好奇心

直感・閃き・気になる事探究を楽しむ

思い出すとは思慮深く心の受け皿の沙を出して和足す事

『形はお釈迦』に壊れ、『存在はお陀仏』に崩れ去り『熄滅』し『自らの心』という『息』を引き取った後、その心に貯まった『体感という沙の粒子=龍子』を思いから出す=『息を吹き返す=流れ・龍が立つ』。『消化した物事』から『昇華』し、『至らなかった物事』は『フィルタ(魂の戒め、賽の河原の意志積みの三和土直し)』で削ぎ落とされ、『至った心』を『吾』が得て『悟』って『心の受け皿から解脱』する時・・『更生』して『甦る龍の子=沙の粒子』なお話

思い出すとは

一般的には『脳の記憶』をロードする事だと言われている

私の『独自体感』から得た『独自解釈』は違う

そもそも『思』とは『格子のフィルタ』+『受け皿の心』
それをさらに『思慮』深くするとフィルタは更には『細かい網目』になる

嘘→口+虚(にされた配当外漢字) →光子ネット(思慮深さ)は嘘を見抜く

結果、『心に貯まる』のはとても細かく細分化された『沙のような粒子』になる

『篩(フィルタ)で振るい』にかけられた
『物事(物理)を動かす精神』のようなもの

簡単に感嘆を込めて言えば
その『役割・立場でしか得られない体感』

『形はお釈迦』に壊れ、『存在はお陀仏』に崩れ去り『熄滅』し『自らの心』という『息』を引き取った後

その心に貯まった『体感という沙の粒子=龍子』を思いから出す=『息を吹き返す=流れ・龍が立つ』

『消化した物事』から『昇華』する

『至らなかった物事』は『フィルタ(魂の戒め、賽の河原の意志積みの三和土直し)』で削ぎ落とされ

『至った心』を『吾』が得て『悟』って『心の受け皿から解脱』する時

『更生』して『甦る』

心に貯まった『体感を和足す』為に
『役目・役割』という『宿題』を持って『再び生きる=再生』

それが思い出す=『引き出し』であり
それは無駄な事を『一切を気にしない』から
結果的に『心が求める引き寄せ』に感じる

ただ『迷わない』だけ

迷い惑わされてる『迷惑』を被っている人達=『皆苦』からすれば、それらに『一切』干渉しないで『物事がスムース』に行ってるように見えるから

『シンクロニシティ』という『客観的評価』で
『形無き物事』に『形』をつけて『悟』を『理解』しようとする

もちろん、今の私も『ユング』が提唱したシンクロニシティという言葉は、『共感を伝える意味』では利用している『道具(言葉の定着法則)』に過ぎない

だが、ユング事態が『自分の夢体験』ではなく、『他人の夢の記録を検証』した『物理的な理解』にした時点で

それは『思う=通過点(フィルタ)』に過ぎない
『莫迦=夢中な夢』という世界への『入口』のひとつ

莫迦のひとつ覚え──夢と意識が世界を生む場所

『漠然として解らない』けどそれは『自然に有る』
『無いものを有る』と『違和感』を感じてる
『体感』はあるけどまだ『自己解釈』ができない

そういう人達が『集まるきっかけ』

だけど、『自己探求』という『世界に唯一無二の存在』として『自己認識』にしている『今の心=念』が『自ら己と向き合う方向』に『思慮深く』進む時

それは『自分・自我』ですら、『役目・役割』を持った『物』であり『事』である『形』だから、『自我を捨てる必要』が出てくる

ここで『観念=今の心を観る』をすれば仏の導き→『釈迦と向き合う事』になる

「大丈夫!」という『安心、心が穏やか』になる為に

『何=人の可能性』を持って『心は満たされる』のだ?という
『自発』的な『自己表現の検証』の『独自体験』が始まる

例えば、仏陀は『肉体的な苦行』を選択した
これはその『体感で何を得られるか』を『足りない』を知りたかっただけ

苦行を止めたのは、知りたかった事を知って『足るを知って満足』した

足るを知った=シッダールタ=仏陀

『言葉が存在』となり『意味』となり
『人足る由縁』の『形はお釈迦にお陀仏』して『熄滅』しても

『自らの心に残る』からこそ
『息』を吹き返す=『思い出す』

「あれは…意味が無い事が有った(笑)」
生まれ変わってももう『苦行は必要ない』

『次の元=次元』に『意識の観測』をしようと『ほっとく(仏悳)』

それでも釈迦が体験した『世界=跡は遺る』から、その『跡』を継いで『辿ったもの=弥勒』が、後にどんな『自己表現の自己解釈=自ら己で釈迦を解く』をするか?

それを『虚空蔵菩薩』として見守っている
その『心の沙』を思い出したら…『全ては夢』だった

『自由意志の想像の創造』を赦した立場から、『好奇心と意欲』が生まれ、それを邪魔せず『やりたい事をさせる云う鬼=魂』が付き従う

そんな景色=夢だった

夢の体感の後に理解したストループ効果?

『夢と現実』を行き来しているのは『弥勒』
夢も現実も『多次元世界解釈』を与えて遊ばせてる

『心の中の世界は穏やか』だった

…と思い出したことで

『何の物事』でも『思慮深く』捉えれば、そこには『自由意志』とそれを『時に先導』し時に『戒める魂』のエネルギーの根源は

『心という受け皿の元』に戻ってくる『粒子』
『龍の子は龍』となりまた『龍・流れ』を生む

『万教帰一』なのだと『気づき=鬼月』
また今日も『納悳を持って心の家』に帰る

…けど納悳して『気締め』がついて『悟って解脱』したら『また始まる』んだろうなと(次元)

レッツ禁断!禁忌の封印へε≡≡ヘ( ´Д`)ノ好奇心へ
ε≡≡ヘ( º言º)ノ待てコラ魂ε≡≡ヘ( ´Д`)ノ意欲

それを見て、釈迦は思う

「探せ…この世の全てをそこ(心)に置いてきた」

ʅ(´=c_,=`)ʃ後にここに来るが未だ早い、急がば回れ、龍の子=粒子よ

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