好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

般若=鬼面とは女性菩薩(仏母)の事だったのか

直感が感じていた般若心経に女性預言者の影・・の正体が般若菩薩(仏母)だったという事を初めて知った事で、釈迦牟尼がなぜ尼なのか、毒=主の母なのか、慮る=母が子を思う気持ちという全てが一本の導線へと繋がりつつ・・空海と同じ事(独自の自己解釈)やってたとシンクロを感じたお話

般若=鬼面とは女性菩薩の事だったのか

またしてもFloating Storiesさんが空海を掘り下げ、『般若心経』についてを取り上げたのを見ていてシンクロニシティを感じた事がある

空海もまた『独自に般若心経を読み解きをしていた』という、私と『同じ軌跡(私が同じ軌跡)』を辿っていた事を知った…やっぱ『空海の霊場』を訪れ瞑想した後に観た夢で現れた『畳み掛けるように僧侶達に封印』されていた『平安の魔物』って『空海』だったんか?と(笑)

畳

六芒星

空海の霊場物語2 封印された平安の魔物(修験者)と尼僧の夢

不可思議な縁を感じたと同時に、『般若菩薩⁈』という初めての存在に驚いた

般若菩薩(はんにゃぼさつ)は、仏の悟りの智慧である「般若」を人格化・擬人化した密教特有の尊格です。智慧を生み出す母体であることから「仏母(ぶつも)」とも呼ばれ、大乗仏教の『大般若経』や『般若心経』の真髄を象徴する極めて重要な仏さま

『般若』といえば一般的には『怒れる女性の鬼の面』として『鬼扱い』されていたが、やはり鬼=般若の正体が『仏』だったのだと知り、私が『般若心経は女性の尼』、乃至、『神託のユタの預言』ではないのか?という方向性の読み解きも、「仏母(ぶつも)」という線でみれば外れてはいなかったと納悳

独覚法華経で読む 般若心經(阿呆陀羅經)

『般若心経』怒れる波女の神託の預言 声と目と身体的特徴と

私にとって鬼とは先人、云う鬼=『魂』の指導、『叱咤激励』のベビーシッターであり、叱咤は『シッタールタ=足るを知った仏陀』=『悟りを覚えた=覚悟』であると、つまり鬼=鬼籍=『亡き存在の仏様の世界』に入る

『鬼門』と向き合うとは、先人として仏に成った『成仏した魂=云う鬼』と向き合う『門前の小さな人』として『閃=知恵』を授かる

先祖供養=先の祖を人と共に養う
人=現代に『先の祖(古事成語、ことわざ)を共』にして『養う=恩古知新』で『知恵』を活かす

私は忌避された『禁忌(失われた言葉・意味)』の『鬼=地獄(塵、クズ、レッテルを貼られた存在)』と向き合ってきた。そのつど『クズ』と虐げられる存在と出逢ってきた

クズカゴの姫の夢

クズ(葛)とチリゴミ(塵)の 夢と死と月

心に素直に悳を積もう=『好奇心が示す方』へと進めば進むほど『地獄の苦を味わう』ように、黄泉の国=『訓みの国』の戒め=『訓戒を体感』してきた

賽の河原(自由意志の明晰夢)で『意志』を積み上げ「崩れない仏塔を築け」と云う鬼が『三和土(根底の土台)直す精神指導』を受けてきたが…

ごっこ遊びという獄卒な子(云う鬼)の夢

それは『仮面』をつけた『叱咤激励の仏』と向き合ってきたという事と考えると、観念=今の心を観るをしたら『即身成仏』

『即ち身は成る仏』で、仏の世界観を『身(五感)』を持ってこっちにいながらあっちを味わってきた『変性意識』(明晰夢)

…道理で臨む機会に応じて変わる『臨機応変』の方向が『和を足す知恵=苦楽を共にして極楽・気楽の道楽』に成る訳だ(笑)

臨界点を超える意識 九字護身法と臨機応変の間にあったもの

『答え合わせる』のではなく『知恵を加味』して『応え合わせる』事で『神仏一体』の建設的に『知恵の悳』を積んできた

だから空海のこの話はとても面白い『更なる発見』に繋がった

般若=女鬼面が菩薩=『仏母』か
毒=『主の母』だなぁ(笑)

『毒(地獄)を味合わせる』のは『毒の耐性』をつけさせて『大丈夫(薬師如来)』にする為か。『子供は風の子、元気な子』、過保護に育てるより自然を克服して「自然と友達になってこい」と送り出す

成程、成る過程には『地獄』もまた『臨んだ機会に応じて変わる』為の『必然の苦』だった

『心を鬼』にした神託の菩薩
『母』が『子の先世』を憂いて、必要な時に必要な形で現れ助ける『現一切色心三昧の顕現』

それが『知恵』という『活かす事』で『具現化される存在』

時にそれは『人』であり
時にそれは『道具』であり
時にそれは『物事』であり

全てはそれを『体感』する事で『自発的な気づき』を促す機会(転機)
『原典回帰』は時に『怪奇現象』で「なんで?どうして?」と不可思議な導き

一見道理が無い『無理=不可』に思う事も心と吾が向き合い『議論(自問自答)』する事で、心と吾=『悟りを覚え』、覚えた事を忘れないと『覚悟』ができる

さて、ここでまた気になったのが、動画の解説では『覚りへ至る道』という表現がされていた

『覚り』へ至る道と『悟り』へ至る道の違い

覚り(さとり)
悟り(さとり)

ここで面白いのは
『知識』を『理解して覚える』へ至るのか?
心に素直な吾が得た『体感』の『知恵を忘れない』へ至るのか?

『知識は与えられたもの』だが
知恵は『無いに有るを生み出したもの』

転じて『偽=不自然』と『真=自然』である

『偽物』には与えられないと『続き』は作れない
偽物の『元』は『既知の知識』であり『知識』を失えば『無』に還る

『形』あるものは『風化』し残ったものの一部を『再利用するSDGsの持続可能なロストテクノロジーの消耗』

しかし心と吾が『知恵』を想像して創造する『創作の知恵』を『閃く事を覚えた事=気楽・極楽・道楽』を忘れない『覚悟』を身につけると

『自然の知恵の循環』は失われない

だから『覚りへの道』と表現した時点で『悟り=心と吾の素直な道』は失われ、『習うより慣れろ』ができなくなる。

『既知の教え=知識を覚える道』を重んじる世界では『自発的な知恵を生み出す未知』は例外の霊害。『皆』でそうやって誤魔化し誤魔化し『習い合わせて知識の教え』を広めてきた宗教という『大乗仏教という固定概念』にとっては

根底から土台をひっくり返すような『破戒の知恵は既知外(キチガイ)』として破門や破壊僧、虚無僧として『門外漢』として追い払ってきた

故に、『日蓮』や『空海』はそういう『既存の宗教も一つの固定観念世界として加味』した上でほっといて、自らの共有できない『不可思議な体感の知恵=独自の経典』を生み出す

『密度=体感無くして理解なし』として『独自の説法』を次々と生み出していった
元は『同じ宗(示)』だが、自己表現の『完(元)成』が違う

それは時に照らし合わせて見る=『自照見』
観方は自に在る=『自在観』

生まれも育ちも環境も、周りに有る具現化された道具も言葉も『何もかも違う』からこそ、栄枯盛衰、万物流転しても揺るがない『三和土の土台の舎利石』は、いつの世も『臭いものに蓋された鬼門の禁忌に有る』と

『塵』にされ『鬼』と忌み嫌われた『仏達=先人達を供養』するとは、縁起の『起こりを承る』(授記)

すると始まる『起承転結』の『地獄に仏』の宿業

閃くとは『転機』である
つまり因果の『果ての縁の結び』が変わる

『承った縁起』を『転機』に応じて変わり『どこに結びつける』か?
それは拾い集めた『沙の意志(先人の知恵)の密度』によって『到達する高さ』は変わってくる

皆が集まる『ピラミッド(墓場)の頂点』を目指すのではなく、自分が『成りたい仏への道』を建設的に積み上げて高みへ至る

波羅蜜多は、私の中では『波の羅針の蜜(誘惑)が多い』と説く
誘い惑わせ迷わせ惑わせる(誘惑と迷惑=欲)

『欲の道』に進むもまたその程度
『欲を満たして手放す』と『別世界』が見える

欲を手放さないと『存在しない世界』
それは『欲に夢中』ではそういう『固定観念の世界の外』は

『既知外の未知』であり『例外』という目に見えない霊害として畏れ
だから『忌避して避けよう』とするのも『道理』

『先立つ者=成りたい仏=虚空蔵菩薩=理想』が明確に明晰に見えないのでは、ただ『死という固定観念の不思議』(原因不明の思考停止)

『即身成仏=生ながら仏の世界と繋がる』と自己表現した空海の時代に『五感』を持って『自分の意識』で『思い通りの念動力を使える明晰夢』という『共通表現の言葉』は存在しなかった

だから私は今までの『夢の体感密度の相似』の観点から、空海の言う『生きながら仏の世界と繋がる』とは、現代でいう『明晰夢の中』で『死の無い体感世界』で得られる『精神の成長をする密度の教え』と感じた

つまり『意識して別世界を観測する』という事を『空海もしていた』のだと…と感じた理由はもう一つわかった

顕教(理解度)と密教(体感密度)

空海は具現化された『目に見える物から知識を覚える事』を『顕教』と言ってたらしい

この『顕』という漢字は『顕現』という言葉を考えた時、目に見えなかったものや潜在していたものが、『はっきりと姿を現すこと』、または『形になって現れる』こと

これをそのままの意味で捉えると『何も無い所から急に物質が現れる具現化=水をワインに変えるようなキリストの奇蹟(鉄板ネタ)みたい』のように感じるかもしれない。

しかし、現代でもそんな『四次元ポケットから道具』を引き出したり、『物質転移のような物理は存在しない』ように、これは『違う意味=メタファー・例え・=の如く』である

目に見えなかったものや潜在していたものとは、『有るけど得ない=有り得ない』と『既知外に例外』として観て見ぬ振りして隠されてきた、『隠蔽されてきた知恵』やその知恵を生み出す何かの『元が現物=証拠』として世に出てくる事を示す

いくら『真理』を探していても意図的に『人の為として偽に封印』されている限り、そこに『意識して観測』しなければ見つける事も得る事もできなかった『原因(秘密・トップシークレット)を見つける事』で

必然的に『原因→結果』という『因果』が結びつく
『点と点が線』になって『無理が道理』になる

『目星』をつけていたものを『目の当たり』にする
原因不明、不思議と『言い逃れ』はできない、それが『顕現』することで『皆の意識』が変わる

が!これもまた『知識=パターン』で『偽が模倣=成りすまし』することができる『ブルービーム計画』

つまり『すり替える事』で『誤魔化しや更なる隠蔽も可能』だから、『顕現=開示』は『皆の大乗仏教(無知蒙昧の盲信)という界隈では有効』だが

『密教(体感密度)』とは違う
それが『有る事を先世見』で気づいてる
そういう事を『する流れがある』と気づいてる

『体感』して『骨身』に染みて『筋を動かす骨(コツ)』に気づいてるから、『大乗仏教=他力本願』だとそこに『釈迦』はいない

いるとするなら『金剛界の釈迦』
『都合のいい問題解決の知恵=自己防衛』

明晰夢の世界は『主観』であり起きている物事にどう『関わるか?』どう『解決するか?』自分の『役目はなんだ?』何をすれば『完成する?』

全てが『自力の念動力=今の心を動かす力として影響』し、その世界に『自分勝手な自己都合の悪意を創造』した時、それは『自業自得の因果応報』として『自分が追放される事』になる

それが『即身成仏で繋がった仏の世界』なら、私は仏に成るには『未だ早い』と、何度も『現実に意識を戻される』ように

『失敗の密度』を重ね、何が『失敗だったかを記録(夢日記)』して、「次は同じ失敗をしない」と『精神』に刻み、何度もその『仮想世界をトライアンドエラーを繰り返す』ほどに

『夢の中で塵になった自分の密度』が『現実の自分の生き様』に刻み込まれ、いつでも『その精神(覚悟)』を持つように成り、もはや『職業病』のように『常にそれと向き合っている状態』

になると、『変性意識』という『夢と現の間』にて様々な世界観を『観測した記憶を持ち帰れる』ようになった。つまり、『知識』ではなく、その度に『違う環境の体感』で自然に『密度=熟練の心構え』になっていった訳で

顕現は『結果』で有り
密度は『成る過程=成程』=納悳

心に納めた『悳=心に素直になった吾が覚えた覚悟』を『言葉に顕現』して知識にした所で体感無ければ『机上の空論』

つまり『誰かに伝える為に体感が有る訳では無い』が、その体感を『不可思議』だと、何故?なんで?と可能性=好奇心を持って実践してみよう!と『自ら己で探究』しようとする者には…

空海の霊場に行って瞑想した後に、夢に現れた封印された平安の魔物と呼ばれた修験者が

魔物

「魔を祓う者はいないか?」と言った言葉に『好奇心で参加を表明した私』のように、『密教』は『夢を通して伝わる知恵』なのかもしれない

空海が捉えた意識フォーカスレベル

西洋で意識の探究の先駆者と言われたロバートモンローが明晰夢体験で見てきた世界を『意識レベルでフォーカス』したように

導かれし先人の軌跡 ロバート・モンローを意識して観測したらスターゲイトに繋がった(笑)

空海もまた同じように捉えている事がわかって、いよいよこれは『明晰夢の意識の観測世界』は、この世のものでは無い『多次元世界の存在が有る事の証明』と感じた

空海意識

この図を元に『過去に私の魂の年齢』で見た世界観との相関と『最近の私の意識の観測領域』がどこに有るかを照らし合わせてみよう

魂の年齢 霊格レベルを調べてみたら・・

魂の年齢が透けて見えるSNS

1ー3 幼年期から若年期の段階

おそらく空海は『幼少期から達観』していたから、1〜3の中で『無知蒙昧な他人を食い物にする若年期』という精神段階をすっ飛ばしてる(笑)

4ー6 自他の境界線

自我を意識しない=『周り』が見える
原因と結果では因果法則を観た時、その中で救いを求める=『格差』に気づき

因果関係『不明』と歪められてる『流れを正す=結果的に他者を救う』という役目に向き合う時、『都合よく求められた救い主に成る』という事は『自己犠牲』であるという『献身と奉仕の中』で『地獄の苦』を味わう

ここが私が『賽の河原で意志を三和土直される』という、『心を鬼にした先人達』と繋がる中で、その体感は『慈悲』であり『知恵の恩恵』として、『難が有るのは有り難い』という『苦の先』の『楽を共に養う段階』で『自己犠牲』から『自己を労る方向』へと『心の転機』が訪れる領域

7ー9 概念との対立を超越

偽物=『人の為』というのは『仮面をつけた鬼=仏』もまた同じで、『叱咤激励』は『成長を促す人の為』に必要。『自力』でその『縁の下の力持ち』という『自然の恩恵』に気づく事で『先人の苦を労う』ように成る

すると1ー6の無知蒙昧の『盲信』や『価値観の押し付け』から『痛い目』にはあいながらも、『自己反省』し、今度は『救う為の知恵を与える』も、既知外として『罵倒を受ける地獄巡り』の意識の観測世界も無ければ

『この仏の境地には至る事』はできない『密度の積み重ねの三和土』なのだと、根底に有る清らかな心=自己を労る=自然の流れ=縁の下の力持ちの正体は

『成りたい仏=虚空蔵菩薩』として『成仏』して自然に還った『一つの巨大な意識』であり、その後巨大な意識が気を巡らせて与える恩恵こそが『現一切色心三昧』として『人、道具、物事』として必要な環境に必要な形で顕現している『縁間の采配』

それは『時の中で風化』してはまた何かに変わり、絶え間なく『縁起として循環』している…という意志の段階までは私もたまに行く(笑)

行くけど『戻ってくる』って事は、それは『そういう領域が有る』という、『一つの知恵』として『認識を改める閃きのきっかけ』に過ぎないが

『体感で有ると感じた世界』を『得る』
『有り得る=可能性』として『根底が変わる』といずれは『10に至る』のかもしれないが…

今はもう『6の領域=人の為に自己犠牲になる事を美徳』とする『救世主になるという世界』は興味が無くなったので、『7.8.9の意識の観測世界』を明晰夢で行ったり来たりしてる感じ(あくまでも体感密度)

この領域の夢は『悪意の波動が全くない』から「もうここが極楽でいいよww」という、観れればラッキー…だが、観る為に現実で成すべきを為す、心に素直に悳を積む『業の回収』が有る

業(カルマ)は借る間のお話

ま、好奇心が「それだけやればいいよ」と導くので、逆に『それ以外の事』をしようとすると…『心』を『吾が裏切った』と『悪夢』で『因果応報』を見せられる『苦行』

その都度、起きて自己反省して、『心に吾がついていく事を覚える=覚悟』を決める。空海がこの『10段階の意識フォーカスレベル』を『全部密教』というのも、それは『三和土直して密度を上げる教えの登龍門』としてどれひとつ『無駄はない』と感じるからだと思う

『愚か者』でなければ『賢者』にもなれんし、『賢者という愚か者』になって初めて『愚か者の密度の素晴らしさを失って気づく事』もあるように

賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ ――その解釈の間違いは「密度」にある

1~10というが、その数字の並びの『ランク』すら実は意味がない

私の夢見の体感で不可思議なのは…これらの階層は『夢の中』で『多段階に見え方を変える事が有る』という事

例えば最近の明晰夢を例にすると

庭の蛇に草刈り婆とタンクメンテの青年の夢

最初は二匹の蛇の共食い(ウロボロス)
次は手入れされてない環境を整える人
人に関わりたく無いが感謝を伝えると喜ぶ奉仕の精神の存在

これを空海のフォーカスレベルに当てはめると

1→5→7→8
これが『一つの明晰夢』の中で私の今の心が動く力=『念動力で変容』している『対象に向ける観測の意識』が詳細な洞察=相手の行動や言動に『応じて心が変わっていく』

好奇心→心配→『感謝』
怪しい→敵対→興味→『感謝』

『心』が見せた景色が『明晰夢』なら
『吾』は『機会に素直に応じて変化』している

最終的に『心と吾』が『恩恵に感謝で一致した事を覚えた』時、『精霊』とは『先人達』が『職人として成すべきを為す自然の循環の風土、風流の中に在る』と見えないけど『潜在的に存在した流れ』を『言葉として顕現』して供養した

これは『9』の領域
世界の本質は『絶え間なく変化』している『変性意識そのもの』

これに該当すると思うのは実際に『明晰夢でそれを身に沁みて来た』から

という事はだ?

それらは『空海の時代』の『意識で観測した顕現された世界観の反映で例えられた見え方』であって、『空海と同じような事を体験』している私は『現代の知識や知恵、顕現されたテクノロジー』という『環境から感じた影響』で観念して観世音している『フィードバックで明晰夢の世界』が見えている

最近もただのゲームが『悟りを覚える=覚悟のきっかけ』になったように何が『顕現』してくるのか予想はできない

港湾シミュレーターDOCEDから学ぶ『和を持って尊しの建設的な設計』

『法則』は『繰り返す相似』でも『全く同じ世界では無い』からこそ、先の祖として供養して宿した先人達も『未知の世界を共にワクワク』している

必然的に『好奇心=心が前』になり、先人達も『未だ知らない領域』へ『想像(既知の再解釈)と創造』で『新しい多次元世界』が生まれる

事実、空海も私も独自に般若心経=仏母の気持ちを読み取ったが
途中から解釈はあれ~?wwと違う方向に行ったから面白い

どちらが『答えが正解』とかではなく、『違う世界を観測する方向』に分かれただけ
空海はより仏の世界の解釈に寄ったが、私は「まじないなんてマジないww」という

「真言と念仏は違うよ?」という方向性がわかれた
これは、以前私が明晰夢の中で「想念と意識は違うよ?」と伝えられた法則に似ている

感覚的量子論4 意識と想念は違うよ?と言われた夢

そうなんだよね、そう・・念仏=『呪文』という解釈は非常に『霊感商法』的だ
文字に力があるという『声字実相義』を伝えた空海の意図もわかる

・・わかるが、なんだろうこの・・『若気の至り』感・・
空海も『思い込みが強かった』のかもしれないこの感じ

そして、周りに『同じ意識レベルで達観した世界を観測』できる人=話が通じる人がいなかった孤高の悲しみ
『現代』じゃないと『意識の観測世界』なんて完全に話があわねーだろうよww

という意味では、やはり『空海の(狸の筆)』を『夢で買った』事で、『妙な見方の訳詞の如く来る狸』になったのもかもね

法華経との縁 空海の筆と八代龍神の夢

釈迦の三千世界
『問題に巡り合い解決する』という『難が有るから有り難い世界』とは…
『鬼も仏』も『加味』して宿し『苦楽を共』にする『自悟苦楽』(笑)

妙な見方の妙見狸の訳詞如来として
『DNA(先人の知恵)』をどう『mRNA(翻訳)』するか

訳詞如来とmRNA 〜足りないを和足す変異の説法〜

次はどんな『シンクロニシティ=鬼か仏の試練が顕現』されるのか、オラワクワクすっぞ!

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