体を動かすヨガでもなく現在持っている知識でもなく、魂が知っている真の知識(真理)を身につけようとする哲学的なヨガ…をもしかして自然にやってた?という気づき
初めて知ったジュニアーナ・ヨーガ
①ジュニアーナ・ヨーガの条件は『片寄らない物の見方』をすること
②クンダリニー・ヨーガの三昧の上にジュニアーナ・ヨーガの思索があるらしい
と、知識を知ってる修行を積んだ人達はなんか仏教や密教とかの書物を大量に読み込んで『難しい解釈』をしているが、私は独自体感論でこう表現している
善悪二元論を超えた三(どちらでもない)の視点でバランスを作り、その三極バランスの何処にも偏らない視点を持つと
また『三昧(サンマヤ)』という考え方についても、知識として教えとはまったく違う解釈にたどり着いてる
この視点がジュニアーナ・ヨーガの哲学的思想と一致していて、どうやらここに至る過程でクンダリーニ・ヨーガやバルドー・ヨーガなど
アストラルやコーザルなど、『死を超えた様々な世界を体験』するとあるが…それも『夢』という『ざっくりな表現』にしているが色々体験済み
【マハーヤーナ・スートラ】◆第四話 ジュニアーナ・ヨーガの成就と完成
どうやら私はそれを『無意識』に全部通り過ぎてる。ただ『当てはまる言葉』を知らなかっただけ
このクンダリーニを超えて、ジュニアーナヨーガに至るには『導師(グル)による導き』が必要というけれど、実はその導師も『幻』であり…という観点に至ると、それは自らが『自らの成長を引き出す為に生み出したエネルギーである』と気づく訳で
真実的には『真我はひとつ』なんだけど、あえて『神』と『我』に『分離』して
『現実意識での観測と想像』と
『夢空間の量子的創造』の
『役割分担』してた方が精神を向上させる学びとしては『効率』がいい
そんな感覚の私が思う『グル(導師)』というのは文字通り『グル=結託・同士』
あるいは目的を持って『俱(とも)にループ』している
『俱loop』ワーク(・∀・)人(・∀・)ナカーマ
だから、私が『現実という空間』の中で『肉体で体験した経験』は『夢という創造空間』にフィードバックされて『シミュレーション』が行われ
そこで得た『体験記憶を現実に』持ち帰り、さらに『先の未知』を切り開き、その後に『過去という道』が出来上がっていくけど
『今』という『最先端の瞬間に意識』がある限り、過去は振り返る事は無い、ただただ前へ、『好奇心』と『意欲が導く』ままに
私は先頭の『水の流れの一滴』になる
魂が『寝起き閃』や『夢』で『納得する真理』を教えてくれるジュニアーナヨーガ(哲学)
ジュニアーナ?あぁ
『ジュニア』な?(息子、継ぐ者)
そうなんだよ、哲学ってのは
『先人が遺した知恵の道標』を辿る事
どうしてこれはこうなんだ?
存在する理由、条件、意味
なぜ?why?( ˘•ω•˘ ).。oの『行き詰り』を
なぜ?!ワァ─ヽ(*゚∀゚*)ノ─イと喜び『謎解き解釈』する
『トラブル』を楽しんでいる
道無き『未知』を創り出す
『鍵』がなければ『現場』で作り出す
そんな素直な『ジュニアな心の感性(直観)』を持って『元気な歓声(発言)』をあげて『あるがままに慣性(行動)の力』で『自己満足で完成』させる
『悟り』なんてどうでもいいんだよ
『遮る統合から離れる』が言霊のロジックだから
上記の修行や『悟りについて教えてくれる僧侶』の方も書いてるけど、『立場が上』に行けば行くほど、宗教組織の『弟子や責務』が増えて『自分の修行』に時間を割けなくなっていく問題が生じる
それはもはや修行ではなく『作業』だ
自ら『業』を『作』り、業を煮やしている
もちろんそれも『利他に尽くす』事で『下を成長させる』という意味では『立派な徳ある役割』だが、先頭として『引っ張る為』に…『人の為=偽に悟る修行』してんのか?って話
もし私が前世ないし、そう言う『邪魔入らずで1人でじっくり哲学したいな〜』と思ったら、誰にも気にされないで『自由気ままに思う存分哲学できる環境を求める』と思う
そういう意味では絶対に『宗教(教育)には入らない』し『盲信』もしないが参考に『興味は持つ』かもしれない
それが『自分に素直である』と感じるという事は私の『グル(同士・導師・共にループ)』も『そう感じている』という事…というより
そう言う『距離感』を作って『俯瞰のスケール』で色んな事を見て『解釈』していこうぜ!(・∀・)人(・∀・)と
『現実の私』には『知識』は無い
私のグルは『必要な時』だけ導く
さしずめこうだ
ラリードライバーとナビ
私は『臨機応変』に『現実に対応』し、グルはその『現実のちょっと先をナビ』してくれる。『哲学』もそんな感じで、『ふと気になる事』ってのは『ナビが案内やサインを出してる』から、ドライバーが耳を傾けないで『勝手な判断』したら事故る
だから『現実に現れるサイン』を見逃してはいけない
進むも事故るも俺たち運命共同体(・∀・)人(・∀・)一蓮托生
それが『真(神)と我』
『サモハンセッパ』を楽しむ『師と弟子』
主に禅問答の際にかける言葉で、問題を出題する側が用いる表現。 「さあどうだ」といった意味合いである。 「そもさん」に対し、問題を出題される側は、「せっぱ(説破)」と応えるのが一般的である。
『問題出す方』とそれに『答える方』がいないと
『ゲームクリエイター』と『プレイヤー』がいないと
そんな観点で考えると『ジュニアーナヨーガ』って『終わり』はない
『自分で問題』を生み出して
『自分で解く』という『究極の永久機関』
『自問自答』でグルとループする『楽しい遊び』
それに『飽きたら融合』して『神』になるのかね…そしたら『神』って『楽しいのかな?』
と『素直なジュニア』は『哲学』してしまうのであった
神にはまだなりたくない
遊びたいんじゃ〜ワァヽ(*゚∀゚*)ノ─イ
遊びを生み出す天才=子供=ジュニア
『神』が『その環境』を与え、その中で『子と共にループ』して
『子供』は『いつ大人』になるのか?
『神の子』は『いつ神』になるのか?
(´◉ω◉` )Σ(゚д゚;)
と多くの人がゴールとして求める『絶対神という存在』ですら『通過点』に過ぎない。そんな『ジュニアーナ哲学』をしてしまうのであった(これは永遠と続く…)
だから『新しい宇宙』は産まれるんだろう
まあ、物質的な観点で考えたら、この『人の次元では不可能』なので考えるのを止めた(笑)
ちなみに、『junior』の中には『純愛=素直さ』が入ってるんだよね(偶然?必然?)
『言葉』って捉え方を変えるだけで『無限に世界(次元)の想像と創造』ができる
そんな『言霊カオス次元』を哲学したい方はこちらもどうぞ(゚∀゚)アヒャ
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