好奇心

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型にはめて解り易いと語り伝え辛い 物語の法則

文章を書く時、ルールにのっとる論文形式に対し、手書きのメモや日記など、記述には様々な文章があるが・・書かれた文字は唯物論で、伝えたい内容は唯心論である。物を語って伝えるという両方を伝えたる時に・・セオリーという型があると、伝え辛いという法則に気づいたお話

文章がわかりにくいという文句

人が書いた「文章をわかりくい!もっと読みやすく書け!」と文句をつけるのは、それは『解り易い・読みやすい』という『型にはめて書け』という『傲慢な価値感の押し付け』であり

それを今は『ADHD』等、『障害持ち認定のレッテル』を貼り、『ADHDっぽい文章』といい『馬鹿にする始末』だが・・

そうやって『人の事を馬鹿』にするのは

とても性格や精神性が解り易く型にはまった行動がとても読みやすい

という・・まぁ、見事に『一般的社会人奴隷洗脳根性の世間体』に見事に型にハマった無個性の証と言える

なので、私は一見『支離滅裂』だとしても、『型にはまっていない文章』というのが『個性的』で好きだ。おそらく、そういう「個性的な表現を良し!」として『無意識に感化』されてきたから

私が『物語』を書きあげるように、『現代風刺の物事(唯物論)』を伝える為に『たとえ話のメタファー(唯心論)』を織り交ぜるのは

『物』が『何』なのか?と『伝えたい気持ち』で『語る』から

故に、『型』にはまっている読み物が好きな人は

「・・で?何がいいたいんだ?」と『過程』をすっ飛ばして『結論』を急ぐ理系

逆に型にはまらない『伝える表現を楽しむ人』は

「むむ!これはアレの例えか!これはその応用の引用か!おお、これはあの伝説の・・・」と始まりの『因』から『先に進まず迷子』になる文系

一番伝えたいのは、その『物』と『語』を『ミックスして表現』している『過程』である為に

『文理』が必要である

ものごとのすじめ。あや。条理。
文章のすじみち。文脈

これができると物語の『物と語』『分離』もできる

これは『現実的な社会風刺』を伝えたい
これは『例え話のメタファー的な隠喩』を伝えたい

その『文理の分離』ができて初めて『過程』にある『文脈の筋道』を理解して、最終的に『何を伝えたいのか?』という『文全体像』がつかめる

これは法華経の『真言の説法』も同じ事

言われた事を『莫迦のひとつ覚えでマスター』しても『型を覚える』だけ。大事なのは、その『型を理解』して『型破りをする=自力の未知』を産みだす事

これが『莫迦から釈迦』になるという大事なステップ

「型があるのに型破りするっておかしくね?」と思うだろう

問題に巡り合い解決する=『釈迦』なので、『問題が無い』時は『問題を産みだしてしまう』のが釈迦の性(笑)

だから、『想像と創造』も、『破壊と再生』も釈迦の『自作自演』・・というより、『自分で生み出したもの』を『さらに向上』させる為に『破壊もいとわない』

『一流の陶芸家』が焼きあがったら『自分の作品をたたき割る』真理(笑)

カリスマが現れた時、一般人は到底かなわないと『カリスマの崇拝』になるだろう。カリスマがカリスマと『認められた時点』で、もう『型破り』となるが

それは『競走や格付け社会』という『ランキングを肯定する傲慢世界』における話。とはいえ、ランキング社会は工作ができるから『造られた反逆のカリスマ』という『マッチポンプの偽者』も定期的にでてくるので『格差は消えない仕組み』

『誰とも争わない世界』では、釈迦は『自分が生み出した世界の創造と破壊』を繰り返す

つまりは『自己の向上心=己に厳しい苦行』

しかし、その『過程』には『想像』という『未知を描き道を辿る弥勒』がいる

私は文章の中に潜む『弥勒=表現者』の部分を伝えたい。ゆえに、『因果』において、『オリジナルの体験をしている過程』の有難い気づきの『恩』を書いてる

それは『個人』であり、『集団に迎合されるものではない表現』だが、かつての私が、そんな『自分を自由に表現する本』に気づいて『感化』されたように

私の書く文章にも、そのテイストを込めて『私の物語=唯物と唯心』を伝えていると気づいた。過去記事を読むと、自分の『その瞬間に表現した事や伝え方』と言うのがぶれていないから

過去記事へとリンクして、そのまま読んでも、『今の私の延長』のように『過去の意識にシンクロ』する。その時点で、あの時にこの記事を書かせたのは、『未来(今)の私』だったのでは?

と思う事も多々あり、その過去記事を読み返して、当時の自分では理解できず『違う解釈』をしていたことが、今の自分の意識は、『その解釈ではない解釈』として、かつて『自分で創造したものを破戒して向上』させている事もある

「なんでこんな複雑かつ情報過多なんだ・・」と自分でも思う事があるが、『借りてきた言葉』ではなく、『自分の体験から生まれた言葉』だから、『削る』という気持ちはない

これが『型にはまった文章形式』というルールがある環境ならば、『型にはめて解り易く読みやすく修正』する事になる。これは『表現の不自由』によって身についた『習性』

すると、私の文章の場合は、『産みだされた素材』が、『型にはまっていない』のだから、かえって、『解り難く読みにくく』なる

それは、例えるならば・・

『原作のゲド戦記』は『歴史的名作の文学作品と世界が認めていた』のに
時間制限、スポンサー配慮の『表現の不自由の環境』で『新人監督』が『型にはめて作ったゲド戦記』

見やすい『人気の絵柄(ジブリ)』
重厚な物語が『あっさり薄味』で『印象にも残らなくなる』のと同じ

自分なりの『オリジナルの表現で伝えたい世界観』がたくさんある人を『ADHDという障害レッテル』を貼り『自分達が理解できる形式』にはまらないならば、『社会的価値はない』と『都合のいいルール』を決め

あげく、『型にはまった物語』は「セオリー通りでつまらない!」と批評する『莫迦のひとつ覚え』

┐(´д`)┌ヤレヤレ って思いません?

だから釈迦は『大事な説法を説く』前に、『弟子に陽動(人払い)』させるんです

「莫迦と馬鹿が邪魔しないように、鼻先に餌でも与えておけ」

『スピン報道』のスピンは世間一般的には『目くらまし』の意図で使われるけれど、物理では目に見えない『量子的なミクロから発生するエネルギーの始まり』

『音』に乗せた『言霊』
口からデマ枷の虚=『嘘』

その『因(陰)』に気づいて『陽動』される陽気な『莫迦と馬鹿で陰陽の場のエネルギー』から、結果的に『嘘の渦(スピン)』が生まれ巻き込まれる

その巨大な渦(嘘)に呑まれない『自由な因子=自由意志』。それは『型にはまって無い証拠』であり、個性派は個性派という『運命の類友』を見つける

要は

人が書いた文章を「わかりくい!もっと読みやすく書け!」と『形式に文句』をつけるのは、とても『性格や精神性』が『解り易く型にはまって行動がとても読みやすい』

つまり、『社会常識という型』に『はめられた事にすら気づかない愚か者(詐欺師のカモ)』と自分で言っているようなもので、とても恥ずかしい事です

逆に、何回、『型にはめよう』としても、『ハマらない個性』というのは、そのまま伸ばせば、『大きな才能として頭角を現す』かも?

『競争社会』で花開く才能か?
『自己の霊的精神性で向上心』の為に花開く才能か?

私の場合は後者であり、『先祖供養』という『先の祖を人と共に養う』という精神性になる前から、『仏眼』によって『宿業を監視』されていたようで・・

『今は真言念仏』に辿り着き、いつの間にか『大日如来の導き』に乗っているという(この記事を書いてる時の私では気づかなかった亜空間)

神秘十字線と仏眼 守護の実感

世界は『気づかないだけ』でひとつではない
『亜空間』という『別の世界は存在』している

あなたの知らない世界、『間違い』とは『誰』からみて『間』違いなんでしょう?
『間が違う』なら『最適な間』を『見つける』か『創れば』いいではないか

その『虚』ろな『小さな口』に『執着』するから『嘘の囚人=奴隷』になってしまう

おっと、これはあくまでも『亜空間からの誘惑or悪戯』ですよ?(・∀・)ニヤニヤ Σ(゚Д゚)
心に耳を傾け『恥』を知り、云う鬼(魂)の門と一人で向き合いなさい(一人+門=閃)

『鬼門』という『禁忌』とね

空海の霊場物語18 Dの意志 デーモンコアは人の心(鬼門の向こう)

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