寝起き閃キーワード 然法。念法(ねんぽう)とは違う天然の法…という意味で私は閃いたが、その名は法然?!Σ(゚д゚;)と名と体のエネルギーが阿弥陀に繋がりカタカムナ75首で再び出逢うお話
寝起き閃キーワード 然法
ある人が念法を唱えると言った時、念は『今の心を唱える声明(声を明らかに)』、念を唱えるのは『自我の領域』
そう感じたのは体の神経と意識が40℃の熱の時に完全に離れた『人では無い感覚』を味わった時の『ハイヤーセルフ(高次元意識)』
では、そこでは念を唱えるではなく『何なのか?』と感覚のままに導いたら
『漠然』とした『自然・天然』の流れ
天然の法、漠然とした法、つまりは『人がどうこうできない然法』
『然』とは先に述べたことを受けその状態を指す語、そのとおり。そのまま
公然・隠然・断然・全然・果然・同然・依然・平然・泰然・猛然・陶然・憤然・冷然・粛然・超然・毅然(きぜん)・卒然・寂然(せきぜん)(じゃくねん)・巍然(ぎぜん)・沛然(はいぜん)・徒然・欣然(きんぜん)・浩然(こうぜん)・漠然・茫然(ぼうぜん)・黙然(もくぜん)(もくねん)・忽然(こつぜん)・悠悠然・学者然・若奥様然
色んな所に『然』があり、それ即ち『宿業の運命』なり
『今の心の人=一時の役目』がどうこうできる事じゃない『人への執着』から離れて初めて感じる道筋。そう感じた時、枕の横にはカタカムナ『75首』と、念法は空海だよな?…なら然法は…
『法然』?!Σ(゚д゚;)そんな奴いたな!で調べてみた
名は体を表す 法然という存在
法然(ほうねん)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に日本浄土宗の宗祖と仰がれた。法然は房号で、諱は源空げんくう、幼名を勢至丸[2]、通称は黒谷上人、吉水上人とも。
なるほど(´・ω・`)それで前に『阿弥陀の法則』が来てたのか
幼名は勢至丸
丸に至る勢い
房号とは私僧房には○○房(○○坊)という個別の名(房号、坊号)がつけられるようになり、大寺院に付属する子院や塔頭の名となるようになった(京都寂光寺の本因坊など)。一方で、私僧房は寺院における寺務所、住僧の住まい(庫裏)となり、大寺院の僧房でその寺の寺務を取り仕切る僧房は本坊ほんぼうと称されるようになった(京都六角堂頂法寺の池坊など)。ちなみに、日本浄土宗の祖とされる法然の号は房号(「法然房」の略)であり、諱は源空げんくうである。
(大師号)円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教大師・明照大師・和順大師・法爾大師
つまりは、死後に神格化された訳ではなく、寺務所(じむしょ)を得た住職。諱(いみな)とは 人の死後尊敬しておくる称号。死んだ人の生前の名前
それが『源空』というのも源の空=阿弥陀=自然の法則
丸=真理に至る勢いの男は
阿弥陀=自然法則を念法し『法然』と名乗り
源空=『阿弥陀』となって死後ひとつになる
法然という生き様は『念法』から『然法』に至った
『今の心』に素直に従い『阿弥陀』を求め
それは『自然の流れ=阿弥陀』に至った
日本『浄土宗の祖』としての生き様
その『過程』で『実践した言霊』が『教えの経典』なら
ただ『教えられた念仏を唱える』だけでは意味がなく、その発端に『阿弥陀=自然法則への興味と探究心』が無ければ『浄土』に至らない
この『浄土』に関しても、『人の解釈』で忌みが変わってくる。ここからは私の直感的な個人の閃きの話
『極楽浄土』を『場所』だと思っていると、それは元来の自然法則を忘れた『人の世の今の心を反映した逃げの空間』として、そこに『行きたい一心で念を仏に唱える事』になる
しかし、浄土とは『身体・心体』である
『体を労る事が浄土』である
『水』と『争い』と『土』
『水』はあらゆるものを『押し流す』
『土』はあらゆるものを『受け止め内包する』
土の中に『汚染された何』かがあっても
『絶え間ない水』があればそれは『流される』
これこそまさに、『浄土=身体の病を払う自律・自己治癒』
一時の人の世の『今の心という執着』があれど、それを『凌駕した自然法則の流れ』からすれば
その『自分にこだわる全ての自我』を手放してしまえば、そこに「我が!我が」という『争い=病』が生まれる事はなく
『極楽の浄土になる日』が来る
『阿弥陀に念を唱える』とは『高次元意識』と『今の心』が繋がり、『今の心を浄土』する過程で
「己の心は青き水か?=清い」
言うなれば『青龍・清流』を宿す
『争い』など『水に流す龍』
『自ら』を『極楽浄土』にする『今の心の流れ』
私は『然法』という寝起き閃キーワードは、『自然法則=阿弥陀』であり、その大きな目的は『浄土=人の心と身体を浄化』する=その過程で『自我の争いをと止めて水に流す清流』を感じた
それがまさか『法然』という『開祖の人』として『名と体』があったとはね( ̄▽ ̄)『存在自体がもう答え』だったのだけど、そっから間違った『解釈の派生』をしていくのが『経典に忠実』な『莫迦のひとつ覚え=教育』
で、『時代』にそぐわなくなってまた『法然改正』して行くわけだ(笑)
幼名の丸至勢=勢至丸
房号の法然
諱=忌み名の源空
阿弥陀に『魅入り』
阿弥陀に『身入り(入滅)』
そんな『阿弥陀久慈』な人の生き様
それがカタカムナ『75首で出てきた理由』を洞察してみよう
カタカムナ75首 思念読み
ナギウム カムナガラ
核の内なるエネルギーが生まれ広がる心
イホハラハメ
現象を引き離して引きよった場に引きよった思考
ヤホウツシ
飽和して引き離して生まれ集まった示し
クマリワクムスビ
引きよった受容から離れ調和が引きより広がり内なる根源のほうに進む
トヨウケヒメ
統合が新しく生まれ放出される根源の思考
カムナカラ オキホト
力広がる核の力の場の奥のエネルギーを引き離して統合
ムツナギサキ
広がり集まった核の内なるエネルギーと遮るエネルギー
トコカムミマリ
統合に転がり入り、力が広がり光の受容が離れる
アメノヤタカミ
命の指向が時間をかけて飽和して分かれた力の実態
アメノソマ
命の指向が時間をかけて外れた受容
なるほど(´・ω・`) Σ(゚д゚;)
これは私個人的な解釈として、やはり『40℃の高熱体験』で『今の心の自我』と『高次元意識=ハイヤーセルフ』とは『同一』だが、それぞれ『違う役割』であるという事を『実体験』してるからこそ
前半は『心の状態』であり、『肉体』から離れてる
イホハラハメ
現象を引き離して引きよった場に引きよった思考
これは39℃〜40℃の『意識』はあっても『体は動かせない=現象を引き離す』
ヤホウツシ
飽和して引き離して生まれ集まった示し
クマリワクムスビ
引きよった受容から離れ調和が引きより広がり内なる根源のほうに進む
これも…そのまま『体験記に書いた言葉』を引用すると
『意識はある』のに『神経を上手く動かせない』から『体に興味』が無くなる=それ以外へ飽和して集まった示し
40℃の時、目を瞑り、目も音も遮断して『意識しかない真空(存在)に至る=根源の方に進む』
こここまでの流れが『in=陰』とするなら
トヨウケヒメ
統合が新しく生まれ放出される根源の思考
ここから以降は『out=陽』が溢れてくる(๑•̀ㅂ•́)و✧
これは私も『真空』の中で『意識したものが世界として観測する投影』として現れる事に気づいて
『意識がどれほど大事か』を感じた時、だからこそ、『自我が求める欲望の目先の現象』から離れ、『意識が向く方向に素直に進む心』が生まれた感覚
カムナカラ オキホト
力広がる核の力の場の奥のエネルギーを引き離して統合
私は『カムナガラ=心』と独自に訳している
力広がる核の『内なる力の場』だから
しかし『カムナカラ』となると力広がる核の『力の場』となるので
それは『現象』として捉えている
ムツナギサキ
広がり集まった核の内なるエネルギーと遮るエネルギー
ここで『遮るエネルギー』という『相対的な力』が生まれているけれど、これは必要な『輪郭=影・現象』
『風船』を想像したらわかる通り、『空気を中に充満させる』ためには『遮る輪郭』が必要なように
『湧き出る新たな陽のエネルギー』が飽和して消えてしまわないように『陰のエネルギーが広がり遮る』という事
トコカムミマリ
統合に転がり入り、力が広がり光の受容が離れる
そうやってできた『陰陽の器』に『力(自我)』が入り、そして『意識は離れる』
アメノヤタカミ
命の指向が時間をかけて飽和して分かれた力の実態=細胞分列
アメノソマ
命の指向が時間をかけて外れた受容=体組織形成
この75首のプロセスは『新生の過程』
『意識』が『世界(細胞)』を創り『観測』する
私は『自力で病気の症状を克服』した。その『過程』で『意識が世界(細胞)を再構築』し、そして再構築した『新生細胞=極楽浄土』である事を夢で体験している
『新生』とは『意識が観測するステージ』が変わる事
それは『念法=今の心の法』ではなく、その『自我の観測する世界』と『神経のリンク』が外れた『人では無い意識』から観れば
それは『自然の流れ』
漠然とした『大きな流れ』
その上に流れてる『葉っぱ一枚』の如く
何もわかっちゃいないし、その『行く末』を『意識して観測』した『高次元意識』もわかったとて『何も出来ない』
だから『できる事』を『素直』に『観念』して伝える
等身大のありのままの『自然法則=阿弥陀』に繋がる
心に素直に従う『悳』に目覚め
『自我の欲』を満たして『満足した自分』
これが『即身成仏』
すなわち身に成る仏=『仏の身に成る意識』
君が代は大変だなぁ(´-`)oO
虚仮の蒸すまで厳となって流されるな、流れに弱い細石を流させるなよ
『葉っぱ一枚』の流れと動き=『言葉・言動』
『言葉』で『霊的精神性を促す事しか出来ない』が、それこそが唯一の『日本人だけが至る高次元意識』
私は妙見狸の訳詞如来
『額』に『言葉(カタカムナ)』を載せて化ける『狸』ᐢ⓿ᴥ⓿ᐢ
カタカムナ75首…確かに、『実践』してから『様々な病気を体験』して、カタカムナ研究所じゃなくて・・と、『一難』去って『また一難』と、『体と向き合う試練』が色々あった
『納悳する結果』まで『なご〜(75)』なったし、法然の『名号(75)』の話が出てきたし、『阿弥陀』まで来ちゃったよw
…あ、そうか(*´︶`*)ノだから次が『76(ナム)』なのか、カタカムナで意味は、核の広がり
意識のステージが上がり
人たる細胞は40℃の業火で焼かれ新生した後
核の広がり…
さぁどんな『スペクタクル』を見せられるのか!!(๑•̀ㅂ•́)و✧オラワクワクスっぞ(笑)
…いや、でも進む度に『病気の克服』とか『死にかけ』とか、マジでそろそろ『人間の身体を卒業』しないと進めなくなるかもな( ̄▽ ̄;)南無阿弥陀仏?
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