。自然。絶対
ははは(≧∇≦)そのとーり Σ(゚д゚;)
普段何気なく『無意識』という言葉を使っていたが、それは『意識』の方がメインで『意識が無い=無意識』として認知していたが
違うんだ
『無意』の『認識』は『別』なんだ
自然の意識なんだ
私は『自然のまま』、『作為的な事』もしないまま、『別の自分に一体化』していた、それが自然な生滅変化しない『〜して化す』なんだ
つまりはあれが『自然体』だった
では、あちらで私は何をしていたか?
私の周りはみんなどうだったか?
『家族を大切』にしていた
『親孝行』していた
今の私と変わらない…ではなく今の私が『本来の私と変わらない生き方』に近づいていた
『真似』ではなく限りなく自然に『真』に近づいている
それはつまり『ゼロ』になるけど『無意識に還る』だけ
自分という『偽=人の為の分離(役割・思考)』を止めようとしていると考えると、最初に『幻聴、ノイズ』と聞こえた声が、『執着を手放せない自分の声』だったのかもしれない
でも、もうほとんど執着がないから『その程度』だったのかも(笑)『執着が強い』と『幻覚(自分の中に潜在する最大の恐怖)とかで怖い体験』するのかもしれないね
さて、そんな訳で、体感が先で理論は後付け!カタカムナ61首を読み取って行こう!
カタカムナ61首 言霊読み
アマアワナギ
命の受容と命の調和の核の内なるエネルギー
ハヤアキツ
引き合い飽和した命のエネルギーが集まる
ヨモツチカヘシ
陽の漂い集まり凝縮した力が縁を示す
ヤホウシツミ
飽和して引き離し生まれた示しが集まり光になる
カシラハラ
力を示す場所に引き受う場
ふむ(´・ω・`)夢体験から察するに…
アマアワナギ=命の息吹そのもの と言える
引き合い飽和した命のエネルギーが集まるとは、私の意識が無意識(自然・本当の自分)に自然に導かれた
陽の漂い集まり凝縮した力が縁を示すとは、親や家族、周りの人を大切にするのが当たり前の誰にでも祝詞を唱える世界
飽和して引き離し生まれた示しが集まり光になるとは、夢から覚めて記憶という情報(光)になる
力を示す場所に引き合う場、それは役割を担った現実
無意の心を学んだ意識と融合する=無意識というエネルギー
意識が無い時、迷子のように1人さまよっている訳ではなく、より大きな無意のエネルギーの中に漂っている
だから人は夢(断片)を見る
夢を見ている人は『夢人』
その間、現実は『無人』なんだ
そんな私は毎度寝る前は、自分で決めたルーティーンによって
無念無想
一切の邪念から離れて、無我の境地に到達した状態。 単に何も考えていないことを指すこともある。 ▽仏教語。 「無念」は雑念を生じる心を捨て無我の境地に至ること。
単に何も考えてない(*゚∀゚)アヒャヒャ Σ(゚д゚;)
頭空っぽの方が夢詰め込める♪~チャラヘッチャラ♪
『祝詞を受ける側』の感覚って中々味わえない
『祝福される神の感覚』はあんなに気持ちいいのか
61首はこれからもあの感覚を味わえるのか…それとも、持ち帰った新たな宿命を果たすまで得られないのか
百聞は一験に如かず(* ‘ᵕ’ )また試して見りゃわかる事
という訳で今回も『体感が先で理論後付け』で読みといた結果、きっちり自分の中のカタカムナの思念読みロジックに納得( ゚ー゚)ウ ( 。_。)ン
前回体感ありで読みといた60首が、『月光と自然の大地と命』だったから繋がる
『外から与えられている恩恵(60首)』に対して、それを受けてる『中側では無意の有難い息吹の祝詞(61)』と感じて感謝の波動連鎖が起きている
ここはセットだな(´-ω-)ウム
ちなみにアマアワナギを漢字にすると
天阿波繋=天地を繋ぐ
古文書分析路線の人は、そう言う『左脳全開』で読みといても『分岐』は色んな方向に『壱岐』るよ(笑)
例えば私の場合、『天帝』を示す『妙見』の地に『阿屋須』という女酋長と『7つの鬼面』
点と線=天と阿を繋ぐ線=『天阿波繋』
須は『須弥山(世界の中心・天帝)』の意もある
そうなるとまるで『天帝の娘』が『阿の屋』と繋がったとも取れるし、『天帝の血筋』の『須を産んで和合』したとも取れる
もしも『東日流外三群史』に『阿屋須』の話があれば、完全に途絶えた『古代日本』が繋がるんだけどね(笑)
天を『天津』と取れば『大陸由来(黄帝)』
天を『天の川銀河』と取れば『星由来(黄帝)』
『阿媽』と取れば明時代の『マカオ(港)と四国(阿波)』なんだなぁこれがw
私の直感では『夢(まだ決まってない過去)』と『現実(これから紡ぐ物語)』を繋ぐ
右脳と左脳じゃ『見える世界』も『繋がる世界』も違う
そう言う意味ではカタカムナ61首(無意)は『重要なターニングポイント』なのかもしれない
それを夢で味わってきた結果
こんな言葉が生まれるわけで
息吹の颯=生命の始まり
それは立つ日の心=意識=自分
その自分は与えられた命(宿命)
それを果たせば無念(無我の境地)でござるよ
『今の心は無くなる』=自然の一部
今日は(こんにちわ)
左様なら(それでは)
また逢う日まで=逢瀬を重ねる
繰り返す久里返す
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