体感が先で理論後付け。痛っ!と体の内部に痛みが走った時、その痛みを瞬時に緩和する呼吸に気づいた・・結果、なんで釈迦が苦行という修行スタイルだったのかわかった気がしたお話
結論:意思氣した呼吸で痛みを回復させる事ができる
伝えたい事がぶれると困るので、最初に結論から言えば、普段何気なく無意識に行ってる呼吸とは別に、痛みを感じた部分を意思氣して呼吸すると痛みの感覚がなくなります
これには痛みをごまかす方法と痛みの根本を回復させる方法があります
どうやってそんな事が!??(;゚Д゚) と気になった方は、順序だてて書いていくので本編も読んで参考にして取り組んでみてください
痛みを感じた時、呼吸は吐く方が多くなる法則
私個人的な実験条件です
①呼吸で脳波を安定させて禅定状態にできる
②バランスボードで体幹を整えオートバランスを身に着けている
(詳しい詳細に興味がある人は長いので後で過去記事読んで下さい)
体全体が楽をする事なく最適な状態を保っている状態での呼吸というのは、吸う量と吐く量が一定なのですが
その状態で痛みというイレギュラーな感覚が入った瞬間、呼吸のバランスが、吸う量よりも吐く量が多くなったのを感じました
全身を内観している状態で、脳波を安定させた呼吸をしている状態で、痛みという感覚を感じただけで、一瞬息が詰まった後、呼吸が乱れる
・・実におもしろい( ̄ー ̄)ニヤリ Σ(゚Д゚)
そこから痛みと呼吸というものの探究が始まった訳です
痛い!と感じる場所に意思氣して呼吸を回す
首こり、肩こりやストレッチで体の関節が硬い時など、負荷をかけると体の内部から痛みが発生する時がある
この痛みが発生した時、人は無意識にブレーキをかけて動作を止めてしまい(次に同じ動作をすると再び痛みが来るのでは?)と先入観からトラウマになって躊躇してしまう
誰だって痛いのは嫌だから
だけど、この痛みを感じた瞬間というのはとても重要な気づきがある
普段、ほとんどの人は自分の体の特定の一部を意識して動かそうという事はない。だから、足の小指だけを意識して動かそうとしても、どこにどう力をいれていいのか意識する事ができない
しかし、タンスの角に小指をぶつけた瞬間を思いだしてほしい
痛みを感じている小指という体の一部がはっきりと自分に繋がってる部位だと実感できるだろう。そして、その痛みを感じてる時は、無意識に痛みから逃げようと気をそらす
ここで先に痛みをごまかす方法を伝授しよう
痛みをごまかす(緩和・鈍くさせる)方法
本当は第一チャクラに意識を集中すればいい と簡単に言いたいが、それだと、ぶつけて痛みを感じないと小指を意識できないのと同じ事で
第一チャクラってどこだよ!!(;゚Д゚) という人もでてくるだろう
なので、ここでは超簡単に、ケツの穴に力をいれて肛門を閉めろ! とだけ言っておく。本当は、意識をそこに持って行ってキープすればいいだけなのだけど
肉体的に肛門括約筋を閉める動作をする際にも、強制的に意識はそこに持っていけるので似たような感覚を得られるだろう(大雑把なやり方)
第一チャクラに意識が集中すると、次のような特性を実感した(※独自です)
①痛み・打撃に関して鈍くなるためフィジカルアップ
②暑さ・寒さに関して感覚が鈍くなるためメンタルアップ
③副作用1:リミッター解除で致命的な痛みに気づかない
④副作用2:心の痛みにも鈍感になるため触るモノみな傷つけやすい
肉体強化を行う事で痛みを緩和する事ができるが、あくまでも痛みという感覚のごまかし
つまり、そこに意識をキープできてる間は無敵の鈍感野郎になれるけれど、集中力が切れる、緊張の糸がぷっつんした時、その反動は全て返ってくる
わかりやすい言葉で言えば 火事場のクソ力
だから状況にもよるけど使った後の代償は大きいです
他にもチャクラの部位的な特徴がいろいろあります(独自解釈ですが)
そこで、今回見つけたのが、もうひとつの痛みそのものを癒す呼吸法の極意
痛みに向き合って癒すための意思氣の呼吸
痛い!って悲鳴をあげた部位がある、だから痛みという感覚が伝わってくる
この時、痛みから逃げる・ごまかすのではなく、痛いのはどこか!?に目を向ける
ピンポイントに患部に向けてレスキューを送るというのが痛みを癒す呼吸法の極意
人は無意識に痛みから逃げてしまう
それは肉体でも精神でも同じ事
好き好んで傷ついて痛みを伴う事なんてしたくはない
だから痛みを感じた場所がそのまま放置されてしまう
体のオートファジーなメカニズムがその患部の治療を始めるまで、自分の意識は痛みからひたすら逃げる
違う事をやって気を紛らわす
こんな経験はないだろうか?
すでに怪我はしていたが気づいていなかった
傷口を見てから痛みが出てきて心に余裕がなくなった
気がそれているという状態は確かに痛みという感覚からは遮断される
しかし、気を反らしてる間、傷口は放置されたまま
これではただのごまかし
そうじゃなくて、痛みが発生した場所を、呼吸の内観で探り当て、意思氣した呼吸を送り込む
痛みと向き合うことが大事(逃げちゃダメだ)
ピンポイントにレスキュー隊を派遣をする事で、即座に痛みが緩和され、早い段階で痛みが改善される
大丈夫!どんな痛みでも、耐えきれない痛みに向き合った時は意識が飛ぶ(失う)肉体の感覚にシンクロした精神がズタズタになる前に痛覚を遮断する緊急離脱が発動する
エヴァンゲリオンのエントリープラグ強制射出みたいなもの
これをメカニズム的に考えてみたら納得できる理由があった
痛みと血管の関係
頭痛の原因は毛細血管に流れる血流量が変わり、本来は流れない量の血が勢いよく巡る事で、血圧が上昇。その結果、毛細血管がぶちっ!と切れる時の痛み
瞬間的に怒りが沸点に達する人の場合は、アドレナリンが分泌されるので痛みを感じない
あるいは血管を拡縮させる成分(ニコチン等)で不規則の時などに起きる血管の拡縮、アルコールなどで脱水症状になって血液中の水分が蒸発する脱水症状でも起きる
打撲や打ち身、切り傷なども痛みある所に血(血管)ありという事
血が流れない所に痛みの感覚なし!
これもまた不思議な体験だったのだけど、寝起きになぜか右腕が圧迫された状態で、まったく感覚がない状態で自分の顔に自分の腕が押し付けられている状態で目が覚めた時
自分の右手なのに他人の手にしか思えないほど、まったく動かせない上に触っても自分に感覚が繋がってなくてぞっとした
感覚を取り戻すきっかけは、圧迫されている姿勢を変える事なく、顔にのしかかってる指先の先端をカリっと!噛みついた(まったく痛みなし)事で、圧迫されている腕の根元ではなく、指先の先端から徐々に感覚が戻ってくるのを感じた
この事から二つの事を体感で理解した
①血が流れない部位は痛みの感覚もなくなる
②血が流れた部位から感覚が戻ってくる
つまり、痛覚とは血がなければ感じられないという事
血は細胞へ酸素を供給する
呼吸で最も重要なのは空気(酸素)を取り入れる事。そして、取り入れた酸素は血中のヘモグロビンと呼ばれる成分が、全身の細胞という細胞へと供給していく
細胞はその酸素を活動エネルギーとして細胞分裂を行い、使用済みエネルギーとして二酸化炭素を排出する
これが自分の意思とは独立した人間の体の呼吸のメカニズムであり、何かしらの異変が起きた時に供給と消費のエネルギーバランスが崩れる
吸う量に対し、吐く量が多いというのは、消費エネルギーのほうが多い事を意味し、それは細胞が何かしらにエネルギーを利用したという証明でもある
細胞は変化する過程で酸素エネルギーを消費する
細胞は細胞分裂を繰り返す、延々と同じ細胞をコピーするが、それはその体を構成する意思の変化によって変わっていく
例えば、いつもは脂肪細胞を延々とコピーしている細胞部位が、急な筋トレで細胞がズタズタに引き裂かれたとしよう
そうなれば、その部位は次からは筋肉を作る細胞になっていく
筋肉を作る細胞は脂肪細胞よりもエネルギー消費が多くなるため、酸素の必要量も変わる。より筋肉細胞は活発にエネルギー消費をするので、二酸化炭素排出量が増える・・と考える前に
元の細胞が違う細胞へと変化する過程で毛細血管も巻き込まれて構造変化が起きる。その際に、血が痛みを伝達する事で、その部位に変化が現れたサインを出している
これを筋肉痛と考えればわかりやすいだろう
脂肪が筋肉へと変わる時の痛み
筋肉がより強い筋肉に変わる時の痛み
そう考えれば、あとはそれをどう受け止めるか?
痛みの場所は細胞復活のエネルギー(酸素)を必要としている
傷ついた細胞というのは、簡単に言えば凄惨な事故現場だ。細胞はズタズタ、巻き込まれた毛細血管もぶちぶちの内出血
その現場を元に戻すためには、より細胞分裂を活性化させ、細胞による修復を高める必要がある。では、細胞が細胞をコピーするために必要なエネルギーとは何か?
それが 呼吸で摂り入れる酸素
何もしなくても体全体のメカニズムは事故現場を把握してそこにレスキュー隊を送るので、いずれは回復して元通りになるかもしれないが
その間ずっと痛みをごまかし、痛みから逃げて、その部位と向き合おうとしないのが普通だけど、痛みの箇所、傷ついた細胞をダイレクトに意思氣して、その部位に酸素をダイレクトに送り込むイメージで
痛い!と感じた瞬間、息をぐっとこらえてしまいそうな瞬間に 逆に息を吸う!
ただ、勢いよく大量に腹いっぱい貯め込むように吸うのではなく、意思氣した呼吸で痛みが発生している患部を内観しながら、痛みの度合いにあわせてカウンターで必要な分だけを吸い込んでいく
イメージで言えば、徐々に痛みを中和していく呼吸法
もちろん、なんでも痛みに有効かどうかわかりません
刺し傷とか致命傷の外傷とか、そういうのは試した事がないのでわかりませんが、少なくとも、体の内部で起きている内出血や血の滞りによるこりや痛みに関しては有効です
これができるようになって、もしかしてお釈迦様が苦行を求めた理由って・・となんとなく気づいた
釈迦の苦行は痛みを中和する呼吸法の鍛錬か?
お釈迦様のイメージ=苦行です
一時期、釈迦(仏陀)に興味を持った時、実はマゾで苦行は快楽として楽しんでいたのでは!?なんて失礼な疑いを持った事すらあるくらい、その苦行のラインナップはすさまじいです
極力息をとめて過ごす(全集中の呼吸?)
直射日穀を延々と浴び続ける
完全断食(意図しない自殺未遂)
真冬に極寒の空き地で瞑想
「真理とは何であろうか」を追求する過程で、外界の俗世の煩悩から離れた環境で、己という肉体と心と向き合う過程で、きっと色んな実験を自分の肉体に行ったのだとしたら・・
やっぱりそれは 呼吸法による肉体との感覚のリンク だと思います。私はなぜか最近、この釈迦ルートに導かれてきたんだなぁと実感してます
寒さを感覚的に感じなくさせる呼吸法(体得済み:極寒雪かきで鍛錬中)
暑さを感じなくさせる呼吸法(体得済み:サウナで長時間入る鍛錬)
誰に教わる事なく、釈迦に寄せる事なく、自分と向きあい、自分がやりたいと思う事、興味があると思う事に突き進んだら結果同じ方向性(笑)
そして、今回は痛みという感覚を中和する呼吸法を感覚的に体感してみると、いよいよもって、意識とは?という肉体と離れたブロックの領域になります
でも、今回はその一歩手前で思ったんですよ
一は全、全は一
一とは己の意識、全とは己を構成する全ての細胞
全の状態は一が創り、一が変われば全が変わる
傷ついたミクロレベルの細胞に意識が入るから痛みを感じる
それはミクロレベルの1つの細胞も自分である事の証明
痛みから逃げる事もたやすいが痛みを和らげる対処もたやすい
つまり、肉の器(体)とは意識の在り方(求)で変わる
これについては、次回、『王』という漢字に隠された意味の独自解釈にて・・さらっと意識を『求』って表現したけど、求、Q、9・・ここにもキューいた!Σ(´∀`;)やはり9次元思考に至るのか
まとめ:細胞1つ1つが『己』です
体っていうのは、部位別に名称があって、それぞれ独立して動かしているように思えるけれど、足のつま先から頭の天辺、髪の毛の一本に至るまで 自分を構成している一つの細胞です
それぞれの部位によって見た目は違うけれど、どんなに傷つこうが汚れようが、何度だって自分が自分だと思う自分(DNA)を再生するのが細胞
だから意識が変わる!内側の心が震え、振動エネルギーのカタチが変われば、全ての細胞は共振して、その姿を変えていく事になる
昨日までは脂肪だった細胞が、筋肉に変わるかもしれない
でもそうなると、脂肪よりも筋肉は消費エネルギーが多くなる
必然的に酸素を取り込む供給量が増えるため呼吸は深く大きくなる
その内側の微々たる変化を感じ取るのが意思氣した呼吸による内観
そして禅定状態、瞑想というのは、肉体の呼吸が完全に自然と一体化する事で、一体化しない意識という部分が肉体の枠の外へと拡大していく(だから不思議世界を色々体験しにいける)
自分の細胞のひとつひとつが呼吸しているように、外の自然界も呼吸のリズムが調和している
見えない周波数・振動エネルギーが自然界では光のグリッドに沿って正確な幾何学を形成して循環構造になっている
調和してないのは、人間だけ
あ~あ┐(´д`)┌ヤレヤレ って意識がまた肉の体に戻ってくる
結論として・・って結論は最初に言ってたな(笑)
痛みとは細胞が傷ついたサインだから、痛みから逃げずに向き合って、超速細胞復活レスキュー酸素をピンポイントで送ってあげましょう
意思氣した呼吸は普通にサバイバル向きで役立つかも( ̄▽ ̄)生存戦略 Σ(゚Д゚)
ちなみに、この記事のURLスラッグをHealing breath(癒しの呼吸)にする際に「癒しの呼吸って・・あるのかな?」って検索してみたんですよ
そしたら私と表現は違うけど、ほぼ同じことを言ってるのがプラーナヤマというヨガの呼吸法があるようです
引用元:心を浄化し、ストレスを和らげる「癒しの呼吸エクササイズ」
シンプルに自分の呼吸を観察してください。その際、呼吸を変えようとしないでください。「まるで探偵のように真剣に探求してみてください」とボッチョさんは言います。胸や腹が上がるかどうか、そして息が鼻や喉を通り抜けるのを感じることができるかどうかを意識してください。
最初にこれを言われても、たぶん私はさっぱり理解できないというか、先入観に引っ張られて答え合わせを求めてしまって逆にそれがストレスになる気がするので・・
自分探究する人は周りの情報を気にしちゃだめですよ?正解を知っているのは自分の細胞だけ!(細胞に意思氣を向けよう)
ところでもはや日本ではやっている人がいなくなってしまって都市伝説越えて迷信になりそうな
痛いの痛いの飛んでいけ!というおまじない
私も幼少の頃はよく転んで怪我して泣いてたんですが、今思えば祖母や母がやっていたのを思い出しますね。いつの間にか『常識』や『風潮』という『世間体』が『科学的な根拠がない』と広めて『それを行う事事態が恥ずかしい事』のように馬鹿にされるようになっていったため廃れてしまった
相手を思いやる=氣配り=氣を送り込んで外から癒す 失われた精神テクノロジーだったのかもしれません
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