ヤマ・ニヤマに解説の説法を理解した瞬間に私の中で生まれた独自体感での『山に山』のお話
密教に縁がある?
最近おすすめに出てくるようになったチベット密教や仏教などあらゆる修行に関するお話を日本語でとても分かりやすく解説してくれるチャンネルを見つけて暇があれば見ている
教えるというより「修行は各自やりゃいいじゃん、その進捗度合いによって、こういう事が出来るって先人の書物を書いた人達は言ってるよ?( ´ ▽ ` )ノ」
『自らの修行体験』も踏まえて、「私の場合は…」と『体感論を語るスタイル』がとても小気味よく私のお気に入り
でその『修行の進捗度合い』によってという知恵や体感する体験の多くが、既に『無意識に実践』していて『意識しないでできてる事』ばかりだなと
先日はこの解説を見て感じた
『ヤマ・ニヤマ』っていうのが、今まで色んな修行者やらが『言葉』で出すけど、『具体的な中身』を言わないから良くわからなかったけど、『日本語に解釈した内容』で考えるとは既に『実践』していた
特に『放生の精神』、虫にも役割があるから無駄な殺生はしない=小さなカルマすらも見落とさないに関しては、『人の意識』がミクロの『目に見えない世界とも連動』しているという『体感』があるからこそ、それは『役割を持った己を邪魔する行為』でもあると
邪念を持たない=邪魔にしない=邪魔をしない
これは『自他を分けない』という事であり、そこに『理由』をつける事を『言い訳』というが、それは『都合』に取って良い『分け=分類』なだけ
それを知れば『戒める』と書いてヤマ
なるほどね
これも偶然の話だが、私はかつてこんなものを自分で作っていた事を思い出す
マインドセットという形で自分を戒める。やはりこれも根っこの部分に何か『自分を裏切らないためのルールと意志』があったんだろう
という訳でここからは私なりの人生体験で感じ取っているヤマ・ニヤマのお話
自然を人が邪魔してはいけない
今年も庭の一角には家庭菜園(いじくり回す)とは別の、肥料等も与える事が無い『山菜が自生するエリア』では、アスパラ・フキ・ウドという春が旬な野菜を堪能しました( ゚д゚)ンマッ!
それは『人である私』がそこには関わらない=『虫が繁栄するコンパクトシティ』という『緑の楽園』になっているからです
そこは季節によって栄枯盛衰の彩りを見せます。春の初めは昨年の枯れ草となった更地の地下には、何処から現れた?という大蛇のようなミミズが沢山いて
その時期を過ぎると春の七草がちらほら芽をだし、小さなミツバチが花から花へ飛び渡り、上空ではそんなミツバチを狙った様々な蜂が現れ
そして様々な種類の草が大きくなると、小さな日陰を好む虫達が隠れ住む住処が増えて、成長した羽虫が空を飛び、それを捕食するために蜘蛛が巣を作り…昆虫から小動物へと生態系が…
んではしょると『人が食べられるような山菜』が出てくる訳ですが、それは全部、『虫達の生き様の集大成』であり『栄枯盛衰のエネルギーの循環』
私たちはその『恩恵に感謝』しなければいけないのにも関わらず、その『細菌達から始まる生命の連鎖』を断ち切って、『人工の土』に『人工の肥料』に『人工の種』を撒いて、『人工の光』で育て『人工の農薬』で自然の菌も土も殺して人工の…
もはやそれは『野菜』ではなく『人菜』です
その結果体を蝕む『人災』という『災い』になる
はい『ヤマ・ニヤマ』ですね
『採れたての山菜』って調味料いらずで凄い美味いです。だから山では『動物と取り合い』になってしまう、『人間』は『野生』に『何も貢献していない』のに『奪いに来る』
自然にとっての『略奪者』
人間が土地を奪い汚し『野生の住処』を減らすから『動物』が『人里』に降りざるを得ない状況になる。日本の山にあれだけの『太陽光パネルを設置』したら『山や森の生物』は『生きる糧』を探して山を下り『人の世界と争う事』になる
しかしそれは『一時』の事で、動物達が人間の作る畑の『人工物』を食べると『不自然な遺伝子』に変えられた『毒』であり『人を襲った業』で『自らを蝕む』事になり救われない
あぁ『人間』というやる事なす事『不自然な癌』
だからこそ、ヤマ・ニヤマ=山に山
=自然には自然をです← New
『人』が『山』に出来る『恩返し』とは『山の自然の生態系を護る事』です。山が『食べ物』で栄えれば、動物同士の食料の『奪い合いや縄張りの主張』もなくなり、人も『攻撃をうける事』がなく
自然の動物達が育てた『美味しい山菜のおすそ分け』を貰える
しかし、今はその『真逆』をしている
『メディアが伝えない』だけで、これが『自然』と言えますか?まるで疫病が全身に蔓延したような・・これが人の業が招いた『進行癌』
山(ヤマ)を人間が破壊(破戒)したんです
『やっては行けない事』を罪重ねた『詰み状態』
これをしっかりと『戒める心』を持つ『山に山』を返す
ヤマ・ニヤマの『恩返し』という業
それも含めて『カルマ=生き様』であるからこそ
そんな人間=『自然にとって癌である体験』を『自覚』させ、そんな『愚かな意識』のままでは、『真の自然』に戻す事はできない
だからここはそれを『学ぶ為の量子シミュレーション世界』である
なぜそれを『悟った者』が、『後世にそれを遺そうとヒント』を出すのか?
簡単な話で『引き継ぎする者』がいなければ『継承は途絶えて』しまうから。逆に言えばちゃんと『継承』すれば、『そんな人間』から離れて、『真の自然の世界』と『共存出来る人間に昇華』していく
『欲や個性』はあれども周りを『攻撃』する事無く、『あるがままを尊重』出来る存在になる
私はこの解説動画に出会った事で、『自分なりの体験』から得る『体感の経験の方向性』は間違っていない(๑•̀ㅂ•́)و✧と『確認』と『自信』になったと同時に
この解説動画を作った修行者の人は、『自覚なく他者に徳』を積ませて『自らにも徳が集まる行為を実践』している。その『自らの悟りの経験』を語り、それに『聞く耳を持つ者』を『自然に成長』させる
『達観して行く人』は、『達観していく人』を追っていて(哲学)、その『続きの物語(時代にあった)を繋いでいる』のだろう。『教科書通り』にやるのでなく、それは『実践』の後に『教科書を照らし合わせる』程度でいいんだ
『体感』無くして『理解』なし
『授業』は他者から『授』かる『業(カルマ)』
生命と『関わらなければ』生まれない
『修行』とは自ら『修』める『行』い(回収)
『復習』なので『1人』で出来る
0→1 カルマを『積む』
1→0 カルマの『回収』
カルマを積む事も選択
カルマを回収する事も選択
その『どちらでもなく』『どちらでもある』0と1が同時に混在している空間=デジタル量子シミュレーション世界
それを『観測』している『意識』
ヤマ・ニヤマ=『不自然』を『自然』に乱数調整
乱数調整とは、運やランダム性が要素として存在しているゲームの一部で可能な、特定の操作によってランダム性を自由に操る行為
その『意識』になると『修学旅行』が始まる
『回収』するために『学ぶ旅』の『行い』
まさに『導くガイド(アセンデッドマスター)』がいないと『道(未知)』に迷うよね。だって『未知』は『好奇心の大好物』なんだから(*´д`*)ハァハァΣ(゚д゚;)
自然には沢山の未知、『まだ知らない』があって、( ・∇・)ほうほう
『無知』故にそれを知りたくて
『道草』を食う( ゚д゚)ンマッ! Σ(゚д゚;)
その『度(旅)』怒られて
( ’-‘ )ノ)`-‘ )ぺし
軌道修正してはまた道草して脱線して
(`✧∀✧´)キラーン!Σ(゚д゚;)
また怒られて(叱咤激励)
ヽ(#゚Д゚)ノ┌┛Σ(ノ´Д`)ノ
でもその『道草の経験』が実は、これから先の厳しく険しい『本筋の旅』の目的地の『孤高のヤマ』を登るために『必要な修行』になる
学ぶ旅は修行=修学旅行(独自解釈)
うむ(´◉ω◉` )脱線した Σ(゚д゚;)道に迷った
最初はヤマ・ニヤマ=『山に山をゴール』にしてたのに、気がついたら学ぶ旅は修行=『修学旅行に紛れて』しまった
(´·ω·)コイツ (^p^三^o^三^q^) (꒪д꒪IIダレ?
こんな感じで『先人の知恵』って『方程式』のようなもんで、何を『変数』として『代入』するかはあなた次第です
変数とは『変わる』んです
『変えられる』んです
方程式だって『方向』と『定理』だから『向きと条件』変えて『変数』も変わればオリジナル(๑•̀ㅂ•́)و✧Σ(゚д゚;)
ただそれで『何が』生まれて、『どんな所』にたどり着くかは『未知』なので、その道を『あなた自身が進んで体感したレポート』しなければ誰にも伝わらない
だから『人生』って実は『自由意志』に気づけば思いつくまま自由に『想像と創造』を膨らませる事ができます。ただその想像と創造が『難しい、できない』というのであれば、それが既に『自分が学ぶ旅の修行』の出発点
あなたは『他人任せ』にして『自分で』想像も創造もしていない
自分の人生を生きていない=『自由意志を放棄』している
これは私自身が『夢』を通して伝えられた『意識改革の出発点』で『自覚』してたけど認めて反省して変えようとしてなかった『逃げるのを止めた』んですね
もし、あの夢で『意識』が変わってなかったら、私は今頃、周りに合わせて空気を読んで『ワクチンを打ってこの世にいなかった1人』と確信してます
元々物心ない昔から『全予防接種で死にかけて漢方で命を繋いできた人間』なんで(母子手帳の記録より)。その『夢の導き』によって救われた『1度は死んだ命の使い道』が、無意識のうちに『呼吸瞑想』にたどり着き
自然に目を向け『小さな目に見えない命』に氣が巡り『放生の精神』を身につけ
自他を分けない、周りの存在は全て『有難い学びを与えてくれると隣人』肯定し
人はそれぞれ『十人十色で自然』なのだと気づいた上で自分は『人として』どう生きるのか?という観点を持った
今までの『人として』とは、『人間社会』でどう『たち振る舞うか?』の『ポジショントーク(社会的地位)』だったが、それは井の中の蛙大海を知らず
人としてとは『命の連鎖という自然の中の1人』として『何億もの命』を一瞬で奪えてしまう『ミクロな世界にとってのマクロな巨神』として『行動』から放たれる『波動の在り方と影響範囲』まで考えないといけない
人として『自由意志で変えられる』のは、『今現在の自分の意識』もまた変えられるということ
残念ながら、それを思いついた『今の私の意識』は、その『新しい未知の意識』が産まれたら『バトンタッチのお役御免』となる。だから『自己保身の意識』がある限り、『意識は変わらない』という訳だ
『死』を恐れているのは『意識』
『意識の死』とは『役割』を失う事
旅が終わる事
でも意識はその度に変わる
…(´◉ω◉` )なんかやべえテーマ(終わらない命題)に突入してるかもしれん(ジカンガトケルゥ)
これは別の記事でまとめよう
今回のまとめは
山に山(ヤマ・ニヤマ)
自然(環境・法則)を破戒せず自然を護る行動を
そう覚えておけば、わかりやすいというお話でした(≧▽≦)
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